果物をわしづかみにした。商人は叫び声を上げたが、男がにらみをきかせると黙った。 「そら、簡単なこった」 ディアはむっとした。 ひとりずつ順番に喰ってやろうかしら。 たましい もっとも、質の悪い魂を喰うのはあまり体に良いとはいえない。 彼女はまだ肩にかかっている男の不格好な手を払いのけた。 「いいかげんに手、離しなさいよ」 「あっ、何しやがる」 「触るなって言ってるの、わかんないの ? 」 ディアを取り巻く男の群れが動いた。 人混みをかき分けるようにして一人の少年が顔を出した。 ディアちゃん ! 」 ディアは声のした方を見た。 若草色の衣が見え隠れしている。 周りのひんしゆくを買いながら、少年はかなり強引に進み出た。 カイだ。 それがわかった瞬間、ディアは不機嫌な顔をさらにしかめた。 たち
のどもと Ⅷ少女の喉元に短剣を向けて かんいつばっ レオンはなぜそれがわかったのだろう。彼は間一髪のところで阻止した。 はため 傍目から見れば、少女が自殺をはかろうとしたのをレオンが身を挺して止めたように見える がーーー自殺というのは神を裏切る行為だ。 なるほど、悪魔のなせるわざだ : ・ カイは妙なところで感心した。 「レオン様 : : : 手当てをしなくちゃ」 白いシャツに赤い染みが広がっていくのに気づいて、カイが慌てて言った。 レオンは放っておけ、と言った。 「そんな元気があるなら、目玉をくり抜いておくんだった」と彼は吐き捨てるように言った。 そして忌々しそうに長剣を抜き、ディアの揺りかごに突ぎ立てた。 少女のディアがびくっとした。 「次は本当にやるそ」 れいこくこわね 震えがくるような冷酷な声音でレオンが言った。 「わかったな」 ディアをベッドに押しこんだ。 レオンに勝負あったようだ。 あわ
彼はいちばん近いところにいる男に長剣の刃先を突きつけ、ディアを立たせた。 「死にものぐるいで走れ ! 」 カイがディアの腕をつかんで押しだそうとしたがディアが抗う。 「ディアちゃん ? こ 「木箱、あたしの箱を落とした」 「はかー カイの唯一の誤算だ。 すき ディアが暴れて、そのおかげで相手に隙ができたというのに 自分で作ったチャンスを逃すなんて、事の重大さを全然わかっていない。 だが彼女はカイの腕を強くはねのけ、石畳にうずくまって木箱を抱きしめた。 いくつかの剣や鉄槌がその頭上に構えられた。 ディアはいとおしそうに木箱を抱きしめてなでていた。 あんど ご無防備な姿で。安堵の表情すら浮かべて りカイは唇をかんだ。 の怒りを通り越して、悲しいような気持ちだ。 悪「何が木箱 : : : だよ」 彼はつぶやき、奪った長剣をしつかりと握った。 てつつい あらが
の 魔 悪「くそう・ : : ・逃げ足の速いガキめ : ・ 男は毒づいた。しかし相手ももうカつぎる頃だ。 苦しい 心臓がこわれちゃいそう。 でも走らなくちゃ。彼女は泣き出しそうな顔で振り返る。 靴もなくしてしまった。もう一歩だって歩けやしない。 箱を支え続けた両手もしびれてきて、指先の感覚もない。 でも・ : : ・逃げなくちゃ。 濡れたように黒い大きな瞳で再び前方を見据え、彼女はまた走り出した。 光が見える。 あの木立を抜ければ : : : 助かるかもしれない。 そこには何があるかわからない。でも、もしかしたら広々としたライ麦畑が広がり、忙しく 働く村人がいて : : : そして彼らは手を止めて、弱り果てた少女を救ってくれるかもしれない。 にお 淡い期待を裏切るように潮の匂いが流れてきた。 疲れ切って痛む足をひきずるようにして彼女は懸命に光に向かって走った。
