声が震えてはいなかったかしら・ : リリアは取材内容の書き込まれた手帳や病室の様子を描いたスケッチブックの入った鞄に手 をはわせた。 いまや、警部の言っている男がイングマンであることは疑いようもなかった。 くみ びこう わたしのことを病院から尾行してきたに違いないわ。 : : : わたしなら与しやすいと思って、 声をかけてきたのかしら ? いざとなれば、鞄を抱えて逃げ出す決意を、彼女は固めた。 ここには、自分の未来が詰まっているのだ。それに、警察のこの行動が、彼 冗談ではない。 しんびよっせい の話の信憑性を増してくれた。取材ノートを渡せるものではない。 すると、その心を見透かしたように、ヴァールデンはリリアにわかるように入り口へと視線 を走らせた。 見れば、両開きの扉の向こうに制服警官が立っている。 リリアは、下からねめつけるように彼を見た。 「そんなに睨まないでくださいよ。別に何かを強制しようというわけではないのですから」 リリアは歯噛みをした。 よ ~ 、一一 = 日つわー 「ただちょっと、彼となにを話したかを、教えていただぎたいだけです。会ったんでしよう ? 彼とー にら かか
156 途端、ホルスの目の奥の緑の瞳が、すっと険しくなったのを、 瞬のことではあったが。 見せたくない何かがある、と直感した。 「駄目でしようか ? 」 「 : : : まあ、いいだろう。面白くないとは思うがな」 スティーマは御者に、大門に向かうように告げた。 いったん 馬車は一旦大通りに出ると、道を、屋敷とは反対の方向へと走った。 街のぐるりは高い壁に囲まれている。それは建物よりも高く、八階建てのアパートぐらいか らでないと、向こうは見えないと思われた。 いったん けんもんじよ 大門の脇には検問所と思われる小屋があって、馬車はそこで一旦止まった。所員が御者と何 かをやりとりした後、鉄製の扉がごろんごろんと地響きのような音を立てて上がり始めた。大 量の蒸気が、扉の両脇から吹き出し、人工の霧を創り出す。 スティーマは、黙っていた。穴掘りが見たいと言ってからずっと。 馬車が門を通りすぎてしまうと、扉はたちまち落とされた。 いつ。へん 風景が一変した。 へだ てつび 鉄扉一枚隔てたそこは、別の世界であった。 臭いもひどい。原因はすぐにわか 0 た。街の汚水やゴミを処理する施誕がここにあるのだ。 けわ つく みのが リリアは見逃さなかった。一
162 定時報告の為である。 屋敷に戻るとすぐにリリアを部屋に送り、その足で彼は戻ってきたのだ。 椅子に腰掛けると、すぐに紅茶が運ばれてくる。行き届いた心遣いがありがたい。 「もう少しお早いお帰りかと思っておりましたが : : : 」 いささ 「ああ : : : 壁の向こうにまで、案内をさせられてな。些か疲れた」 きんもっ 「ご無理は禁物です 「わかっているさ。ーー留守中、変わったことは ? 」 こうふ 「特にはございませんが : : : ああ、陛下が捕らえられた男たちに面会がございました。工夫の 中で特に親しかった人物のようです。その足で、二人の解放を訴え出ております。仕事になら ない、と 「その人物は身元は確かか ? こ 「はい。誰かの代わりに来たというようなこともないようです」 「何を話していた ? 」 「工事のことです。遅れがちなのを気にしていました」 スティーマは紅茶を一口飲んだ。何も入れないのが、彼は好きだった。 しやくほ、つ 「 : : : よし、釈放しよう。工事が遅れれば余計な出鷺かかさむ。奴らもこりただろう」 「では、そのように手配致します」
