172 それを癒やすため、ライビュートは海の底にいたのだ。 だんまつま そこへ、オーディスの断末魔の叫びが届いた。 のぞ てんまっ 死に臨み、オーディスは事の顛末を瞬時にしてライビュートに伝えていた。 受け取り、理解し、怒りに全てを支配されたのは一瞬の出来事であった。 がんぐ 人間に玩具を奪われた このことは青の妖魔の理性を消し飛ばすのに十分だった。 怒りに身を任せ、妖魔は海の底に飛び出していた。 とら いまライビュートは、幽霊船を捉えつつある。 「ちくしよう ! 」 めずら 珍しく、グーリアスがロ汚くそう叫んだ。 また一人、亡者が吹き飛ばされる。 「体が消える ! 」 「なんだと ! 」 舵輪を握りしめ、門が開いたならすぐにでも飛び込まんとしている『案内人』が、そう叫び 返した。 満月を挟んだ三日に限られる彼の実体化は、その最終日のいつに効力が切れるかは、決まっ ゅうたい てはいないのだ。夜が明けてもしばらく持っこともあれば、夜半過ぎに幽体に戻ってしまうこ
のど 妖魔は喉の奥で笑った。 「ふふ : : : 結局、我は、この身を滅ばしてくれる存在を、長きに渡って捜し求めていたのやも しれぬな」 「貴様たちには迷惑な話であったろうが、もはや終わる」 まわ と、ライビュートの周りに、ひとつ、またひとっと、顔が現れた。 どの顔もつるりとして体毛がなく、瞳のほとんどを黒目が占めている。長い髪のように見え かいそう るものが、実は海藻のごときもので、自在に動かせることを、ルーナは知っていた。 人魚たちである。 . よゝよ ) : さらばだ・ : 娘よ : 。貴様との出会いは : ・ : 刺激に・ : 満ちて : 残された瞳から、急速に炎のような輝きが消えた。 城人魚たちが、歌うように泣いた。 果その声は、遠く、どこまでも届くような気がした。 界こばれた涙は真珠となって、海に落ちた。 そうして、ライビュートは、人魚たちに支えられるようにして、海の底へと沈んでいった。 : さよ , つなら、ライビュート」 ほろ
ようま それに、海にはあの妖魔が、ライビュートがいる。彼が素直にわたしたちを行かせてくれる とは思えない。現に彼は、嵐を起こし、わたしたちの船を沈め、わたしの力を奪った。いまも なが あの妖魔は海の底からわたしを眺めて、こうして思い悩む様を見て、ひとり脱に入っているに 違いない それが、くやしい てのひら 妖魔の掌で躍らされている自分がくやしい ちつばけな人間であるのがくやしい ああ : : : わたしは《カ》がなければ、なにもできない : 「ルーナ ? 大丈夫か ? 」 呼びかけられ、ルーナはハッと顔を上げた。 どこかひきつれたようでぎこちなくなってしまった。しかしそれでも、 浮かべた微笑みは、、 おろ 愚かな情けない顔を、絶望の表情を見せるわけには行かない。役に立たない上に、 , に心配を かけるわけには : ルーナはふっと笑った。 「 : : : 平気。何でもないわ」 「無理はしないでいい。いまはとにかく心と体を休めることだ」 うなず こっくりと頷いて、ルーナは葡萄酒をまた一口飲んだ。 ・ : なんの価値もない : ・ えっ
恋人同士の間には、一振りのナイフがある。 抜き身で、鞘がなく、刃身が暮れる陽の輝きを受けて、炎そのもののように、まぶしく光っ ている。 いまや陽は、その半分ほども水平線に身を隠し、海の向こう側へ消えようとしていた。 グーリアスの手が、静かにナイフを取り上げた。 しかし、その瞳は、ルーナの目から離されることはなかった。 つか 刃を返すと、グーリアスはルーナに、柄をさしだした。 ルーナの両手が、空をさまよい、そうして柄を探り当て、押し包むように、静かに握った。 グーリアスは、こっくりと頷し 互いの瞳に、己の姿が映っている。 おだ 青い海の底のような、綺麗な青い瞳に映るルーナの顔は、不思議なほど穏やかだった。 それは、夜の闇の瞳に映る、グーリアスも同じ。 城「丈夫な子を生んでくれ」 すず て 涼しげな声音であった。 果 界「丈夫に決まっているわ。わたしたちの子供だもの」 世 微笑みとともに、ルーナは言った。 グーリアスは、大きく頷いた。 さや おのれ きれい