ディアはにわか作りのべッドに横たわっていた。 だが眠れそうにない。 宿屋とは名ばかりで、客室ではなく、物置部屋なのだろう。 天井から縄が吊られて部屋の端から端へと至り、白いシーツが掛かっている。 がらす 窓は小さく、短冊状に切って広げた山羊の角を硝子の代わりに張り巡らせてある。 硝子は高価で、民家にはとても使えない。使えるのは教会か城ぐらいのものだ。 天井下の張り出し棚には客用の寝具が雑然と積み重ねられている。 木の梯子が立てかけてあるのは、そういった物を上げ下ろしするためだろう。 勧ディアにはそれがどんな部屋だろうとかまわない。 魔木箱の揺りかごさえあれば快適なのだ。 うつわ ディアの器ともいうべき少女が体を休めているのは、天蓋も垂れ幕もないべッドで、部屋の 片隅に藁を敷き詰め、リンネルの敷布で包んだだけの粗末な物だ。 亭主はまだ何か言いたそうにしていたが、とりつく島もないとわかると、苦虫をかみつぶし たような顔をしてそそくさと二階へ上がって行った。 はしご わら たんざく てんがい にがむし
140 「ディアちゃん、人間の体の方もね、すごく弱ってるから : : : 少し辛抱しなさい。ゆっくり治 してやらないと・ーー」 「嫌 : : : 、あんたたちなんかに何がわかるの」 ディアはシーツに顔を伏せた。 痛みをこらえるように白い布を握りしめた。 「しつかりしなよ : どうしたらいい ? どうしたら早く治る ? 」 「知らないー あんたたち : : : ただじゃおかないから : : : 今に : : : 見てなさい」 激情をぶつけるような言葉だが、声は弱々しい。 カイは弱り果てた顔でディアの背中を見つめるはかなかった。 だがレオンは違う。 「ひどいのはどっちだ」と彼は言った。 「人を一人殺しておいて、その言いぐさは何だ」 ディアは弾かれたように顔をあげた。 額に汗を浮かべ、こ・ほれるような瞳でレオンをきっと睨んだ。 「あたしが望んだわけじゃない ! 罠なんか張らなかったのに、あのおじさんは自分からやっ て来たわ。頼みもしないのに、あたしの所へ泥棒みたいに忍び込んで、あたしの揺りかごを勝 手に開けたんじゃない。でもおじさんは喜んだまま死んだわ。いちばん欲しい物を手に入れ わな にら しんぼう
別の腕がカイの体を突き飛ばす。 露店の売り台に投げ飛ばされた。 くず 板ががらがらと崩れて果実が散乱した。 商人が悲鳴を上げた。 かんきっ ネロリ油に似た柑橘類の匂いが漂う。 「ディアちゃん、逃げろ ! ーとカイが叫んだ。 男がとどめをさそうとなだれこむ。 ながぐっけ 汚れた長靴の蹴りを、カイは半身をひねってかわした。 次の瞬間、カイは身を起こし、相手の足をはらう。 ひじう 相手が体勢を崩したところで首筋に肘打ちをかます。 空いたほうの腕は別の男のみそおちにめりこませる。 敵がからかい半分でいるうちに大半を落としておかなくちゃ。 そうつぶやきながら、カイは四人目に蹴りを入れる。 次々に起こる鈍い音やうめき声が、悪漢たちのものだということに、はじめ観衆は気づかな かった。ぶちのめされている当人でさえ、わけがわからなかっただろう。 カイより頭一つ分大きい男がっかみかかる。 ひざ 絶妙な間合いで入り、相手の腕をひねり上げる。脇腹に膝をぶち込む。 にお
