ズボンえり ししゅうほどこ 彼は、刺繍が施された洋袴と襟と袖のない上着の上に、ゆったりとしたマントをつけ、膝下 までのプーツを履いていた。むきだしの腕には見事な彫刻の飾り輪をはめ、長めの髪はさらり と自然に流したままで、当節のようにあぶらで固めたりした感じはない。 その顔立ちは、鼻筋がすっきりと通っていて、涼しげな感じを見るものに与える。若く、二 十歳を少しばかり越えたぐらいに見える。そうして、色のない全身の中で、唯一まぶしいばか そうばう りの色彩を放っているのが、彼の双眸であった。 し、 ) ろ・ サファイア 海よりも深く、空よりも高い、至高の青ーー濡れた青玉。 ルーナは惚れ惚れと、男を見つめた。その黒い瞳の中には、誰が見ても間違いようもない、 激しい炎のような思慕の念が見て取れた。 ゅうれい この幽霊がごとき男は、その瞳が語るとおり、彼女の恋人である。 かんば 二年ほどまえに、彼女の持っ強大な魔力のほどを看破し、男が助力を求めたのが出会い。そ ほろ けんしんてき おのれめつ の後、たがいに己を滅するはどの献身的な愛を示して、いまでは滅びをともにする誓いを立て 城たほどの仲であった。 て男は名をグーリアスと言う。 の本名ではない。いまはなき古い国の言葉でそれは、『生きていて死んでいる者』を指し示す。 じんじよう 世 一見して明らかなごとく、彼は尋常な人間ではない。目にしたものがいれば、幽霊と思う その名が示すように。 であろう。だが、彼は完全に死んではいない
すそ 背中から吹き寄せる風に服の裾が、飛ぶのが下手な鳥のようにばたばたとはためいている。 ズボン ふく ゆったりと膨らんだ洋袴も同様。 彼女が着ているのは、動きやすい船乗りの服である。出航当初は、十八の娘らしい簡単な造 ひもぞうり ししゅうそで りながら楚々とした美しい刺繍を袖や裾にあしらった服に、紐草履を身につけていたが、船の ぶこっ 上では実用的ではないと知り、着替えたのだった。今彼女の足元を飾るのは、無骨な革靴であ ルーナは桟を離れると、メインマストに寄り、慣れた手つきでするすると上へ昇って行っ あた さえぎ たど た。てつべんの見張り台に辿りつくと、日差しを遮るように手をかざし、辺りをぐるりと見渡 真っ白な雲が、船が進むのと同方向へ流れていく。青い空を振り仰げば、吸い込まれていき へさき そうな、そんな感覚を覚える。そうして、船首を見れば、舳先に飾られた人魚像と軸を同じく する洋上に、何かがまるで道案内をするがごとく、泳ぎ進んでいるのが見えた。 だがこのときにはもはや、先に感じた奇妙な違和感は失せていた。 ひぎ 「気のせいだったのかしら : : : 」膝をかかえるようにして狭い見張台で座り込むと、ルーナは ため息をついた。「ああ : : : それにしても、海の上って退屈 : : : 」 「ーーー人間は、陸にすむものだからな」 とうとっ 唐突に、そう声が頭上から降った。マストの頂上にいる彼女の上にである。だが、ルーナに へた
む ぎよしゃ えている。そして、御者の体には肉がなく、骨が剥き出しで、全身が青く輝いていた。 馬車は船の真上で止まると、扉を開いた。 なんとも一一一一口えぬ素晴らしい香りが、そこから漂い出てルーナの鼻をくすぐった。 たましい 船から昇る青い炎がひとつ、その中に吸い込まれた。次々と離れて行く魂の炎が、同じよ うに一扉をくぐる。 なぜだかわからぬが、涙が出た。 みちび 馬車の正体は、わかっていた。魂を、死の王国へと導く者だ。 永遠の安らぎの国。 ぎいあく 彼らは全ての苦しみから解放され、召されるのだろうか ? それとも、生前の罪悪のいかん によって、苦しみが続くのだろうか ? 死の王国がどのようなところなのかは、詳しいことはわかっていない てんせい 転生したものも、前世の記憶を保っていたとしても、死の王国に関する事柄だけは憶えては 城いないのだという。 て うたかたの夢のごとき国なのかもしれない。 果 界最後のひとつが吸い込まれるまで、ルーナは馬車を見上げたままだった。 むち 世 馬車は扉をしめると、ながい鞭を振るった。 馬がいななく。 ことがら