、刀 「ママ、あれなあに ? 」 から 少女は母の首に腕を絡みつけたまま訊いたが、答えはなかった。 ちょうつがい 扉の蝶番がきしむ音がして、リリアは振り返った。 父が、家を出るところだった。 / を 彼よわずかに後ろを振り向き、家族を見た。 いってらっしゃい、と声をかけようとしたリリアの舌を凍りつかせたのは、何であったの 無言のまま灰色の父は家を出ていった。扉が閉まったときに、震動で皿が一枚落ちて割れた が、なぜだか音がしなかった。 そのうち、窓の外に明かりがひとっ増えた。そしてそれは、ゆっくりと闇のむこうへと流れ るように動いていった。 く、つ リリアは母親の首を、強く抱き締めた。そのつもりだった。だが、腕は虚しく空を泳いだ。 一口もしなかった。 一口もいない部屋の中で、 リリアはひとり人形を片手にぶら下げて、立っていた。 全てが赤く染まっている。少女の白い肌も、栗色の髪も何もかも。 リリアは窓を振り返った。ガラスの向こう、小高い丘の上で、大きな屋敷が燃えていた。そ の炎の輝きが、辺りを朱に染め抜いているのだった。 ′、り・い - っ こお むな
ろこう 板が必要であったし、その露光時間もまだまだ長かった。 写貢を印刷することはまだ難しく、新聞の事件の様子というものは、全て絵である。 この絵の下絵を描くのも、彼女の仕事であった。 特に現場の生々しい様子、見たものにしか囃けない様が、この頃では好評なのである。 編集長が彼女にひとりで取材を許したのも、そうした事が関係していたのかも知れない。 リリアは数枚の絵を描いた。 ろう くっさく 街。洞窟。掘削機械。それに : : : 牢。 しゅうじん 特に暗闇で震える囚人の姿は、想像ながらよく描けた。 我に返ったリリアは、ふっと息をついて、スケッチブックから顔を上げた。 相変わらず、馬車はゆっくりとした速度で走っているようだ。震動がほとんど伝わってこな あた 鉛筆をしまい、スケッチブックを閉じて鞄に戻したリリアは、どの辺りまで来たかしら、と まゆ 窓へと目をやり、そして眉をしかめた。 なにやら、景色がおかしく思えたのである。 その理由がすぐにわかった。 ポンポール陸か、小さな窓の向こうの御者の肩越しに見えたのである。 グレート・オーランド通りは、とっくに過、一ている。 なまなま
226 降りた先は金属製の通路で、しやがんで歩けるほどの広さはあった。ごろんごろんという音 が聞こえる。蒸気の音も。何かを叩いているような、そんな音も。 ハッシュはランプを前に掲げると、「こっちだ」と言って進み出し、リリアは黙ってついて 行った。 横穴は、縦のそれが真っ直ぐだったのに対し、曲がったり、上がったり、下がったりと忙し 「ここは工場の排気管だ」と、進みながらハッシュは教えてくれた、 つな 繋ぎ目にズボンを引っ掛けて、少しばかり破いてしまったが、気にしてはいられなかった。 明かりは彼が持っているのだ。置いてきぼりにされるわけにはいかない やがて、しだいに通路は広いものとなり、それは行く道の終わりを告げるものであった。 こうし そこは、大人が二人並んでも平気なほど広く、十分隙間のある格子がはまっていた。 「あまり前に乗り出すな」とハッシュは終点の手前で言った。「見つかるからな。さあ、ラン プを消すそ」 明かりが消される。だが、洩れ来る光で通路は十分明るかった。 「見ろ」 と彼は言ったが、言われるまでもなく、リリアの目は格子の向こうの光景に釘付けとなって かか くぎづ