て、いちばん嬉しい瞬間に逝くんだからーーーあんたみたいに痛い思いはさせてない」 ディアはまくしたてた後、息苦しそうに肩であえいだ。 ; こりと立日がした。 しよくたい レオンが椅子から立ち上がったのだ。そして飾帯をかすかに鳴らしてべッドの側へ歩いた。 壁の明かりがレオンの顔に深い影を落としている。 彼は顔を傾けてディアを冷ややかに見下ろした。 おかみ 「苦しみを与えない、だと ? あの女将は苦しんでなかったか ? その息子はどうだ、何の関 係もないおまえを助けようとしておれに訴えて来た、ならず者をやつつけてくれってな」 淡々と彼は語る。 ディアが口惜しそうにレオンを見た。 「おれはあいつに頼まれなかったら手を貸さないつもりだった」 ほおかっしよく レオンの頬に褐色の髪がこ・ほれた。背で束ねていたのだが、結わえていた紐が緩んだのだ。 まゆ ひそめた眉以外は無表情でーーその心情をはかることはカイにもできなかった。 勧「それをあのガキ、おまえとカイが殺されても平気かと詰め寄ったんだ。おまえを助けるため 魔にな ! おまえはその父親を奪ったんだ。息子は今はまだ何も知らずに夢でも見ているだろう が、夜が明けたら全てわかるだろう。おまえのしたことは 「あたしのしたことは何 ? ーーそんなの簡単」 うれ ひも
囲とは思えなかった。もしかしたら解決するどころか、逆に恨みをかってしまうかもしれない。 やっかい そうなったら厄介だ。 みじたく 身支度を整えて一晩だけ泊めたらーー後は出ていってもらわなくちゃ。 それをどう切り出したら角か立たないかを思うとまた気の重い話だ。 きおけ ちゅうぼう てつなべ 厨房の奥の鉄鍋に沸かしてあった湯をひしやくですくい、女は木桶に汲んだ。 「おまえ、いいのかね」 亭主もやってきて、少女のほうを気にしながら声をひそめて言った。 年の頃は四十くらいだが、細くとがった鼻と表情の少ない目をした男だ。 「わしらまでとばっちりをくわないだろうな」 「そりゃあわたしもそうは思いますよ。 ・ : ですけどうちの子がきりだしたことなんだから。 あとは知らんぶりというわけにはいきやしませんよ」 「なんでまた、おまえがちゃんと見ていないんだ。余計な事に関わってはろくなことにならな いとわかっているのに」 「わたしだって止めましたよ ! あの子が聞かなかったんですよ」 お / きよっ 亭主が臆病な分、女はしつかりしている。 「でもいっか、どこかで決着をつけなきゃいけないんですよ。ごろっきに良いようにされて、 やっかいごと みんなひどい目にあってきたんです。代官は厄介事を嫌って見て見ぬふりだ。よそから来た他
白磁のような、だが弾力のある生き物が身をくねらせて胴を反転した。 いくつかの筋で区切られた胴の内側が見えた。 胴の両脇には猫の爪に似た無数の脚が生えてせわしなく動いていた。 かぎつめ いちばん上にある鉤爪のついた一対の前脚は他に比べてひときわ大きい 人間の嬰児に似た動きで、その前脚を胴部にひきつけて時折震える。 鉤爪がその時に木箱に当たって音を立てていたのだとわかった。 男はわけもなく心が震えた。 見てはいけないものを見たような気がした。 底冷えのするような畏怖感が足先からはい上がってきた。 みが 磨いた石のような黒い眼球が木箱の中から男を凝視した。 ひっ、と息をのんで男はふたを閉じようとした。 白く美しい手がそれを制した。 「だめよーーもう開けちゃったんだもの」 いつの間に身を起こしたのか、少女が男の傍らで一緒に箱をのそいていた。 の節くれ立った男の手を下から受け止めるようにして、少女の華奢な手が支えた。 悪「もう、だめなの。 : : : 助かんないのよ、おじさん」 少女がにこりと笑った。 ご はくじ いつつい かたわ きやしゃ