162 みじん グーリアスの瞳は、暗く沈んでいた。そこに勝利の喜びは微塵もない。 「すまんな」 つぶやいた彼の言葉は、誰にも聞こえはしなかった。 背後で奇妙な気配がするのに気がついて、ルーナは振り返って甲板を見た。 「うわあ : : : 」 かんたん そんな感嘆の声が上がるのも無理はない光景が、そこにはあった。 ぎっしりと、無理やりに詰め込まれたような甲板の上の亡者の一人一人がいま、青く燃えて 遠い遠い星の輝きのように。 どこまでも清らかで美しい、純粋な輝き。 そのうちのひとつが、ゆっくりと空に浮き上がった。後を追うように、ひとっふたっと続 めぐ 遠くで馬のいななきが聞こえ、ルーナは首を巡らせた。 東の空に、ばつりと赤い輝きが浮かんだかと思うと、みるみる近づいてくるのがわかった。 馬車である。四頭立ての立派なものだ。それが、天を走るようにやってくる。 まと ただの馬車ではない。四輪は青い炎を纏い、車を引く漆黒の馬のたてがみは真っ赤な炎と燃 しつ、 ) く
背中の男の真っ赤な口が笑みを浮かべた。 がーーー瞬転、それは叫びに変わっていた , 突然、その胸を天から銛に突き刺されたのだ ! グーリアスであった。 めくら 彼が投げた銛は、目眩ましであった。 グーリアスは反撃を予想していた。妖魔の恐ろしさは身をもって知っている彼である。それ さかて を逆手に取った。 オーディスの放った雷は銛を焼いたが、その輝きは妖魔自身の目もくらませ、ほば同時に闇 とら おど 空へ身を躍らせたグーリアスの姿を捉えそこなわせたのだ。 血が吹き出した。それが赤いことにグーリアスは違和感を覚えた。 やみくもに振り回された手の爪が、腹を浅く裂く。 「グーリアスっ ! 」 ルーナの叫びが闇に響いた。 第二撃が来る前に、グーリアスは後ろに飛び退いた。 背の男は銛に手をかけ、引き抜こうともがいている。 かぎづめ だが、抜けぬ。鉤爪のように、鯨の体に突き刺さっているからだ。 「グーリアス ! そいつの急所は、その男の付け根よ ! 」
もはや、カは感じぬ。 「奴が逃げる ! 」 遠く背後から『案内人』の声がかかる。 わかっているさ。逃がしはしな、 世界の果てに行くために。 ルーナとともに生きるために。 それに : : これ以上、私と同じ苦しみを味わうものを増やしてなるものか。 幽霊船がついにオーディスに並んだ。 わき しまやすぐ脇にある。 真っ黒な巨体は、、 小走りにグーリアスは船縁に近づき、手に足を掛けた。 この船が、妖魔の走りが巻き起こしているのだ。なんとい 風が強い。自然のものではない。 , っ速さー グーリアスがやおら一本の銛を振りかぶると投げ撃った。 矢のごとき速さで闇を走る。それは光にも似た。 かいじん だがそれは、突き刺さる前に灰塵と化して風に流れた。 雷が数条、直撃したのである。 妖気を完全に抑えきれてはいないのだ。
