真ん中の赤色には『止まる』とあり、左右それそれの緑色には『上がる』、『下がる』と書 かれていた。 秘密だ ! リリアは小躍りしたくなった。 これ、ゴンドラだわ ! これで、上に行けるのねー もしかしたら、崖の上にまで続いているのかも知れない。そうすれば、ここが本当はどこな のかわかるかも : : : 。ああ、わたしの勘は間違っていなかった ! 鼻歌が出そうになるのをこらえて、 リリアは中に乗り込むと、早速にレ・ハーを『上がる』と 書かれた方へ倒した。 鈍い震動が起きて、動力に火が入ったのがわかった。蒸気仕掛けのようだ。おもちゃの汽車 に乗ったとき、同じ感じがした。 ひときわ大きな震動が起きたかと思うと、ゴンドラは崖を上がり始めた。爪がガリガリと崖 を噛む音がする。 の リリアはなるべく体を低くして、外の様子をルいた。カメラを出し、いつでも写真がとれる のように準備をして、秘密が現れるのを待ち受ける。 誕生日のプレゼントの箱を開ける前のような、わくわくした気分で。 にぶ こおど
リリアは、カップの取 0 手をで粥いた。陶器特有の高い音が、がらんとした店内に響き、 カップの中で渦が崩れた。 よたばなし 与太話などではなく、現実の、体験談だとしたら : : : ? 爪でまた、カップを弾いた。二度、三度と。 あるじけげん 主が怪訝な瞳を彼女に向けたが、リリアが気づく様子はない。 彼女の頭の中は、今ひとつの一一 = ロ葉でいつばいになっていた。 スクープー そうよ。本当なら、凄いスクープになるー ちか 神かけて誓った話が真実、事実なら、本当に大スクープだわ。 わたしは認められて、もっと大きな新聞社に移ることが出来るかも知れない。 そうすれば、つまらない浮気や不倫の記事を書く手伝いをしなくてもすむ。 もうそう そうよ。彼の妄想だと決めつけるのはまだ早いわ。とにかく調べてみてからでも遅くはない もの。 取っ手を弾く爪が速くなっている。 だが、彼女はそれに気づいてはいない。 : ・編集長には、なかなか彼が話をしてくれないと言っておこう。 手際が悪いんだ、と怒られるかもしれないけど、構うもんですか。少しでもけどられたら、 てぎわ
ない。建物も、穴も。 「こっちだ」 近寄って見たかったが、王にはそちらへ案内してくれる意志はないようだった。 へきめん がけ 彼が歩いて行く先には崖がそそり立ち、その壁面に、大きな穴がひとっ開いていた。 くつきしっ 左右を屈強そうな男一一人が見張っている。 けいれし 彼らは王に気づくと敬礼をよこし、異常のないことを告げた。 「これから中に入る。作業はしているのか ? きゅ、つけい 「いえ。今は休憩の時間ですので」 頷き、ランプを受け取ると、スティーマはリリアを伴い、穴の中へと入って行った。 足を踏み入れるとき、闇への恐怖が頭をもたげたが、中は思ったよりもずっと明るく、安堵 できた。 かんかく 一定の間隔で、ランプが吊り下げられていて、闇を追い払っていてくれている。 「何のための穴なのですか ? 」はぐれないように早足になりながら、リリアは訊いた。「随分 と広いですけれどー 「用途は様々だ。外界へと抜ける道、ゴミの処理、鉱物の採取、石の切り出し、石炭の掘りだ くっさく し : : : いずれもがこの街には欠かせないーー見ろ。これが、私の考えた掘削機械、クラッシャ ともな さいしゅ あんど
246 ャードの、あの警部がいいかも知れない。彼なら信じてくれる。わたしの名前と記事を読め ば、必ず来てくれる。 ハッシュの言った、『未然に防ぐことが、王のため』との言葉が、頭の中でぐるぐると回る。 そう、それがあの人のため : : : あの人のためになるんだわ。 たとえ恨まれたっていい。 それが、あの人のためなんだもの。 リリアは、自分にそう言い聞かせた。 繰り返し、強く。
水を吸った綿のような鉛色の雲が垂れ込めている。今にも、雨か雪が降り出しそうだ。それ でも空は明るい あの闇に比べれば遥かに。 よど 冷たい空気が流れ込んできて、淀みをかき消していってくれる気がして、少し痛む頭を指で 軽く揉んだ。 また、見たのね・ : : ・あの夢・ : てのひら まだ父の腕の感触が残っているような気がして、己の掌を見、そして強く握りしめた。 最近、あの夢を見る回数が多くなっている・ : 窓枠にこつんとをつけてリリアはため息をついた。 疲れが溜まっているからかしら ? 出来れば一一度と見たくないと、毎度毎度思うのだが、願いは聞き入れられてはいなかった。 ・ : けど、あたりまえかも知れない。 忘れられるはずなど、ないのかも知れない。 なぜならあれは、夢であって夢ではないのだから。 彼女は、知らずくちびるを噛んだ。 夢ではなく・ : ハの死に様は、まさにあの通りだったのだから。 目の前を、小さな青い鳥か、チチと鳴いて飛び過ぎ、屋根のむこうに消えた。 ふつ、とリリアの表情がゆるんだ。 なまりいろ はる