した現実感がある。自身の体の温かみが、自分がここに現実として存在していることを、わず かに証明してくれていた。 「目が覚めたか」 薄闇の中から、ふいに声が投げつけられた。 がしゃん、と天蓋の飾りが鳴った。突然の呼びかけに、反射的に体が震えて。 うつむいていた鳥の頭が、ゆっくりと、わずかにもたげられた。 ランプの光が、それを鑑い銀色に輝かせる。 鳥の頭などではなかった ! それは、磨ぎ上げられた兜のごとき仮面であった。 ずがいこっしたあご 鳥の頭蓋骨の下顎を外したような形をした、頭をすっぽりと覆う、仮面であったのだ。 巨大な鳥などではなく、人であった。 だが、ホルス神 ( = ジプトの神のひとり ) の目の形にくりぬかれた孔の奥や、外された顎 の向こうの顔は闇に沈んだままで、見ることは叶わず、不安は去らなかった。 都明かりへと、影の中から右手が伸ばされた。無論、翼などではない。人の手のようだ。鉄で てつこう 中覆われているように見えるのは、鉄甲をはめているのだろうか ? その甲から細い管が伸びて 影いて、背中へと消えている。 鉄の手はランプをむと、己の方へと引き寄せたが、仮面の怪人は、椅子を立っことはしな おのれ みが かな かぶと
こおう 呼応するように、紙の音が止んだ。 喉がからからに渇いている。 癒すようにもう一度唾を飲み込むと、意を決し、リリアはそろそろとべッドのに腰掛け じゅうたん て、足を垂らした。柔らかい絨毬が、足の裏に触れる。 「誰かいるの : : : ? 」 リリアはそう 闇に向かい、 だが、返事はない。代わりに聞こえたのは、再び紙をめくる音。 「誰か、そこにいるんでしよう ? こ 再び問う。 だがやはり、答えはなかった。 はだし 裸足のまま、リリアはべッドを下りた。 心臓の音が、外に聞こえてしまいそうだ。さして暑いわけでもないのに、じっとりと汗がに じんでくる。 立ち上がり、霧を織ったかのような柔らかな覆いに湿った手をかけた。 都恐ろしいけれど、確かめずにはいられない。 中わけもわからず、べッドの中で震えているなど、とても堪えられない。 影そろそろと、覆いを顔の半分ほども引き開けた。 どくん、と心臓が、大きくひとっ鼓動を打った。 かわ こどう しめ
トをつけたら食事どころではないと思い直し、いまある服の中でもう少し楽そうな、しかしド レスらしいものを選んだ。 えりもと 大きく開いた襟元と袖にレース飾りが付ぎ、スカートは二枚重ねで、上の一枚は前の真ん中 から分かれて後ろで結ぶようになっている。 首には粒の小さめの真珠の首飾りをつける。 口紅を引こうかどうか考えたが、やめておくことにした。食事なのだ。食器や布巾に口紅が 付くのを、彼がいやがるかも知れない。 髪は下ろすことにした。髪止めを外すと、ふわりと花が開くように広がった。 こうすると、まるで別人のようにも見える。 「お時間ですー まるで、自身が時計ででもあるかのような正確さで、ゴーは迎えに来た。 「陛下はどちらに : : : ? 「別館の自室でお待ちかねです」 の「別館があったの ? 教えてくれなかったわー の「必要がなかったので。そこへ立ち入れるのは我々側近の一部だけですからー それは、お前なんかが入れる場所ではないんだ、と言っているようにも聞こえた。 二人は一度屋敷の外へ出ると、庭の、森の中へと向かった。 しんじゅ ふきん
「なんだ ? 」 コーヒーを飲もうとした手を止めて王は訊き、リリアはてて何でもないという意思表示を した。 そうか、と言うと、スティーマはコーヒーをすすった。仮面のくちばしに隠れて、口元は見 えない。 ・ : ああ、驚いた。まだ聞きもしないうちに、向こうから話してくれるなんて : : : これから 聞こうと思っていたことに。 先読みされたのかしら。でも、そうだとしたら、本当のことかどうかはわからないわね。う まくパトロンのこと聞けたら、裏をとらなくちゃ。 トロン 「それで、その人も王と同じお考えでいらっしやるのですか ? 「いや、そうではあるまい。奴らが欲しいのは、私の力だ」 の「そう。蒸気科学という、力さ」 の「科学・ : 影 「この街は、全て蒸気科学のカで動いている。私が考えた科学のカでな。ケーン財閥というの を知っているか ? 」 ざいぼっ