欲しかったのはこれではないか。これではなかったのか 凄ましい気が京夜の体から立ちのばってゆくのが見えるようだった。 菱田はそれを美しいと思った。広がることなく、狭くせまく、細くまとまってゆき、一本の しゅうれん 限りなく細い糸へと収斂してゆく気だ。 見ろ。 打ちこみながら菱田は心の奥深く叫んだ。 見ろ。俺はこれが観たかったんだ。 たましい はかな おさ あの儚げな容姿の裏に隠された、抑えようもなく凶暴で、どうしようもなく魂に近く、侵さ れることなく純であり続ける気の力。 篇 これに、もう一度ふれたかった。 月 こた おど 蜜 菱田の心は躍り、体は舞とも一一一口うべき京夜の踏みこみに応え、身も心も京夜に囚われる。 囚われてなお、幸福であるという事実。 しじゅん 校しかし、その至純の時は長くは続かなかった。 子 寮ふいに、何かが京夜を捕らえた。 ちょう 紫の華麗な両翅を広げていた蝶が、その何かに捕らわれるのを、菱田はたしかに目にした気 がした すさ かれいりようし み とら おか
おそらくこの勘は外れないだろう。なぜかはわからないが菱田は確信していた。 うち えのもときようや 三日前のあの日から、事あるごとに榎本京夜の心の裡が感じられるようで落ち着かない。 初めの、フちはレキのことが気になりすぎるからだろ、つと隸っていたが、二日目にはそ、つでは ないことに気づかされた。 レキのことなら覚悟はついている。最終的にはそれがどんな結果になるにせよ、レキの望む ようにするつもりだった。レキこそは自分のポスなのだから。 心が乱れているのは別の理由からだ。京夜が何を考え、何を想い、何を悩み苦しんでいるの かか、気にかかってしよ、フカなかった。 菱田の庇護本能は今や全開になっており、万が一にも京夜を助けられないなら、その苦痛は 篇弟や妹を助けられないのと同じくらいのものになるのはます間違いなかった。 じゃり は細かい砂利が足の下でざくざくと音を立てる。菱田は竹刀を握る手にグッと力をこめた。 心がこんなにそぞろでは今夜の試合運びは期待できない。 語 校集中しなければ。 子 男 一一つめの橋を行き過ぎると、川の東側は斜面になり、その先に竹林が見え始める。 寮すでに部活の終わった時間であるにもかかわらず、竹林の奧にはばんやりとオレンジ色の明 にじ かりが滲んでいた。 道場に明かりが灯っている。京夜だろう。菱田は間違っていなかったことになる。 ひご かん
140 ひしだこうじ レキがそうして和士の胸の中で泣きじゃくってしまっていた頃、菱田浩一一は竹刀袋に入った はなさきがわ 愛用の竹刀と道具袋を片手に、花咲川沿いを上流へ歩いていた。 半月は山の端にやっとかかった程度で、晴れ渡った夜空には星が瞬いている。 午後八時半。約束の時刻まではまだ十分に時間があったが、なんとなく相手は早めに来てい るよ、フな気がしていた。 和士の手首の上に置いていた両手の指が、わなわなとふるえながら握られてゆく マスコミ対策だと自分に言い聞かせてがまんしていた時間が、今ではもう津波となって襲い かかってくるよ、フだ。 両目からは大粒の涙がこばれ出していたが、レキは気づかなかった。 「バレねえようにするから ! ぜってえ病院に迷惑かけたりしねえからー あえ 喘ぐような吐息のはざまで洩らされた言葉は、ほとんど悲鳴のようだった。 まき 「たのむからオレを、槙に、会わせてくれ : # 0 0 っム またた 0 おそ
138 「和士」 今、自分がいるのはすばらしく居心地のいい和士のひざの上で、ここではその話題がふさわ しくないことは知っている。 だが他にどんな機会があろうと、それは今、持ち出すしかなかった。たった今、家族のこと を考えてしまったからだ。レキが誰よりも、何よりも、愛さずにいられない家族のことを。 そしてレキはそれを訊いた 「オレ、 いつまでここにいられんの ? 「いつまででも」 「オレが望むかぎり ? しや、オレが望まなくなったら ? レキは前を向いたまま、今にも反抗してこようとする自分の体のどこかの部分を押さえつけ て言った。 「あんたはオレをこっから出す気あるわけ ? 」 沈黙は答えと同しだ。この一週間、レキ自身、何度も想像をめぐらした答えだ。 「オレをここに閉じこめてえ ? レキは訊いた。それは質問ではあったけれど、答えは知っていた。だから答えが返ってくる 前に続けた。
「母親は茶道家元の一人娘だ。つまりどちらも特権階級に属する人間ということだな。父親は まったく息子に興味を示さず、母親は示しすぎる。私は京夜の絵の才能を昔から高く評価して いるが、ここ数カ月、彼は絵筆を握っていない。父親とのコミュニケーションがうまくいって いないからだ。彼は」 「おい、話すなよ。そんな身の上バナシ聞かねえぞ。聞くんなら直接あいつに聞く」 「私が話すことを拒む京夜ではないよ」 「でもあんたは京夜しゃねえだろ ! そういうの、キライだ」 「レキ : ・ レキの強硬さに和士が軽い驚きを示す。レキはロをつぐみ、やがて言った。 篇「ごめん。でもプライバシーってそいつにしかわかんねえとこあると思うから」 は「ああ、そうだったな。きみがプライバシーに敏感になるのは当然だ。すまなかった」 、 2 フんと首を横に振る。レキはしばらくしてはつりとつぶやいた。 校「 : : : おふくろ、大丈夫かな」 男週刊誌のたぐいは和士がこの部屋にすべて用意させていたから、いまだ過熱ぎみのマスコミ 寮の状態は知っていたが、実際に父や母、そして弟の生の情報はここへは入ってこない。 おぼ レキは和士と一緒にいられることに溺れている自覚はあったが、一方で、決して自分の頭か ら去らないものがあることもわかっていた。 二ロ
