おび びくり、とリリアは体を震わせた。溿ほす、という言葉に、体が勝手に怯えたのだ。 「学校で、そう習わなかったかね ? まあ、どちらにしても、もはや手遅れだが」 「手、遅れ・ : : ・ ? 」 「そうだ ! ー怪人がふいに立ち上がった。マントが鳥のはばたきのような音を立て、右手の鉄 甲から霧のようなものが吹き出す。スケッチ・フックは左手。「もはや君は、この街から出られ 外の連中に、まだここを知られるわけにはいかないのだ ! 」 つな 天蓋と覆いを繋いでいた止め金が、ひとっふたっ飛んだ。あまりに強く、覆いを掴んでしま ったために。 つぶやくようにリリアは言った。声が震えていた。 「なに : : : ? こ 「わ、わたしを、殺すの : ・・ : ? ヒューリイのように : : ・・ ? 」 「ヒューリイ . : 誰だ ? 」 「ねえ ! 殺すの卩」 どん、とリリアは床を叩いた。その拍子に体がべッドにぶつかり、ランプが倒れて炎が消え 途端、べッドの周囲は闇に落ちた。 こ 0 ひょっし
ずいぶん 体を起こそうとしたが、ひどくだるく、めまいがして、半身を持ち上げるのにも随分な苦労 をしなくてはならなかった。 なんとかべッドの上にーーー彼女が寝ていたのはべッドの上であったーー座り込むと、先ほど まで見ていたのが天井ではないことが知れた。 天蓋である。 薄い覆いを四方に垂らし、様々な飾りを下げた、大層立派なものであった。 見れば、べッドも楽に四人は眠れそうな大きな物である。 ふとん リリアは手で布団を押してみた。ふつくらとしていてよく沈み、そしてすぐに元通りになっ 頭が痛かった。髪をひつつめたままにしていたせいだろうか ? そんなに長い時間、まとめ たままにしてただろうか ? まぎ リリアは指でこめかみを揉んで、痛みを紛らわせた。 もや 靄がかかっていたような思考が、少しはっきりとしてきた。 ああ、そうだわ : : : 頭の中で、青い光が爆発したみたいになって、体がばらばらになるよう な衝撃があって : ・ ふいに寒気が背筋を駆け上り、リリアは水に濡れた子犬のように、体を震わせた。 思い出した ! あの馬車ー てんがい たいそう
262 おいてある。 そこにリリアは横になっていた。気がついたのはどのくらい前であったか。手足をくくら いもむし みじ れ、惨めに芋虫のように転がっているしかなかった。 天井の電気ランプが闇を払ってくれている。 無論、彼女はここが湖の監視所であるとは知りもしなかった。時折、何か水音のようなもの が聞こえる気がしてはいたが、湖だとは考えもしなかった。 仰向けになると下になった手が痛むので、横になり、膝を曲げて体を縮めていた。寒かっ た。いっ脱がされたのか、薄手のコートはどこかに行ってしまっていた。髪止めが外れてぶら ぶらしている。ほどけた髯かくすぐったい。 ロンドンでさらわれたときほど、恐ろしくはなかった。こうなるのではないかと、思ってい なかったわけではなかったから。 リリアは何度も体の向きを変えた。そうしないと頬が凍傷になってしまいそうだった。 幾度めかもう忘れたころ、ふいに外が騒がしくなった。 大勢の人の気配がして、・ほそぼそ言う話し声も聞こえた。 体をずらし、リリアは顔が扉の方を向くようにした。 まさに、そのとき扉が開かれ、影のようにひとりの男が入ってきたのを見た。マントを翻 し、と。 あお と、つしトでつ
鉄板が、パイの生地のようにぼこぼことふくらむ。 震動で爪が外れ、ゴンドラが壁を離れた。 落ちるー リリアは悲鳴をあげた。記憶が呼び覚まされるーー父が死んだあの夜の記憶が。 手を動かしたのは、無意識のこと。 うが さまよう指が崖に穿たれたくぼみを探り当て、リリアの体は振り子のように揺れて壁に打ち つけられた。 ゴンドラはたちまち闇に吸いとられて見えなくなった。地に落ち、砕ける音がしたのはどの くらいの時間だったろうか ? わからなかった。そんなことが考えられるほど、いまのリリアに余裕はなかった。 ぶつけた場所が、ずきずきと痛む。 動けなかった。 闇がすぐ側にあるのがわかる。 すべ 都 いま、それを追い払う術はない。 の ランプは、荷物と共に落ちてしまった。 の周りには、闇しかない。 影 リリアはぶるっと体を震わせた。考えただけで、そわぞわと肌が栗立つ。 夢が、来てしまう。 あわ
274 スティーマは仰向けになって、目を閉じていた。 その首に、二つの手がからみついている。 だが、力を入れる様子はなかった。 「殺さないのか ? ー目を開け、彼は言った。「私は君の住んでいた村を溿ほした男だそ」 首を振り、リリアは静かに手を離した。指が胸をなそる。 「殺せません : : : 。あれは事故だった : : : ずっと、そう思って生きてきたんです。あなたが殺 すところを見たわけではありませんもの。馬車か何かに跳ねられて死んだと言うのであれば、 殺されたんだと思うことも出来ましよう。でも、あれはどう見ても事故でしかなかった。いま さらそうじゃないといわれても、どうして恨めましよう」 「いいのか、それで」 リリアは頷いた。 スティーマは体を起こそうとし、彼女はそれを助けてやった。 彼は小屋の壁に体を寄りかからせた。 「でも、教えてください」リリアは言った。「どうしてそんなことをしたのか」 こっくりとスティーマは頷いた。 「私の一家があの村に越してきたのは、十四年前のことだった」
