一時期、両親が川をはさんで東西に屋敷を構えて別居したときも、兄は母親に、弟は父親に ついてゆき、ふたりは実に十年近くに及んでひとことも交わさずに過ごしていた。 兄は一流大学を首席で卒業し、弟は、兄に言わせれば〃四流大学〃を中途で退学している。 広大な土地を所有する地主であった父亡き後、海彦は山に面した東の土地を欲しがったが、 父の遺言ではそうはなっておらず、川より西の森の土地が兄のものとなった。 はなさきがわ 四季折々に多種多様な花が見られるせいか、川の名は花咲川という。 この花咲川をはさんで、ほば隣り合った敷地内に先祖代々からの古い屋敷が建てられていた というわけだが、 兄弟それぞれの手に渡った結果、それらの古き良き時代の建造物は異なる道 をたどった。 山彦が継いで菜の花東高校となった建物は、資金のなさから老朽化の一途をたどる。 海彦が継いで桜花学院高校となった建物は、生徒の親からの多額の寄付金によって最新の設 備を施されて生まれ変わった。 その際、優美で芸術的な内観外観を残すことは忘れなかった。 ゆいしょ 以降、海彦が管理する由緒ある建物はことあるごとに最先端の技術によって補強され、今日 では全館冷暖房完備の快適な学習環境を生徒に提供することが可能となっている。 「その、どうも兄はレキくんの優秀さを知っているようで、なんならこのまま桜花学院のほう へ編入してきてはどうかなどと一一一一口うんですよ」
そうして力強く京夜の体を支えて外へ行こうとした菱田だったが。 ごとうれき 「よせ。後藤暦がいない今、きみは司令官だろう。司令官が持ち場を離れてどうする気だ ? 僕はひとりで大丈夫だ。戻ってくれ」 「榎本 「逃げたりもしないよ。心配なら見張りをつければいい」 突き放したような言い方はわざとだ。それすらわかってしまうのに、菱田にはそれ以上京夜 の強情さを止める手段がなかった。 「夜露は体を冷やす。持っていけ」 そう言って菱田が自分の薄手のパーカを放る。 篇「いらないよ」 は京夜は返そうとしたが、菱田はガンコに横に首を振っただけだった。 「早く戻れよ」 校「・ : ふふ」 子 男 ーカを手にしばらくばんやりした京夜が、青ざめたほおで小さく笑う。なんだか痛々しく 寮て、菱田の胃はぎゅっと絞ったようになった。 「なんだ ? 」 「おせつかい」
急激に、その薄い色の瞳に吸い寄せられる。 ( なんだろ ? こいつ、なんか言いてえことあるんじゃねえか・ : ? ) レキは直感でしか動かない。そしてその直感はたいてい外れない。 「えっと、あんた授業は ? 和士はもう行ったぜ ? 「桜花学院の授業は単位制です。僕はこの時間の科目はもう取得していますから」 よくわからない理屈だ。とにかく菜の花東高校とは違う形態らしい。レキはばりばりと頭を 掻いて、ちょっと相手が引っかかるよ、つなことを言ってみることにした。 「ねえあんたさ、なんでオレに敬語使うの ? タメだろ ? 「あなたはうちの会長のお客ですから」 篇なるほど。ポロは出さない。 相手はあの和士の副長だ。レキは戦法を変えることにした。 「ふーん。なあ、あんたオレがこの部屋で和士と何やってんのか知ってんだろ ? なんで何も 物言わねえの ? 子「何か言われたいんですか ? 贐「言われねえほうが不自然だと思ってさ」 全「あなたが何をお聞きなりたいのかわかりませんね。西ノ宮和士の交遊関係を僕から引き出そ うとしたって無駄ですよ」 二ロ
