89 水の戯れ 「それは : : : 少し急ぎすぎでしたね、アルジェ」 長い溜め息を、一つ。ォルヴィはひざまずく青年に向けて吐く。白いマントに身を包んだ青 年は、その声の調子に身を固くしていっそう深く頭を下げた。 「それに一一度続けたのも、あまり褒められないかな。まあそれも、私の教え方が良くなかった とい、つことだけど」 「申し訳ございません。強く、異質な力を感してしまったものですからー 恐縮しきった声に、オルヴィはふっと笑みを漏らす。 なぐ ュサはもう一つ殴って彼の腕の中から包みの片方を奪い取り、さっさと歩き始めた。 「ああああああュサつ、待って下さいー それ、勝手に持って行かないでくださーい」 だーっと駆け足になって、シェリアークはユサを追いかける。 もん たく : : : 食い物一つで浮かれてんじゃねえよっ あき 呆れ果てたみたいな声と言い訳を繰り返す声とが、しばらくのあいだ見送る少女と少年の耳 にきこえていたが。 後ろ姿が見えなくなると同時に、届かなくなった。
しい。けれどュサはまったく気がっかないみたいに、聞き耳を立てていた。全身が緊張してい る。目を細くして、しっと、神経を聴覚に集中させて。 その様子に、シェリアークももがくのをやめ一緒に耳を澄ませる。 ふっと風が木々を揺らし、何かが耳をかすめる。 声 ? 直感して、シェリアークがユサを見上げようとした矢先。 ュサの手は彼の頭を突き放し、置き去りにして駆けだしていた。 「ユサっ あわ 慌ててシェリアークは、ユサの後を追う。徒歩三十歩だった距離は、駆け足だと十七歩と半 分になった。 森を造っている木々の最後の一本を抜けて、ユサと同じ方向に折れる。 声が、確かに聞こえた。言葉の形をとらない悲鳴、わめく声。恐怖。 駆けながら、不安が湧き上がるのを感した。独特の空気を感じる。水の、どんよりと澱んだ 存在を。 れ 戯「まさかねえ : ・ つぶや 水 そ、フ、自分に言い聞かせるよ、フにシェリアークは呟くが 「そんなはす : : : っ卩 よど
び、彼は苦しげに眉を寄せうつむく。が 「今すぐ、家々にある松明を準備せよ。かがり火を焚き、村の門を閉じる」 ほ、つ」、つ 再び顔を上げたとき、ロムスは力強く命じた。動揺の声と、咆哮にも似た強い声がそこここ から上がる。 きびす 人々は動きだし、シェリアークはその様子を確かめると、村の門の方へと再び踵を返した。 ロムスは参道に向かおうとするアドルの肩を、ぐっと擱んで振り向かせる。 こころもと 「お前だけでは心許無い、私も説明のために行こう。先に、松明と武器を準備してからだ。少 しだけ待て」 言い置いて、彼は家へと向かった。アドルは父親の背中を見つめて、ようやくほうっと息を 「 : : : よかった : つぶや 顔を、手で押さえて呟いた。間に合って、無事で、ちょっと涙が出そうだ。左手に触れる剣 の柄を握った。 ようしゃ れぶつきらばうで全然容赦なくて、痛いくらいの事実を平然と突きつけてきた低い声を、思い のだす。 「アドル : : : 何があったっての ? 術が、失敗したって、それ」 輿から降りて不安をあらわにして近づいてくるサーザを、彼は軽く息を吸って、とめて、見 こし まゆ つか
しずく 降り注ぐ雫に、黒い魍魎が奇妙な動きを見せた。どろりと姿を崩しながら、のたうち始めた のだ。 「セイ・ : : ・」 シェリアークは尚も、呪を唱えていた。もだえる魍魎の姿も、その現象に驚いている人々 も、見すに。 やがて。 魍魎が霧散した。 のたうっていたものも、雫を浴びずに激しい動きを見せていたものも、切り刻まれ小片とな って地面に散らばっていたものも。すべて。 いなくなった。 ほんの、一瞬のことだった。 しんと : : : 静まり返る。 声という声がすべて飲み込まれて、ただ静寂が、村を包んだ。 れ 誰もがたった一人を見つめている。銀色の髪を三つに編んだ、若い術士を。 むらおさ っしか包丁を手に外に出てきていた妻の肩をいたわる の最初に動いたのは、村長であった。い よ、フにそっと叩き、シェリアークの前に立つ。 「セイ : : : 今のは : : : 君が・ : ? むさん くず
222 「うわあああああ 何が起こったのか、オルヴィには理解できなかった。耳を打っ悲鳴は、自身の弟子たちのも のだ。 すさまじい力に突き飛ばされた、そんな、感覚。気がつけば、地面に座り込んでいる自分が ュサが、立ち上がっていた。どうやって一一人の男の腕を振りほどいたのか、剣を構えて青い 瞳に殺気を宿していオルヴィに向き合っている。 あか したた 紅く、刃は染まっていた。滴り落ちるのは、血か 「うあ・ : ・ : あっ : : : 先生 : ・ うめ 呻くアルジェの声に、オルヴィはぎこちなくそちらを向く。 うすくまり、腕を抱え込むようにして、アルジェは地面に転がっていた。 土を、草を赤い血が汚していく。 同様に、倒れるモースの姿を見た。腕を、切られて。歯を食いしばって声を殺している。 「人の、身体で。よくも遊んで ・ : ・ : くれたなあ : : : 」 荒く、息をついて。ュサは剣の切っ先をオルヴィに向ける。サークレットの白銀は、今は全 体が黒ずみ始めていた。