同様に埃をかぶっている。かたづける者もいないのだろう。 彼は器用に積み上げられている荷物を避けながら奥に行くと、リリアを手招いた。 「ここから入る」 たてあな 彼が示した先に、人ひとりがやっと通れるような縦穴があった。重そうな鉄の蓋は横にずら されて久しいようだ。表面が白っぽくなっているのを見ればわかる。 「コートは脱いだ方がいい」 自ら実践しつつ言うと、彼は持ってきた小型のランプにマッチで灯を入れ、先に体を滑り込 ませた。 中をのそき込んだリリアは、意外と明るいことを知った。 / 彼のもっているランプの光が、滑 らかな壁に反射して、縦穴全体を照らしているのだ。 これなら大丈夫。闇はない。 ハッシュにならってコートを脱いでから、リリアは穴に体を滑り込ませた。彼に続いて降り ながら、男物のズボンをはいてきてよかったと思った。スカートでは降りづらいことこのうえ のぞ のなかったであろうから。ズボンなら覗かれることもないし。 じゃま の髪もそう。まとめてこなかったら、邪魔でしようがなかった。こんなに狭いところを通るの 影 であったら。 縦穴は、二十分ほどで終わりを告げた。 じっせん せま ふた なめ
した現実感がある。自身の体の温かみが、自分がここに現実として存在していることを、わず かに証明してくれていた。 「目が覚めたか」 薄闇の中から、ふいに声が投げつけられた。 がしゃん、と天蓋の飾りが鳴った。突然の呼びかけに、反射的に体が震えて。 うつむいていた鳥の頭が、ゆっくりと、わずかにもたげられた。 ランプの光が、それを鑑い銀色に輝かせる。 鳥の頭などではなかった ! それは、磨ぎ上げられた兜のごとき仮面であった。 ずがいこっしたあご 鳥の頭蓋骨の下顎を外したような形をした、頭をすっぽりと覆う、仮面であったのだ。 巨大な鳥などではなく、人であった。 だが、ホルス神 ( = ジプトの神のひとり ) の目の形にくりぬかれた孔の奥や、外された顎 の向こうの顔は闇に沈んだままで、見ることは叶わず、不安は去らなかった。 都明かりへと、影の中から右手が伸ばされた。無論、翼などではない。人の手のようだ。鉄で てつこう 中覆われているように見えるのは、鉄甲をはめているのだろうか ? その甲から細い管が伸びて 影いて、背中へと消えている。 鉄の手はランプをむと、己の方へと引き寄せたが、仮面の怪人は、椅子を立っことはしな おのれ みが かな かぶと
リリアは、自分の言葉がもたらした効果に満足した。 《切り裂きジャック》ー りト史つき 丿丿アの頭にもまだ新 去年ーー一八八八年の八月から十一月に起きた連続猟奇殺人事件は、 むざん ィーストエンドで起きたそれは、娼婦ばかり五人が殺され、無惨に《体を解体される》とい う、忌まわしいものであった。体の中身を引き出され、あるいは持ち去られ、あるいはすぐ側 に展示でもするかのように、犯人は飾りたてていたのである。 ロンドンの夜は、恐怖と化した。 新聞はこの事件を先を争うように報じ、いっかな解決できないスコットランド・ヤードを責 めたてた。 おび そして、娼婦たちは怯え、怯えながらも街路に立ち続けた。 最後の事件が起きてから、まだ三か月しかたっていない。 リリアもまた、この事件の取材に関わった一人である。 彼女の勤める新聞社も、他の新聞同様に、《切り裂きジャック》を追いかけ、リリアも先輩 とろう 記者の取材に同行したーーー結局は徒労に終わったのだが。 犯人は、いまだ捕まってはいない。 『切り裂きジャック』の話は、警察関係者の心に苦い思いを湧き起こす。
281 影の中の都 てあげることもできたかも知れないのに・ : 「私には復讐しかなかった : ・ : ・今までも。そして、おそらくこれからも」 吐き出すように王は言った。 「だが : ・ : いま、このひとときだけは、それを忘れられた。・ : ・ : ありがとう、リリア」 リリアは首を振ると、並んで壁によりかかり、体を寄せた。 頭をスティーマの肩にのせると、リリアは静かに目を閉じた。 明日、どんな運命が待ちかまえていようと、そんなことはどうでもよかった。 今はこのひとときが、二人にとってかけがえがなかった。
100 心臓が、跳ねたーーひとつ、ふたつ。 闇ー ごう、と、夢が押し寄せた。 ぐれん ーー今、彼女は、紅蓮の炎の中にいた。 懐かしいあの 焼けている : : : 村中が焼けている ! 息が出来ないー 煙が喉を詰まらせる ! 苦しい 喉を押さえ、柔らかく白いそこを、リリアはルでかきむしろうとした。 その手首を、がっしりとした男の手がっかんだ。 「いやあっ ! 」 / の手だ ! リリアは悲鳴を上げた。手だー ほお 。、ン、と頬が鳴っこ。 跳ねるように体が震えた。 霧が晴れるように、夢が引した もうひとつ。 なっ 0 、 0 、