いことが起きたのだろう ? こ しゅ、つげ・き 「残念ながらその通りです、警部。情報屋が男を預けた医院が襲撃され、院長が殺されまし もっか た。入院していたと思われる患者は、どこかへ連れ去られました。目下捜索中ではあります が、今のところ、これといった手がかりはありません」 ヴァールデンは小さくため息をつくと、コートの衿をかきあわせた。 息は雲のように白く、霧のように消えた。 ガラス 彼は街灯を見上げた。空は厚い雲に覆われ、なにひとつ見えない。硝子の箱の中で燃えるガ スの炎の輝きだけが、闇に明るい 「 : : : あの、警部 : : : ? こ 「あ、ああ・ : : ・ご苦労だった」 「・ : ・ : おそらく、男も記者も、もう見つからないだろうさ。事件は山とある。そして、ロンド ンは広い。だが警官の数は限られている : : : そうだろう ? こ 都「はあ : ・ 中「行方不明者が、二人ーーーいやひとりか ? ーー・増えただけのことさーヴァールデンは夜の街 影路の闇を瞳に映し、自宅の方へと歩き出した。「そう : : : それだけのことさ。皆に、もう帰る ように言ってくれ。ビールでも呑んで、疲れを癒してくれとな」 かんじゃ
・ : やめよう。せつかくの朝に考える事じゃないわーーーたとえ重苦しく曇っていたとして も。朝は朝、夢は覚めたんだもの。 ふいに風が吹ぎ込んで、思わずリリアは体を震わせた。 ひどく汗をかいていて、肌に張りついて気持ちが悪い寝着は、冷たい冬の外気に触れたせい リリアの肌を粟立たせていた。 ですっかり冷えて、 小さなくしやみがひとつでて、背中の中ほど辺りまである豊かな栗色の髪がそれにあわせて 揺れた。 「ああ寒い」 リリアはひとりつぶやくと、窓を閉め、寝着を脱いだ。 うぶげ 十七の彼女の肌は、焼きたてのパンのように白く、産毛が薄い光にも美しく輝いた。 寝着は洗濯しなくては着られたものではなかったが、出勤前の忙しい今は出来る相談ではな っこ 0 替えの寝着はあったかしら : ・ 冷たくなった寝着を洗濯籠に放り込み、布団をはがして外気が当たるようにしておいて、記 憶をめぐらせた。 ・ : そういえば、去年のクリスマスに買ったのがあったつけ。 毎月の給金から少しずつ貯めておいたお金で、リージェント通りの店で買った品である。二 かご がいき
140 あっけ リリアはもう、呆気に取られて眺めるしかなかった。 そんな彼女の肩に手を置き、スティーマは「来い」と言った。そして何の返事も待たず、歩 ぎだした。 ついて行くしかなかった。異様な雰囲気の人々の中に、ひとり取り残されるよりはましであ る。 王こそが一番異様であると言えなくもなかったが、彼は冷静だった。興奮に頭の中を支配さ れている連中よりは、ずっとまともだ。 スティーマは、次々とリリアを人々に紹介して回った。そのつど彼女も彼らを紹介してもら ったのだが、肩書きは大臣やら、警察署長やら、裁判官やらで、名士と言われる人々であっ もっともそれは、この閉じられた王の世界の中のことであるので、子供の《なりきり遊び》 と変わらないとも言えた。ここが、イギリスである以上は。 それにしても不思議であったのは、誰ひとりとして服装をけなさない事だった。いや、それ どころか、誉め讚えたものもひとりふたりではない。 リリアは首を傾げた。 王に気を遣っているのかしら ? それにしても、心から誉めてくれているような気がしない こともないけれど : たた かし ふんいき