自分の足元に、得体の知れない街があるなどということを。 わたしが、あの人からこの街を奪うんだ・ : そんな思いが頭の中を駆け巡る。 だが、結局、リリアは手を離した。 ハッシは別れの言葉もそこそこに、通りを何処かへ駆けていった。壁の向こうへと抜ける 手立てが、そちらの方にあるのだろう。 彼は本当に、あの手帳を届けてくれるかしら : : : ? わからなかった。 けれど、逃げ出すだけならさっさとひとりで逃げればいいのにもかかわらず、彼はわざわざ 危険を冒してわたしを訪ね、真実を見せてくれたのだもの。 信じてもいいような気がした。 もはや、リリアに出来ることは何もない。 彼女はきびすを返し、屋敷へと戻るために馬車を捕まえようと手を上げた。 のその後ろで、ギロチンの刃が鈍い輝きを放っていた。 中 の 影 そんなリリアの行動を、物陰から見張っていた男がいた。 ゴーに命じられて、この一週間、張り付いていた、この街の秘密警察の者である。 おか えたい
110 マの背に、ゴーは気遣わし気な声をかけた。「少々やりすぎだったのでは ? こ じちょう 「あのくらいでちょうどいい。奴らが自重するか、事を急ぐか : : : それはわからぬがな」 喉の奥で、スティーマは忍び笑った。 「しかし、ラッドを殺したことが財閥に知れれば、資金の援助を止められるのでは ? 」 「財閥が今度のことを知ることはあるまい。奴らの役目は、私を御することなのだからな。自 むのう 分の無能を告げるようなことは出来ないだろうー ちゅうじっ 忠実な側近は、静かに頷いて見せた。 「奴らには、私の科学技術がまだまだ必要なのだ。外界でその技術を使い何をしようと構わぬ 一刻も早く、ホールデンらが何を画 が、私の街でこそこそやられるのは気にくわない。ゴー しを 9 い 策しているのかを突き止めてくれ。そのときこそ、奴らに科学の心髄を教えてくれようーーそ れは、恐怖であると」 ゴーは深々と頭を垂れた。 「蒸気科学の王であるスティーマ様に、栄光あらんことをー さく えいこ、つ ぎよ
241 影の中の都 動は、おまえ自ら洗ってくれ。なにかとんでもない獲物がかかるかも知れぬ」 「は。仰せのままに」 夢を見た。 それはそれは本当に久しぶりの夢だったが、いつも見るような恐ろしい夢ではなかった。 始まりは、いつものように闇。だが、リリアは泣いてはいない。子供でもない。今宵の彼女 は十七のままであった。 彼女は誰かを待っていた。誰をかはわからない。 わからないが、待っていた。 やがて、闇の中に白い光が現れた。 それは綿のようでもあったし、月のようにも見えた。 リリアは動かずそれを見ていた。 しばらくすると、光は、ゆがみ、ねじれ、そうして人の形に変わった。 少女に。 たんぽぼ色の髪と、若葉の緑の瞳をした愛らしい少女に。 彼女は人形を抱いていた。 いつも夢で見る人形を。 おお えもの
明るい、紛れもない朝の陽の輝きに目を覚ましたとき、リリアは全てが夢だったのだと思っ しかし、重たいまぶたを開いてみれば、夢は紛れもない現実であった事が知れるのだ。それ は、父が死んだとき、母が死んだときと変わらない。 夢であってくれれば、と思うことは現実であり、現実であって欲しい、と願う事は夢なの 体を起こしてべッドに腰掛け、自分の姿を見、リリアは気が鬱いだ。髪はほっれ、服はだ らけ。お尻の上にのせるようにして、腰のポリ = ームを増すために入れてあるパットが擦れて の痛い。肌がかさつく。 けしよう のああ : : : そういえば、お化粧をおとさなかったんだっけ。 それは、ほんの少し、鏡を見るのが怖くなる事実。 ブーツを履かずに素足のままべッドを離れた。 5 シャドウ・タウン まぎ
「存じません」 「そんなはずはないでしよう ? 彼が運び込まれたのは、あなたが出てぎた、あの病院なんで すから」 「知りません」 「行方不明者は、届けられているだけで、百人を越えているんですよ。彼は、その謎を解く鍵 になるかも知れないんですーヴァールデンは、彼自身気づかぬうちに、テーブルに身をのりだ している。「なにを話したのです、彼は ? 」 「知りません。 そんなに話を聞きたければ、ご自分で直接本人にお聞きになればいいでし よう」 リリアがそう言うと、ヴァールデンは小さくため息をついた。 「会わせてくれんのですよ、院長が。助けられた男が犯罪者なら踏み込めますがね。ただ行き 倒れていただけというのでは、どうしようもない。だから『協力』を頼んでいるのですよ、お 嬢さん」 都「何と言われても、わたしはそんな患者は知りませんわ。あの病院には、院長の取材にいった 中んですからー 影「嘘でしよう 「関係ないでしよう」リリアは激しく警部を睨みつけた。「何であれ、これっぽっちも取材内