始まりは、いつも闇だった。 リリアは、自分が上も下もない、ねっとりと肌にまとわりつくような濃密な闇に捕らわれて いるのを知った。 何も見えなかった。 壁や扉の合わせ目から漏れてくるはずの、優しい月光の青白い輝きも、寝室の扉の向こうで ろうそく 夜なべをしている両親の手元を照らす蝋燭の輝きも、何もない。 目を閉じたままなのかと思い、勢いよく開こうとして、だが、すでに自分が目を開いている おび ことを知ると、リリアは怯え、べそをかいた。 てざわ 手にしていた人形、ーー見えなかったが、手触りでわかった・ーーを抱きしめ、リリアは幼い子 供がするように、母を呼んだ。 実際、それは彼女に似つかわしい行為であったと言えよう。なにせリリアは、五つの幼い少 女でしかなかったのだから。 悪夢 のうみつ
丘の上には行かせてはもらえなかった。よしんば許可が出たとしても、幼、 は、屋敷にたどりつくことは出来なかっただろう。 いつのまにか、メグは目の前に来てリリアを見上げていた。 リリアはひざまずいた。緑の瞳が同じ高さになる。その目はどこかで見たような気がした。 メグは、おずおずと人形を差し出した。 「・ : : ・くれるの ? こ 小さな頭がかくんと頷く。 彼女はメグの手から人形を受け取った。 小さな指が触れた。 少女は微笑み、そして、きびすを返して駆けだした。その先に、誰かが立って彼女を待って いた。少年のようだ。だがしかし、彼は影でしかなく、誰なのかはわからなかった。 そうして、一一人は手を取り合うと、闇の中へと溶けて行った。 リリアは彼女を呼んだが、振り向いてはくれなかった。 の追いかけようとして転びーーそこで目が覚めた。 中 の 影 窓から差し込む光が、顔の上に落ちていて、ひどくまぶしい しリリアの足で
こんなので、『あいつはゴシップ記者の才能がある ! 』だなんて言われたら、目も当てられ ないわ。 リリアは仇ででもあるかのように、残ったコーヒーを飲み干してしまうと、もう一杯おかわ りを頼んだ。 頬杖をついて、窓の向こうの曇り空の午後の街に目をやると、客待ちの、古い馬車が見え ぎよしゃ た。黒い馬車で、御者も黒い外套にすっぽりと身を包み、判決を待っ罪人かなにかのように、 首をうなだれている。 居眠りをしてるのだろうか ? ときおり体が前にのめりそうになっては、何事もなかったか のように元に戻った。 「おまちどおさま」 かぐわ 芳しい香りがして、熱いコーヒーが運ばれた。 その匂いに誘われ、リリアは窓から目を放した。 コーヒーと向き合い、角砂糖を落としてかきまぜ、ミルクを入れる。 都白い線が、ゆっくりと、美しく渦を巻いていく。 中その文様をぼんやり眺めているうち、胸のうちに、『でも : : : 』という心が湧き上がってき でも : : : もし、彼の話が本当だとしたら・ : : ・ ? ほおづえ もんよう かたき ・かいと、つ くも
「なんだ、長ほけているのか ? 」 ちよくげき その声は、雷のようにリリアの頭を直撃した。目覚めの鐘、夜明けの鶏の声にも似て、夢を 覚ますには十分であった。 弾かれたように目を開けたリリアの瞳に飛び込んできたのは、白銀のくちばしとホルスの目 しつこく に漆黒の翼を持っ鳥であった。 「鼻の頭を擦りむいたな。血が出ている」 鳥か口を聞いた。 否 ! 鳥じゃないー 幺力「ラいて何ノ。波が引 ~ 、ように。 鳥などではない。くちばしと思ったのは仮面。羽と思ったのはマント。 闇はなかった。大きな一一台の電気式サーチライトが下から二人を照らし出し、闇を追い払っ ていた。 その輝きを受け、仮面は白銀に、汚れなき色に輝き、ホルスの目の奥の緑の瞳が笑ってい こ 0 「巾定口を忘れたのか ? 言ったろう。過ぎた好奇心は身を溿ほすと」 紛れもない、それはスティーマ王その人であった ! けが かね にわとり