ちぢ 《カ》を、網のように広げ、包み込むように縮めていく。 ほう、一ら - 妖魔の咆哮が上がる。 封じ込まれた雷が行き場を失い、己の体に刺さった銛に落ちる。 肉の焼ける臭いが漂う。 ルーナはさらに妖魔の力を抑えにかかる。 みずか グーリアスは船首に立ち、自らのカで体を焼かれる妖魔をじっと見ていた。 たずさ 風が髪を、マントを背後へとなびかせる。両の手に一本すっ銛を携え、彫像のように動か ぬ。だが、その青い瞳は何かに飢えているかのようにギラギラと輝いていた。 さと もはや銛を投げることはしなかった。遠くから撃ち込んでも、ものの役にはたたぬことを悟 ったのだ。 銛の根元に繋がれていた綱はいまは緩み、垂れ下がっている。 城 いまや、幽霊船のほうが速い。 の りんこう 突き刺さった銛が燐光を発して、妖魔の位置を教えてくれている。背中に生やした男の赤い 界目も。 世 オーディスが雷を発しなくなった。 ルーナに、完全に妖気を抑え込まれたのだ。 にお つな つな おのれ ゆる
「おい ! 奴の始末を任せるぞ ! 」 『案内人』が突然言うのが聞こえた。 「俺は後部にいって船を操る。だから、おまえが奴を倒してくれ ! 」 グーリアスは頷く。余計なことは言わぬ。 ひるがえ 『案内人』は身を翻すと、落ちかかる稲妻を避けて走り去った。 無論、ルーナも援護をする。 グーリアスは再び銛を放る。それはオーディスの鯨のほうの目に刺さり、妖魔をのたうたせ 『案内人』が舵輪に取り付くと、船の速度が急激に上がった。 しりもち 危うく尻餅をつくところ。 、いっかな縮まらなかった両者の距離が見る見る縮まっていくのがわかる。 後手に回り そうせん オーディスが起こした局地的な高波が、すぐ脇を過ぎていく。『案内人』の操船の腕のおか かみなり 降り注ぐ雷はルーナが《カ》で中和を続ける。 わかってきた。効率のよいやり方が。 余裕の出てきたルーナは、オーディスの妖気そのものを抑えにかかった。 うまくいけば、放たれる雷をひとつひとっ潰していく、といった手間はいらなくなる。 ? ) 0 つぶ
ディス」 もり 言って、『案内人』は手にしていた銛を振りかぶった。骨の透けた背中に、筋肉が盛り上が る。 と、しなった枝が戻るがごとく、弾けるように腕が振り下ろされ、銛が矢のように闇を裂い て走る。 妖魔の叫び声が上がる。 見事に命中したのだ。背に生えた男の根元辺りである。 男は銛をつかんで引き抜こうとして果たせないようだ。むしろ、めりこんでいっているかの ように見える。 後を追うかのように、、 しま一本、銛が突き刺さった。 今度はグーリアスが投げたものだ。 だが、オーディスにひるんだ様子は見られぬ。むしろその逆。赤い瞳は怒りにぎらぎら輝 き、理解不能な言葉で何かをわめき散らしている。 ののし きっと、わたしたちを罵っているのだろう。弱者と信じる人間に、体を傷つけられたのだか まひとっ切れがな 鯨は左から後ろへ回ろうとし、幽霊船も後を追って回頭する。だが、い く、・後王。に回ってしま , つ。 ら。
152 「できる限りでかまわないさ。この身はいまだ不死身だ。案ずることはない」 「グーリアス : : : 」 7 ーーくつろいでいるところを悪いが、来たようだ」 舵輪を離れ、二人の側によった『案内人』は、グーリアスに銛の束を差し出した。 長さがグーリアスの背ほどもある、非常に長いものである。先はきのこの傘が開いたように なっていて、一度刺さったなら、容易には抜けないようになっている。根元には綱が結ばれ つな て、それは船の金具に繋がれている。打ち込まれた銛は抜けることなく、鯨は船を引きずる形 しようもう になって体力を消耗していくのだ。 それが二十本ほども、グーリアスに渡された。 ほげいせん おんねん 元々この船は捕鯨船だったのだそうだ。銛は船の装備品だが、亡者の怨念で強化されている と『案内人』は語った。 三人は船首へと移動した。 ・もうじゃ 亡者の間をすり抜けるとき、いくつもの実体のない冷たい手が触れて、ルーナはぞっとし 妖気が近づいてくるのがわかる。 ライビュートのそれとは比べるべくもないが、それでもかなりのものだ。 「さて、どこから出てくる : : : ? っ ) 0 ーもり