中条は理久を振り返り、理久は初めて見る中条の表情に息をのんだ。 見知らぬ他人を見るその目つきが、理久の腕の力を失わせる 中条は理久の腕を振り払い、砂利の上に倒れている男の前へと足を進めた。 男はあわてて後ずさり、おびえた目で中条を見上げる。そうして中条がそれ以上何もしよう とはしないのがわかると、落としていたカメラ ( たんもう使い物にならないだろう ) を拾い ひるがえ 上げ、身を翻して逃げていってしまった。 理久はといえば、ただばんやりとその男の背中を追っただけだ。 たった今受けた手ひどい拒絶が理久を打ちのめしていた。昨夜のあのキスも、今はもう何の 意味もなかったかのような気さえする。 引中条もまた、理久と同じ方向を向いて立ちつくしていた。 蜜夕食後、少し外をぶらっこうとふたりで散歩に出ようとした矢先だった。寮の近くで記者の 姿を目にした中条が走り出し、散歩どころではなくなったのだ。 語 物ふたりの間に重たい沈黙が落ちた。 子 こんな時間を共有するくらいなら、中条とはなんでもない関係のほうがよかったと思えるよ 男 うな重たさだ。理久は嫌な汗が背筋を流れ落ちてゆくのを感じていた。 全 何か言いたいだが言葉は出てこなかった。 先に口を開いたのは中条のほうだった。
284 「やつべー。オレ知んなかった」 「だろうな。もう夏目にキスしたりするなよ」 「あーうん、気イつける。けどよ、最初にオレにキスしてきたの、リクのほうだったんだぜ。 あれって浮気じゃねえの ? オレ傷ついちゃおっかな ? 」 から 「夏目はおまえのパワーにアテられただけだろう。卵の殻から出てきたばかりのヒョコが最初 に目にしたのがおまえだったんだ、レキ」 「ふん。オレはリクのママかっての 「近いな。おまえも夏目を見ると母性本能がくすぐられるんしゃないか ? 「言ってろ」 と、レキがシと人さし指をくちびるに当てる。 菱田以下、レキについてきていた戦闘員の間にたちまち緊張が走る。 それまで、フるさいほどだった虫の音が止まっていた。レキが低くうなる。 「桜花のやつらだ。近くにいるぜ」 「ああ。どうするポス。仕掛けるか ? 「当然」 おたけ 次の瞬間、菜の花東高校の生徒会長は少年たちの腹に響くような雄叫びと共に叫んでいた。 「リク ! オレたちの花姫を守れ
274 なつめ 「夏目 ! 」 あきひさ ふいに理久が体をかがめ、中条が驚いて足を止める。 「大丈夫。枝が顔にぶちあたっただけだ」 理久はそう言ったが、中条は納得せす、空いているほうの手を持ち上げると、理久の前髪を かきあげた。 「ほっぺた、切れてるぜ。たいしたことねーけど赤くなってる」 「舐めてくれる ? 「ばっ 「ジョークだよ」 理久はすぐに否定し、上目づかいで中条を見あげる。赤くなったほおを隠すためか、中条は そっぱを向いた。 小さくため息をつき、理久は周囲を見回す。 「どのへんだろ、ここ」 おうか 「暗くてよくわかんねーな。桜花の連中はまいたみてーだけど」 「うん。なんとかもっと安全なとこまで逃げないと」 速度をゆるめてゆっくり歩く。しっとりと湿った森の地面を足の下に感しる。
中条の体がぶるりと小さくふるえて、キスを続けていた理久のロの中になぜ ? と問うよう な熱いため息が洩らされる。気づけば理久は、くちびるを重ねたままささやいていた。 「焦らされるほうが好きだろう ? 」 リク 「陸 : ・」 うる 距離が近すぎて中条の瞳ははっきりとは見えなかったが、今それは乞うように潤んでいるに 違いない。理久はそしてまた、悪魔のようなひとことを告げてしまった。 「自分で動いて」 「や」 篇「ほら。できるだろ ? 」 は「できないなんて言ってねーだろう ! そうして中条はまたひとつ、理久の知らない面をさらけ出す。負けずぎらい 校理久はこんなふうに中条の隠されていた性格を解き明かすたび、彼の奥深くに剣を突き立て かんき しるし 男その場所は自分のものだという印をつけたような、強烈な歓喜を味わった。 ことなのかもしれないと、理久は思う。 寮本当はこれが一番〃ェロい 彼自身さえ知らない彼を暴き出す。 ただ自分のこの手とこの体で。彼を、引き裂く。