136 「他に誰が ? そんなふうに切り替えされたら、もう愡れるしかないぜとレキが笑う。 長いキスが続いた 「京夜は私のこのとまどいが気に入らないのだろう」 おちい 呼吸困難に陥る前になんとかその情熱的なキスシーンから離脱して、和士がつぶやく 「彼は私に完璧でいることを望んでいる」 「カンベキな人間なんていねえよ」 「だが望んでいるものは仕方がない 「あいっ : ハランス悪りい 「京夜が ? 」 「ああ」 レキは昨日の朝のことを思い出しながらうなすく。 和士にはまだ、京夜とのことは話していなかった。そもそもレキは告げ口をするタイプでは なかったし、京夜のことは未知数の部分が多かったからだ。 「彼の育った環境は少し特殊だったんだよ。京夜の父親が日本でも指折りの日本画の大家だと い、つことは知っているか ? 「知んねえ」
「レキ、いつまでもそのままでは風邪を引くぞ」 バスロープ一枚の無防備な姿でソフアに沈みこんでいるレキに、和士が視線を移す。 だがそのときには、レキはだいぶサミシイ気持ちになっていたので、すぐには和士の言葉に 反応を返せなかった。 「おいで」 篇そう言って片手を差し伸べられても、レキはちょっとのあいだ拗ねたまま、ソフアの上で両 はひざをかかえこんでいた。 「レキ ? 」 語 校和士にはレキの気持ちが透けて見えているようだ。呼びかける声がやさしい 男「ちえつ」 寮レキは勢いよくソフアを跳ね降りて、リビングの角めがけてばたばたと駆け出した。 いつだって次の瞬間には許している。 「和士 ! 「失礼する」
「ああ、いやいいんだ。捨てたままにしておいてくれ」 「ふうん ? わざわざバスルームのダストボックスに捨てられていたという事実を、もう少し深く考える べきだった。顔をあげてその人物の姿を見つけたレキは、そう思わすにいられなかった。 「無駄だよ、和士。僕のほうにも届いている。二通目がね」 ビオラの調べのような甘い声。それでいてどこか冷たく相手を拒絶するような。 榎本京夜だ。 ) 、いたのかよ」 「おじゃまして申しわけありません。この書類を処理したらすぐに失礼しますから」 いんぎん 篇 いつもの慇懃な物言いに戻っている。レキはごくんとのどを鳴らした。 月 京夜はリビングルームの角に置かれた広い書斎机の前にいて、和士はその奧の大きな肘掛け なが 椅子にゆったりと腰かけて目の前の書類を眺めている。 校自分がこの場にいるべき人間ではないことを思い知らされるような場面だ。 男「届いている ? 同しものか ? すが 寮和士の目は不機嫌に眇められている。京夜がうなすいて答えた。 「母が主催するお茶会の案内状だろう ? 残念ながら届いてるよ。一通だけでは不安だったん だろうね。あの人らしい ひじ
130 その夜の月の出は遅く、夕刻の明かりはいつまでもぐすぐすと空の端に残り続けた。 かずし レキは和士よりも長くバスルームに入りびたり、すっかりのばせそうになったところで、よ うやくバスタブから体を引きすり出し、和士に愛された余韻を名残惜しく水シャワーで流した ところだった。 心地よい疲労感、と言い切るにはやや過剰な疲労感をふかふかのバスロープに包んで、しば し洗面所の床に両脚を投げ出してへたりこむ。 「れ ? 」 と、つ 籐で編んだダストボックスに手を伸ばし、レキはその白い封筒を拾い上げた。 えのもときようや 封も切られていない。宛名は、〃榎本京夜様〃 「和士ー ? 一何これ ? あんた宛てしゃないしゃん。捨てちゃっていいのかよ ? バスロープのまま、その封筒を見下ろしながら、べたべたと和士のいるリビングルームへと 入ってゆく # 0 0 よいん
128 わかった。先に寝てるつもりなんだな。ああいいとも。さっさと寝ちまえ。 心の中で理不尽な一言葉をぶちまけながら、中条は頭をかかえたくなっていた。 なんでこうスナオなんだ、こいつは。 世の中に、悪質なキャッチセールスに簡単に引っかかる人間がいるのがよくわかる。 夏目理久という人間なら、全人類の中でもまず第一番に引っかかるんだろう。 ああ 中条は理久に背を向けたまま、ぐっとまぶたを閉じた。 そうでもしなければ泣けてしまいそうだった。 ただその声で、その名前で、呼ばれたというただそれだけで ? 中条はくちびるを噛んで、否定しようもない事実をふたたび思い知らされるしかなかった。 ばかみたいに恋してる。 あっし 中条陸は夏目理久に、ばかみたいに恋してる