安定したようだ。 それにつれて、ルーナは次第次第になにがあったかを思い出して、体を震わせた。 かんばん 船は嵐に見舞われたのだ。そう、嵐だ。甲板に上がり、マストが折れ、ロープが切れるのを 見た。 だが、それだけである。そのあと船がどうなったのか、自分がなぜここにいるのかは、まっ たくわからない。最後に見たのは、マストが天に吸い込まれていく姿。 グーリアスはどうしたかしら ? ようやっと恋人のことに思い至り、ルーナは虚空を仰いだ。肉体を持ってはいなかったか ら、足を挟まれて船と一緒に海の底ーーということはないはず。 彼女はグーリアスが指輪を使ったことなぞ、ついぞ知らなかった。いや、彼があの指輪を持 っているなどとは、夢にも思ってはいなかったのである。なぜならば、あの指輪は一度、彼女 がその手で海に捨てたものゆえ。 ようま 城指輪は、人の手によるものではない。陸の妖魔で、グランディアスという名の妖魔が作り上 てげた品。三度使え、グーリアスが好きなときに肉体を持っことができるそれは『人化の指輪』 界 たましい 世 しかし副作用がある。その指輪は魂をカの源とするため、人化のたびに魂が希薄になり、 使いすぎれば存在が消滅してしまうのである。 みなもと きはく
けんじゃ 世界の果てと、そこに住む賢者の存在を記していた。その賢者に知らぬことなく、あらゆる謎 の答えを持っているのだと言う。 「体の具合はどう ? 」とルーナは訊いた。「変わりはない ? 」 「ああ」とグーリアスは答えた。「とくに、消えるのが早まっているとは思えないな。陸を離 れたせいだろうか ? 」 ルーナは、そうかもしれない、 と小さく肩をすくめた。 しようめつ 彼の体は、ルーナも関わった、大陸における魔法の儀、大地の『大再生』のために、消滅 おこな へと向かっていた。無論、そのようなことになろうとは、儀式を強要され、行った際には思い もせず、また、グーリアスにしてもそれは同様だった。 思いもかけず、グーリアスの体に影響が出てしまったが、二人きりで航海に出てからは、幾 分進行が遅いようであった。 陸と海では魔法力の流れが異なる。そのせいかもしれない。 たど 城理由はともかく、それは二人にとってはありがたいことだった。世界の果てに辿り着くまで てに、どのくらいの時がいるのか見当もっかない。 ことがら の古文書に指針は示されてはいるが、にわかには信じがたき事柄ばかり。 世 その手始めが、人魚が導く先にある『楽園』の存在。海の底なのか、何処かの大陸なのか、 そういったことはひとつも書かれてはいなかった。あったのは人魚を呼び出す方法のみ。 ぶん
142 分のカではどうしようもないときている。繰り返し、繰り返し、彼らはいまも死んでいるの くじゅうゆが グーリアスの横顔が苦渋に歪むのをルーナは見た。思い出してしまったのだろう。千年もの 間、海の底に閉じ込められ、肉体を持ったびに、死んでは生き返るということを繰り返した 日々を。 そっと手を伸ばしてルーナは彼の手をとり、指の腹で手の甲をさすった。 夢から覚めたような顔をしてルーナを見た彼は、薄く、苦痛を消しえぬ笑みを浮かべて見せ 「あの者たちを解放するには、彼らを殺した化け物を殺すしかない」 「あなたは、彼らを救いたいのですね ? 」 「俺が ? 奴らを ? しいや、違う。俺は《掟》を正さねばならないだけだ。それが仕事 だからな」 面倒なことよーーーそう言って『案内人』は鼻を鳴らした。 「で ? やるのかね ? やらないのかね ? 」 「やるわ」 きつばりとルーナは = 一一口った。 世界の果てに案内してくれるというのなら、何だってして見せる。グーリアスとの仲を裂か