148 「私に無断で果たし合いか ? 」 和士の声は低く、不快さを隠していない すでに面と手拭いを頭部から取り去った京夜は、まるでその声が聞こえていないかのように いらだ 静けさをまとったままで、それがなおいっそう和士を苛立たせたようだった。 「答えろ、京夜 ! 「もう、試合をする必要はなくなりました」 「どういう意味だ ? 」 ごとうれき 「菜の花東の生徒会長がそこにいるからです。この男とは、後藤暦の所在を賭けて試合をする 約束になっていました」 「誰がそんな約束をしろと言った ? よろい かたくなさの鎧が京夜を夜に沈めてゆく。彼が着けている稽古着や袴は白だったが、菱田に はそうして立ちつくしている京夜が、全体的に黒く影のように見えてしかたがなかった。 「京夜」 カイザー 和士が再度うながす。京夜は和士の表情に〃皇帝〃の強情さがちらついていることを知り、 それ以上答えを引き延ばすことをやめた。 「僕の一存だ」
「だってどうせヒマしゃん」 「まあ、そ、フだけど」 おうか このまま桜花学院の戦闘員が誰もこの場所を見つけきれなかったら、海賊終了の午前〇時ま でのあと一一時間弱、たしかに時間を持て余しそうな気配だ。 だがどちらかといえば、中条には本の中の登場人物よりも自分と話してほしい理久だった。 話したいことはいつばいある気がする。気がするだけかもしれないが。 理久はちらっと周りを見渡した。 オーケストラボックスはけしてせまくはない。沢田たちは理久や中条とは反対側の角を陣取 り、さっそくカードゲームなど始めている。何をしに来ているんだかという感じだが、彼らは 篇そもそも空き時間を遊びで埋めつくすことが得意だ。 は理久は寝転がっている中条にそっと近寄り、彼にしか聞こえないような小声で言った。 「中条、なあ、おまえってさ、その、国府田とまだ切れてなかったの ? 物 男本を片手にひっくり返っていた中条に、びくりと小さな動揺が走る。空気を介して伝わって 」どう 寮きたその微小な変化に、理久の鼓動もわずかに速くなった。 「や、べつにどうでもいいんだけどさ。俺がどうこう一一一一口うことじゃないしな」 「だったら訊くなよ」 こうだ さわだ
「何って、なんかあんときのレキ先輩、ヘンで」 「ヘン ? まき 「槙さんに話しかけてるときは上機嫌だと思ったんすけど、急に感情的になって」 理久は病院でのできごとを思い起こしながら言った。 「そんで俺にいきなりしがみついてきて、言ったんすよ。もう自分で自分のことがわからない から、おまえが連れ戻してくれって」 「自分で自分のことがわからない ? ・ : あいつらしくないせりふだな」 「でしょ ? 俺もそう思います。けどレキ先輩がおかしかったのはそんときだけで、その後は にしのみや やつばり桜花の西ノ宮生徒会長と仲よさそうにしてて、帰りもなんの問題もなくャッと行っち 篇まったんすよね」 は「そいつは、妙な話だ」 「ですよね。あんときレキ先輩がどうしても桜花には戻りたくないって言ってくれたら、俺、 校西ノ宮会長と殴り合ってでもレキ先輩を連れ戻しましたよ。けど、そうじゃなかったし」 男中条が見ていたし。 寮レキにキスされたときに理久が探ったのは、ひたすら中条の視線だった。その視線にぶち当 たったときには目の前が真っ白になった。我ながらあんなにあわてたのは生まれて初めてなん じゃないかと思ったくらい、ひどくあわてていた。