つまみを捻る。 やがて、昇降機が鈍い震動と共に動きだした。 リリアは震えていた。寒いわけでもないのに、震えが止まらなかった。訳のわからない塊の ような物が腹に重い 扉に頭をこするようにつけ、くちびるを噛む。皮が破れて、ロの中に鉄っぽい味が広がる。 下に着くまでの時間の、何と長かったこと。 扉を叩いたのは、二度や三度ではない。 昇降機が止まると、リリアは扉を乱暴に開け、廊下へと飛び出した。 彼女の足の運びが、縲にをつくる。 階段を過ぎ、そのまま走り、突き当たりの部屋の扉の前で、リリアはようやく止まった。 震えながら息を整える。そうして、ゆっくりと扉を叩いた。 返事はな、。 また叩く。 のやはり同じ。 の両開きの扉の取っ手に手をかけると、リリアはゆるゆると回した。 影 昇降機と同じく、鍵はかかっていなかった。 ゆっくりと押し開けた彼女は、びくっと体を震わせた。 ひね
「先に立て替えてはくれないかね」 「残念ですけれど」 医者は汚らしく舌打ちをすると、ぶつぶっとなにかを言ったが聞き取れなかった。 「 : : : 患者に会わせていただけます ? 」 「廊下を出てすぐの、扉のしまっている部屋がそうだ。勝手に会うがいい」 「そうしますわ」 丿丿アは立ち上がると、壁にかけてあったコートを取り、随分と使われていない診療室を出 薄暗い廊下に、部屋からの光が落ちている。 たったひとつを除いて、病室の扉は全て開け放たれていた。 足を出す度に、床は悲鳴のようなきしみを上げ、それは寒々しく壁に跳ね返って響いた。 リリアは閉さされた扉の前に立っと、ためらわずに叩いた。 返事はすぐにあった。一言ーー誰だ、と。 「はいりますわー 許可を待たず、リリアは扉を押し開けた。 予想された抗議はなかった。 とき おうま 逢魔が刻のように、中は暗かった。
が出来る。 リリアを先に乗せ、あとから自分も乗り込むと、ゴーは扉を閉め、昇降機を動かした。 軽い震動が起きたかと思うと、小屋はその内側ごと、下へと降りていった。もっともそれは 感覚の上のことだけであって、実際に降りているのかどうかはわからなかった。窓がなく、外 を見ることは出来なかったので。 一分ほどで、昇降機は止まった。 扉を開くと、すぐ廊下だった。屋敷のそれによく似て、赤い絨毬が敷かれている。違うのは 窓がないこと。だが、明るい。昼間のごとく。天井に取り付けられた電球のおかげであろう。 王の部屋は廊下の一番奥にあった。途中、階段があって道はさらに地下へと続いていたが、 どこへ行けるのかとは尋ねなかった。 「お連れいたしました」 扉を叩き、ゴーが言った。 「入るがいい」 ゴーに扉を開けてもらい、リリアは中に入った。 そば スティーマは、暖炉の側の揺り椅子に腰を下ろしていた。膝の上に厚い本がある。いままで 読んでいたのだろう。『蒸気科学の限界』と背にある。 彼は本を手に立ち上がると、それを暖炉の上に置いた。 じゅうたん
ぎよしゃ 車で、車体と同じく馬も御者も真っ黒であった。御者の白い顔だけが、ぼつんと、月のように 浮かび上がっている。 漠然とした薄気味の悪さを感じ、リリアは一瞬ためらったが、他に馬車の姿はなく、しかた なく彼女は馬車に向かって手を上げた。 きし 車輪がひどい軋み音を立てて、馬車は彼女の目前に扉が来るようにして止まった。 雨も降っていないのに、なぜか馬の足が随分と濡れていた。車輪も同様である。 「どちらまで : : : ? 」 馬車に負けないくらい陰気な声で、御者が訊いた。前を向いたまま、彼女を振り返りもせ 「あの、グレート・ オーランド通りまでお願いできますか ? 御者はこっくりと頷いた。 リリアは動かぬ御者に不審の目を向けつつ扉を開いた。窓は小さく、中は薄暗かった。だ が、内装は立派で、金持ちの個人所有の馬車と言っても通用しそうだった。 扉をしめると、馬車はゆっくりと走り出した。 安馬車の、舌を噛むような震動はなく、快適な乗りごこちで、 椅子も楽。これなら何時間乗っても疲れそうになかった。 ず。 ば / きん リリアはヘえ、と感心した。
156 途端、ホルスの目の奥の緑の瞳が、すっと険しくなったのを、 瞬のことではあったが。 見せたくない何かがある、と直感した。 「駄目でしようか ? 」 「 : : : まあ、いいだろう。面白くないとは思うがな」 スティーマは御者に、大門に向かうように告げた。 いったん 馬車は一旦大通りに出ると、道を、屋敷とは反対の方向へと走った。 街のぐるりは高い壁に囲まれている。それは建物よりも高く、八階建てのアパートぐらいか らでないと、向こうは見えないと思われた。 いったん けんもんじよ 大門の脇には検問所と思われる小屋があって、馬車はそこで一旦止まった。所員が御者と何 かをやりとりした後、鉄製の扉がごろんごろんと地響きのような音を立てて上がり始めた。大 量の蒸気が、扉の両脇から吹き出し、人工の霧を創り出す。 スティーマは、黙っていた。穴掘りが見たいと言ってからずっと。 馬車が門を通りすぎてしまうと、扉はたちまち落とされた。 いつ。へん 風景が一変した。 へだ てつび 鉄扉一枚隔てたそこは、別の世界であった。 臭いもひどい。原因はすぐにわか 0 た。街の汚水やゴミを処理する施誕がここにあるのだ。 けわ つく みのが リリアは見逃さなかった。一