165 水の戯れ 「俺はいらねえって」 サーザの手を除けて身を乗り出してくる彼を、手で払うようにして避け、ユサは食堂を後に する。 「うそー。ュサあ、人生のヨロコビの半分無駄にしてますよー シェリアークの声が後ろから追って来るのに、彼は「ああ、そうかよ . と声だけで答えた。 「 : : : 信しられないー 、デザートいらないなんてー。ねえ」 「そうですね。でもそれより」 すとんと座り直したシェリアークの手を、サーザはどこか必死のまなざしでまた、包み込 「あの、セイさま。小社にいらっしやって下さい。私、中を案内して差し上げます うなず アドルはそんな彼女と、押されて結局頷いてしまうシェリアークとを、食事を一人進めなが らちらちらと追っていた。 む。 夜が、村を包んでいた。満月にはわすかに欠ける月が、見上げる位置にある。天上の星はそ の明るい輝きにかすんでいた。
少年の声は、もう形にはならなかった。しゅうっと伸びた魍魎の先端が、少女の手首に絡み 止まれ。 シェリアークを、その思いが満たした。 この水を、止めなくてはならない。 「アドルっー 「一千でどうだ ? ュサの声が、魍魎からは離れた位置で、少女に向かって話しかけるのが耳をかすめたが。 「それで助けてやるけど。どうする ? 」 じゅ ひざ シェリアークは膝を突き両手を胸の位置で構え、呪の一つの形を唱えはじめた。 いのち 「・・・風の渦・ : ・ : うねる生命よ・・ つむ 言葉が呪を空に紡ぎ、輝きを持っ文様が形となって生み出される。同時に風が、彼を中心に して動きだした。 れ かたまり てのひら 戯掌の中で、文様は膨らみ光の塊となる。空気の流れがその光の中へと収束していく。広がり 水膨れる呪の形、それを。 シェリアークは地面へと向ける。輝きはなお風を掴みながら、土の中に溶けていった。 ふく つか
くなりつつあった。 「・ : : ・きりが、ない うめ も、つり・よう 呻くような声が、上がる。もう限界が近かった。人々は疲労し、魍魎は限りがないみたいに 次々に村にたどり着く。 「参道に入りやがったぞ " ・ 悲鳴が、奥の方から上がる。アドルは剣を握り直し、だっと小社の方に駆けだした。 「アドルっ ! 」 たいまっ 聞き知った声に、ぎよっとして足が止まる。サーザが松明と弓を持って、家を飛び出してき えもの ていた。否、サーザだけではない、次々に、女や子供がそれぞれに得物を手に出てきている。 「ばかっ ! 何やってる ! 家に入っていろ」 「だって、参道に魍魎が入り込んだって ! 私も、戦えるわ ! アドルより弓の腕は上なんだ か、ら 「 : : : なに、言ってるんだよ ! お前は女だろうがー 「このまま家に隠れていたって、アドルたちがカつきてしまったら、私たちは家にいるままで 飲み込まれてしまうのよ ! そんなの嫌よっ 頑として動かない。そんな顔だった。村の正門へ、裏手へ、東西の柵へと散る誰もが、同じ 表情で駆けてゆく がん いな さく
何か、知って ? 「 : : : アドル : 知らす、小さくつぶやきを漏らしたそこに。 「時間だ」 村長の重く低い声が、静まった人々の耳に届いた。小さなざわめきと共に人々は立ち上が り、サーザは輿に座ったままで高い位置につく。 「出発の太鼓を , うなず ばち 村長は留守居役の男性にこくりと頷きかけた。撥を持った男性は、大きな動作で腕を振り上 げ、一度腕を止める。 「だめだ ! 」 馬に乗ったまま駆けてくるアドルの、悲鳴にも似た叫び声の方が、太鼓の鳴る音よりも早か 「今村の外に出ちゃだめだリ れ「アドルっ の人々の驚きの声が上がる中、彼はまっしぐらに父親である村長の元に馬を運び、止めると同 時に飛び下りた。一歩遅れて、シェリアークも村人のところに到達する。 アドルはロムスの前に立ち、激しい口調で訴えた。 たいこ
「あのお、ごめんなさいアドル。こんな状況で、訊いていいのかわかんないんですけどお。ど うしてオルヴィの術が失敗したか、わかりますかあ ? 街道を一直線に駆けさせながら、シェリアークはおずおすとアドルに尋ねる。アドルはきっ く手綱を握りしめ、少しの間があってからロを開いた。 ほらあな 「俺が : ・ : ・洞穴を、崩したんだ。サーザを、巫女にしたくなくて。それで、祭りができなくな つきつぎ れば月嗣も流れるって思って」 「ええええ、んっ卩 「レアル師 : : : 昨日俺が、悩んでるのを、気遣ってくれて。それで、相談したら : : : そうしょ うって。ちょっと崩しただけなら、大丈夫だし、祭りを中止してから : : : もう一度、術は施せ るって : れ シェリア 1 クは声もなく、横を走るアドルの青ざめて血の気のない横顔を見つめる。 の「まさか : : : あんなに、なるなんて。入り口が完全につれてしまうなんて、思わなかった」 「そんな : : : こと。ォルヴィがそんな : : : ばかな : あえぐみたいな声が、シュリアークの唇から漏れた。手網をつかむ手が、知らす震える。 たづな ほどこ