く・も 肉体を失い、半透明の体に戻ったグーリアスの瞳が、さっと曇る。 「まさかっ ! 」 ようま 振り向いた彼が、闇をねめつけるルーナが見たものはーー妖魔ライビュートの姿 ! 「ばかな ! 抜けられるわけもないぞ ! 」 『案内人』が叫んだのと、後部マストが弾け飛んだのは同時。 ライビュートが何かをしたのは確かであった。 マストはただの木片となって、後ろへ、闇の中へと流れる。 もし後部甲板にいたならば、ナイフのように飛んできた小片に体をずたすたに裂かれたであ ろう。 青の妖魔は、まるで水の中ででもあるかのごとく、空を泳いでいた。 そういえば、ここは海の底に似ている。 ライビュートが何かを叫んだようだ。 うげん 城途端に船の右舷中腹が、見えない口で噛みつかれたかのように、大きく抉れて船が激しく傾 果しオ の ルーナは、思わず悲鳴を上げた。 界 世 それが、きっかけであったのか。 闇の道のあちこちで起きていた雷が、次々とライビュートに襲いかかったー えぐ
考えなしの亡者どもが束になったところで、かなうはずもない。 「やるな、兄さん ! 」 大声で、『案内人』が言った。 がんば 「その調子で頑張ってくれ ! こっちも船が通れるぎりぎりのところまで扉が開いたら、すぐ に飛び込むからよ ! 」 その間にも、ルーナはライビュートの妖気を抑えるのに必死であった。 扉は、ゆっくりと開いて行く。 ライビュートがオーディスの死を感じたのは、遙か海底深くのことだった。 深い海の底に、彼の安息の場所はある。場所と言っても、家があるわけでも、寝台があるわ けでもない まったく光の届かぬ海底の、冷たい土の上に横たわるとき、彼の心は安らぐのである。 城しかし、それも長くは持たない。飽きやすい生格は、安息すら飽きさせる。 いちじる 果だが、今は休息が必要であった。《楽園》での出来事が、彼の力を著しく消耗させていたの の 世 鯨の領域内は、陸と変わらない。二人の人間を嬲ったのは実に楽しかったが、消耗も激し 、刀 - 子 / っこ。 はる なぶ
海が、滝のように落ち込んでいたのである。 だんがい 霧に包まれていたので、海の上から見たときには気がっかなかったが、城の裏手は断崖にな っていて、海の水の全てが落ちていたのである。 それでいて、滝独特のごうごういう音は少しも聞こえなかった。 どういうことなのか、猫に聞いても答えてくれるはすもなく、疑問は疑問のまま残った。 はる 遙かな昔には、この世の中は平らであり、世界の果てでは海が全て滝のように落ち込んでい ) まギ」ま るのだと言われていた。しかもその盆のような大地を様々な獣が支えているのだと、真剣に考 えられていたのである。今は、それが間違いであったことが知られている。 しかし、ここでは、昔に考えられていたことが正しいのだ。 「ねえ、まだっかないのかしら ? 」 かたわ 傍らで滑るようについてくるグーリアスに、少し息をはずませながらルーナは聞いた。 「もう随分歩いたと思うんだけれど」 「ああ : : : 外から見た分はとっくに昇ったな」 「おかしなことばかり。海といい、階段といい」 と、猫が振り返ってニヤアと鳴いた。 がんば 「遅いって言うの ? これでも頑張っているわ」 それきりルーナはロを閉ざし、黙々と階段を昇ることだけに意識を集めた。 ずいぶん