始まりは、いつも闇だった。 リリアは、自分が上も下もない、ねっとりと肌にまとわりつくような濃密な闇に捕らわれて いるのを知った。 何も見えなかった。 壁や扉の合わせ目から漏れてくるはずの、優しい月光の青白い輝きも、寝室の扉の向こうで ろうそく 夜なべをしている両親の手元を照らす蝋燭の輝きも、何もない。 目を閉じたままなのかと思い、勢いよく開こうとして、だが、すでに自分が目を開いている おび ことを知ると、リリアは怯え、べそをかいた。 てざわ 手にしていた人形、ーー見えなかったが、手触りでわかった・ーーを抱きしめ、リリアは幼い子 供がするように、母を呼んだ。 実際、それは彼女に似つかわしい行為であったと言えよう。なにせリリアは、五つの幼い少 女でしかなかったのだから。 悪夢 のうみつ
138 ・ : 勘、というやつだろうか。そんなものが働くほど、たいした記者ではまだないけれど。 駆け出しだもの。 「着きましたよ」 そう言ってゴーが案内したのは、見るからに大きな扉の前だった。 にぎ すでに晩餐は始まっているらしく、賑やかな声と音楽が洩れ聞こえてくる。 ゴーは、まだリリアの心の準備が整う前に、扉を押し開けてしまった。 ざわめきがやみ、人々の視線が明らかに自分に注がれるのがわかった。音楽だけが、静かに 流れている。 この服のせいだわ。 リリアは気が減入った。やはり、笑いものにするために、これを選んだ んだわ。 浴びせられる三十人ほどの視線を、しかしまっこうから受け、リリアは広間を見回した。紳 士然とした、こちらはまともな服装をした男たちが、あるものはグラスを、あるものは料理の 入った皿を手に立っていた。 丸いテー。フルがいくつも並べられ、それそれに料理が山のようにつまれている。椅子はな い。誰もが、立ったまま飲み、食べるようだ。 「さあ、王の元へ」 促すように、ゴーが背中を軽く押した。 うなが
、刀 「ママ、あれなあに ? 」 から 少女は母の首に腕を絡みつけたまま訊いたが、答えはなかった。 ちょうつがい 扉の蝶番がきしむ音がして、リリアは振り返った。 父が、家を出るところだった。 / を 彼よわずかに後ろを振り向き、家族を見た。 いってらっしゃい、と声をかけようとしたリリアの舌を凍りつかせたのは、何であったの 無言のまま灰色の父は家を出ていった。扉が閉まったときに、震動で皿が一枚落ちて割れた が、なぜだか音がしなかった。 そのうち、窓の外に明かりがひとっ増えた。そしてそれは、ゆっくりと闇のむこうへと流れ るように動いていった。 く、つ リリアは母親の首を、強く抱き締めた。そのつもりだった。だが、腕は虚しく空を泳いだ。 一口もしなかった。 一口もいない部屋の中で、 リリアはひとり人形を片手にぶら下げて、立っていた。 全てが赤く染まっている。少女の白い肌も、栗色の髪も何もかも。 リリアは窓を振り返った。ガラスの向こう、小高い丘の上で、大きな屋敷が燃えていた。そ の炎の輝きが、辺りを朱に染め抜いているのだった。 ′、り・い - っ こお むな
短い声と、硬貨が木の床に散らばる音が、がらんとした店内に大きく響いた。 リリアはくちびるを白くなるほどに噛むと、しやがみこみ、黙々と硬貨を拾った。 警部は手伝ってはくれなかった。ただ彼女を眺め、紅茶を飲んでいた。 拾い終え、一ペニー硬貨三枚を店主に渡したリリアは、逃げるように店を出ようとした。 その背中に警部の声がかかった。 「お嬢さん」 リリアは足を止めた。 「名前を聞かせて貰えませんか ? 勤め先も。フリーでないのならー 「・ : : ・『本当の真実』新聞の、リリア・クレイヴですー 振り向くことなく言って、リリアは、レストランを出た。 扉の鈴が激しくガラガラと鳴って、彼女を見送った。 リリアが去ってしまうと、ヴァールデンは扉のところに待機していた警官に彼女を追うよう しじ に無言で指示をした。 都警官らが去ると、彼は冷めた紅茶を飲み干し、もう一杯、カウンターに向かって注文して、 中曇った窓から冬のロンドンの街路を眺めやった。 影 せつかくの決意が、へたくそなサーカスの綱渡りの演者のように揺らぐのを、 えんじゃ たいき リリアは情け
262 おいてある。 そこにリリアは横になっていた。気がついたのはどのくらい前であったか。手足をくくら いもむし みじ れ、惨めに芋虫のように転がっているしかなかった。 天井の電気ランプが闇を払ってくれている。 無論、彼女はここが湖の監視所であるとは知りもしなかった。時折、何か水音のようなもの が聞こえる気がしてはいたが、湖だとは考えもしなかった。 仰向けになると下になった手が痛むので、横になり、膝を曲げて体を縮めていた。寒かっ た。いっ脱がされたのか、薄手のコートはどこかに行ってしまっていた。髪止めが外れてぶら ぶらしている。ほどけた髯かくすぐったい。 ロンドンでさらわれたときほど、恐ろしくはなかった。こうなるのではないかと、思ってい なかったわけではなかったから。 リリアは何度も体の向きを変えた。そうしないと頬が凍傷になってしまいそうだった。 幾度めかもう忘れたころ、ふいに外が騒がしくなった。 大勢の人の気配がして、・ほそぼそ言う話し声も聞こえた。 体をずらし、リリアは顔が扉の方を向くようにした。 まさに、そのとき扉が開かれ、影のようにひとりの男が入ってきたのを見た。マントを翻 し、と。 あお と、つしトでつ