リリアの方でも、お礼として渡すのは、コーヒー屋台の朝食程度であった。 こうした関係だからこそ、 リリアの持ってくる情報は信頼性が高かったのである ( 謝礼に金 やから を払うようになると、勝手に嘘を作り上げて持ち込んでくる輩だらけになる。金を払うのは、 《正規》の情報屋に限られた ) 。 「いえ、編集長。今朝は特に何も」 「そうか : : : では、そのまま取材に出かけてもらおう」 「あ、はい : : : それで、今日は誰と ? こ 「君・ : ・・・誰と、ではなく、どこへ、だろう ? 「え ? こ 「今日は、ひとりで行ってもらおう」 彼のその言葉を聞いた途端、リリアの顔がパッと輝いた。 かんちが 「君。勘違いは困るそ。ひとりで行かせるからと言って、もう見習い期間が終わりと言うわけ ではないからな」 都それを聞いても、喜びは少しも消えるものではない。 中ひとりで取材に行けるーーロでは何と言っていても、少しは認められたということに違いな 影 。個人的な取材ではないのだ。社の名前を出し、その名で取材をするのだから。 ミスをすれば今後、『本当の真鑾社の取材は全て断られるかも知れないのだ。それを、任 まか
なじ % ほとんどが顔馴染みである。少し詰めてもらって、リリアは間に入れてもらった。 「今朝は冷えるわね、おじさん。今夜あたり、雪が降るかしら ? 」 : いつものかね ? 「降って欲しくはないねえ。商売に響くから・ : リリアが小さく頷くと、主は調理にかかる。 てぎわ こともなく一一 = ロった。 手際よく動くその手元を眺めていると、馴染みの女のひとりが、誰冫 「朝からいやな天気だわ。本当に降りそう」 「降って欲しくないわ。雪の日に外に立っているのはつらいし、なにより客が少ないもの」 隣の女が言葉に乗る。やはり馴染みのひとりである。他の女たちも同調する。 ゆらゆらと動くその様は、まるで花のようだ、とリリアは思った。少ししおれた切り花。 はで 女たちは一様に、派手な化粧と、貴婦人を気取った古ぼけたドレスに身を包んでいる。どこ か高級感を出そうとして着飾り、だがしかし、しくじっていた。 年齢は様々である。リリアとそう変わらないように見える女もいれば、四十を軽く越えてい る者もいる。 「雪の日はさ、足がさあ、かじかんで痛いよねえ」 とひとりの女が言った。 「まったく。そんな夜は、一シリングでもいいや、って思うわね」 コーヒーのカツ。フで手を温めるようにして何人かが、それに同意して頷いた。
「ジム・ホールデンです、お嬢さん」にこりともせずに彼は言った。「お見知りおきを」 手は差し出さない。握手などしてたまるか、という態度がにじみ出て、隠そうともしていな 「この街の大臣のひとりだ。 ホールデン、この娘の処遇については聞いての通りだ。わか っているな」 ぎよい 「御意・ : 「ならばもうよい。行くがいい」 痩せた男は一礼すると、きびすを返し、その場を去った。その後をひとりの男がついて行 く。こちらはホールデンとは対照的に筋骨たくましく、彼の護衛のようだ。 その男が、ちらとではあったが、リリアを振り向き、恐ろしい目で睨みつけてきた。 恐ろしい目。 かって、これほどの憎しみをぶつけられたことはない。 「陛下 : : ・ ? ー彼らの姿が人の波に飲まれてしまうと、リリアはロを開いた。「わたしは何故、 の彼らに憎まれているのでしよう ? こ の「そう思ったか ? 影 わたしが彼らを憎むならともかく、彼らから憎まれるすじあいはありませんわ [ 「ほう。君は私たちを憎んでいるのか ? 」 しょぐう
255 影の中の都 あわてて鼻と口を押さえたが、防ぎきれるものではない リリアは何度も何度も取っ手を回していたが、やがてその手は金鍍金された表面を滑り落 ち、床にばたりと倒れた。 「さあ、それじゃあ手帳を渡してもらおうか」 街の外。外界へと続く道の一本の前に、数人の男が集まっていた。 ひとりはラック / ・、ツシである。にくの厚いコートを着て、ずだ袋をひとっかついでい せいかん 彼を囲むようにして立っているのは、いずれも眼光鋭い、精悍な体つきの男たちだ。 そのうちのひとり 、ハッシュの正面に立って手帳を要求したのは、誰あろうガン・ページで あった。 「報酬はここに用意した」 ページの手には、重そうな布袋が下げられている。 ハッシュは鼻の頭を掻いた。 「ここじゃ渡せねえな」 「何だと : : : ? ー る。 ほ、つしゅ、つ ぬのぶくろ きんめつき