窓のカーテンが引かれている。部屋の中にはべッドがひとっと、小さな簟笥、それに背もた れの一部が壊れた椅子があるだけだった。 男はーーおそらくはポート・イングマンであろう男は、痩せこけた顔に目だけをギラギラさ せて、べッドに半身を起こしていた。 彼はリリアを見ると、歯をむきだし、飛びださせんばかりに目を剥いた。 けもの それはさながら、飢えた獣のように彼女の目に映った。 リリアは椅子を持ってくると、べッドから少しはなれた場所に置き、腰掛けた。 ひざ 膝の上に載せた鞄から手帳を出すとき、手が滑って鉛筆を床に落としてしまった。それは、 べッドの方へと転がり、反射的に手を伸ばしたときに、べッドの上からも手が伸びてきて、リ リアはびくっと体を震わせてしまった。 「恐ろしいのか、俺が : : : ? 」 鉛筆をつまみ上げながら、男は言った。 リリアは黙っていた。心を見すかされたのが腹立たしく、恥ずかしかった。 都「だが、そんな物は本当の恐怖じゃない。あの暗い長い道に比べればな」 まがお 中嗄れた笑いが男の口から洩れた。それから男は急に真顔になり、リリアに鉛筆を投げてよこ 「・ : ・ : あんた、誰だ ? 」 すべ たんす
それは、自分の名を呼ぶ声であった。 「ママー とたん リリアが大きな声でそう叫んだ途端である。 少女の少し前、闇の中に一筋の切れ目が走ったかと思うと、それは一気に裂け広がり、彼女 に小さな悲鳴を上げさせた。 たたま ひとみ リリアは再び闇の中に佇む事になった。だがそれ 青い瞳を刺す光の痛みに目を閉じたので、 はだし は、先刻までの闇とはまったく違うものだということが、この幼い少女にもわかった。裸足の 足の裏には、気の冷たい感触がはっきりとあったし、父親からの。フレゼントの人形も腕の中に しつかりとあった。 丿丿アはおそるおそる目を開けた。 目の前に、母親の影があった。背中から光を受けているので、顔ははっきりとは見えなかっ ほほえ たが、口元には微笑みが浮かんでいるとわかった。 リリア」 「起きちゃったのね、 リリアを抱き上げた。母の肩の向こうに見えるテしフルの 影の母親の手がにゆうと伸びて、 上の花が、やけに赤い。逆に、母親は灰色一色であったが、それが不思議だとは思わなかった。 気がつけば腕の中の人形が消えていて、振り返ると、闇の中でそれが布の腕を振っていた。 リリアも振り返した。
まぼろし 地下都市と取れなくもないけれど : : : けれど、この目の前にある空は、幻ではないわ ! いったい何が本当で、何が間違っているのかしら ? 彼の話も、怪人の話も。 リリアは小さく嘆自 5 した。 目に見える範囲の街を見渡してしまうと、今度は自分がいる場所へと目を転じた。目前に広 がる庭は、まるでバッキンガム・ ハレス・ガーデンのように広い。はるか遠くに見える門は、 マッチ棒の先よりも小さく、あの門が、貴族の屋敷にあるような巨大なものだとしたら、一」こ から行き着くまでにどのくらいかかるのか、考えただけで気が減入った。 あずまや 造りは左右対称で、それそれに庭園があり、四阿があり、森があり、池があり、その一一つを ふんすい ぐように、中央、屋敷と門を繋ぐ道のその線上に、巨大な噴水がある。中央に立派な彫像が あり、それは肉体美豊かな二人の若者が戦う姿を写したものであった。 首を出し、左右を見ると、自分がいるのは大きな石造りの屋敷であるとわかった。 五階建てで、頭の上にはまだ窓がひとつある。バルコニーもいくつもあり、それを支えるの は怪物の頭である。階を仕切る張り出しの隅にも、膝を立てて座る悪魔の像が見える。 の似つかわしい、と思ったーー鳥の頭蓋骨のような仮面をかぶる怪人に、この屋敷はとても似 のつかわしいわ。 影 窓から離れ、荷物が置かれていたテーブルの横の椅子に、おそらくは怪人が座っていたであ ろう椅子に腰を下ろすと、ほどけていたスケッチブックの紐を結び、鞄のロを閉じた。 はん たいしレっ たんそく ひも ちょっぞう
208 う 彼の胸に額をこすりつけた。 何も答えず、リリアはただ、 / どんな目をしているというのだろう・ : 彼を見上げる目とそれは、違うものであろう事はわかってい 鏡を見てみたい気がしたが、 , りん 王は、机の上の呼び鈴を二回鳴らした。 わず すぐにゴーが現れ、二人の様子を見、僅かに眉をしかめた。 「お呼びでございますか ? 「ああ。この人を部屋に送ってやってくれー 「かしこまりました。 さあ、お嬢さん、部屋に戻りましよう ゴーに手をとられて、 リリアは頷いた。 「おやすみ・ : : リリア」とスティーマは言った。 「おやすみなさあい、陛下」 腕を引かれつつ、彼女は答えた。そのあとで、忍び笑いがもれた。何がおかしかったのか は、本人にもわかっていない。 手を振りながら、リリアは部屋を辞した。 そのあと、ゴーに部屋に送り届けられたリリアは、服を脱ぎ散らかしてべッドに倒れこむ
「ああ」 ゴ 1 はポットを手にすると、王のすぐ側にまで近づぎ、空になりかけたカップに紅茶を足し こ 0 「時に、あの娘はいかがでしたか ? こ 「ん ? ああ、随分とあきらめが悪い。あれこれ訊かれたよ。この街のことを」 「まだ、記者のつもりなのでしようか ? なじ 「おそらくはな。あの目は、可能性を信じている目だ。だが、この街にじぎに馴染むさ。飢え ることも、暗がりに潜む殺人鬼を恐れることもない。望むものが与えられる」 「しかしーっぷやくように、ゴーは言った。「新聞はありません」 「 ! : : : そうだな。新聞はない」 「あの好奇心、絵のみにて、抑えられますでしようか ? 」 スティーマは椅子を立っと窓により、己が街を見た。雲が、空に張りつくようにいくつも浮 のかんでいる。 の「陛下」 影 「抑えてもらわねばなるまい」ため息とともに、スティーマは吐き出すように言った。「私は、 あの娘を殺したくはない」 ひそ おの
スティーマはカップを置くと立ち上がり、ゴーの肩に手を置いた。 「お前には感謝している。お前のおかげで、私はひとりではない」 「そんな : : : もったいないことです : : : 」僅かにはにかんだ様子でゴーは言った。「私こそ、 陛下に救っていただけなかったら、どんな目にあっていたか : : : 」 「あれから、八年か : : : 確か、十八になったのだったな」 スティーマは、ゴーと初めて出会ったときのことを思い出した。 あれは、地下の非合法市場だった。 そこに発明のための部品を買いに来ていたスティーマは、奴隷市場にふらりと立ち寄ったの である。 そこに、ゴーま、こ。 彼は引き出された舞台の上で、堂々と買い手の連中を睨みつけていた。その目が気に入っ て、スティーマは彼を買った。無論すぐに「好きにするがいい」と言い渡したが、ゴーはステ てんがい 都 の ィーマの元にとどまったのである。天涯孤独の身であるからと。 の救世主のように思えました、とはゴーの後の弁。 「陛下はじき、二十三になられるのでしたねー かくさく 「ああ : : : それまでになんとか、ホールデンたちが何を画策しているのかを知りたいものだ」 べん