警部は小さくため息をついた。 ここしばらくで、多くの人間がこのロンドンから消えているのは御存知でしようね」 「ええ・ : ・ : そうらしいですねー 「我々はこれを、なんらかの犯罪に巻き込まれたと見て捜査を続けてきたんですよ」 そこで言葉を切ると、彼は紅茶を一口飲み、それからまた続けた。 「一昨日のことですが、イーストエンドの下水を出たところで、行き倒れの男がひとり助けら れましてね。助けた男はヒ = ーリイと言って、その筋ではそれと知られた情報屋でしたが、彼 の手引きで、男はある個人病院に運び込まれたんです 掌が汗ばむ。 警部の目が、ちら、とリリアを見た。 どうようさと 無関心、無表情を保てただろうか ? わからなかった。もしかしたら、動揺を悟られたかも 知れない。 : コーヒーを少し残しておけばよかった。 喉が渇く、ああもう : ・ 「で、その病院にかつぎ込まれた男というのが、一連の蒸発事件の被害者のひとりだと思われ がんこ るんですが、そこの院長というのが、なかなか頑固でしてね。いっさい話をさせてはくれない んですよ」 「・ : : ・そうですか」 てのひら
それをリリアは十分に知っていた。知っていたからこそ、わざと彼の名を上げたのである。 しし」と ずるずると、相手のペースに巻き込まれることは一番危険であった。言わなくても、 を言ってしまいかねない。 『切り裂きジャック』を初め、徘徊する怪人たちを誰ひとり捕まえることの出来ない警察を、 ぶべっ むのう 人々は侮蔑し、無能よばわりをしていた。 えら いたけだか どんなに偉ぶってみても、どんなに居丈高に出ても、『切り裂きジャック』ひとり捕まえら きよせい れないくせに、と言えば、彼らの行動は全て虚勢と化してしまうのだった。 時に『巨悪に背を向けて、足元の小悪を追いかけるしか能のない集団』とまで書かれたりも した。 無論、本当はそうでないことはリリアもわきまえていたが、『ジャック』の名は武器にはな 「努力はしているのですよ、お嬢さん」表面的には平静を繕い、警部は言った。「だが、怪人 の少なくとも半分は、あなたたちマスコミが作り上げた虚像に過ぎない。それがどれほど我々 さまた 都の妨げになっているか、それを忘れないで欲しいですね」 中「そうだとしても、犯人を捕まえることが出来ないのは、わたしたちのせいではありません 「しかし いや、よしましよう。ジャックの話をしようと思ったんじゃない」 はいかい
夢かと疑ったが、腰に回された左の腕の温もりは、現実のもの。 「しかし、こんなことをするとは、まったく驚かされる , ーーどうした ? 震えているぞ」 そう、夢が去るとともに、自分が何をしたのかを思いだし、リリアは震えが止まらなかっ そして気がつけば、彼女はスティーマの体に我から両の手を回し、抱きしめるというより は、幼子のようにしがみついていた。 わきばら 王は何も言わず、回した手の指で、軽く脇腹を叩いた。 安心が、そこから染み入るような気がして、擦りむいた顔も彼の肩にうずめ、手には力を入 れていた。 汗の匂いがする : ・ 不思議と、少しも不快ではなかった。 それは彼が、仮面の怪人などではなく、同じひとりの人間だと、ひとりの男であると、リリ アに気づかせた。 の指が、彼の背中に、何か奇妙な薄い箱のようなものを探り当てたが、いまのリリアにはなん のの興味も抱かせはしなかった。 影 「降りるそ。しつかりつかまってーー」王は小さく笑った。「一言うまでもないか」 そうして彼は、その両足と鉄の腕一本で、 リリアを抱え、なんの苦も見せず、楽々と崖を降 おさな・」