134 寄りかかっていたディアの体からカが抜けた。 カイは慌てて彼女を抱き上げた。 気を失ったように見えるが、悪魔が木箱に帰ったのだとわかった。 まだ赤子だという悪魔の力も限界だったのだろう。 お嬢さん、どうしました ? 「ああ、大変ーー 女房も手伝って、ディアをベッドに寝かせた。 「あ、心配ない : : : と思います。眠いだけですからーとカイが取り繕う。 「代官様を呼びなさるんでしようか」 女が不安そうに言った。 カイは当惑して、レオンを見上げた。 「いや。 : : : 何かの間違いだろう。盗まれた物は何もないと思う。朝まで様子をみよう、女将 も休んでくれ」 レオンの穏やかな声が室内に響いた。 カイは自分が嫌になった。 おえっ 宿の女房の嗚咽する声を聞きながら彼は唇をかんだ。 ほうむ 簡単に人をひとり、葬ろうとしてまったことに。 その日は朝までのわずかな時間がひどく重苦しく長かった。 あわ じしっ おかみ
110 客室とは言っても、べ、ツドは大きいのが一つしかない。 カイはレオンの従者のように、べッドの横に藁ぶとんを敷いただけの寝床にいた。 宿代がないから仕方がない。 ざこね はたご 旅籠では知らない客同士が一つの大きなべッドで雑魚寝するのが常だが、カイは路銀もな えんりよ ナししち緊張して眠れないのではないか。 く、、客とはいえないのでさすがにそれは遠慮した。・こ、、 「あ、すみません。起こしてしまいました ? あのう・ : : ・ディアちゃんが気になって」 「夜這いか」 「レオンさまー : ・きつついですねえ。ボク、そんなはしたないことしませんよ。それより、 戸の開く音、聞こえたんです、隣で」 おかみ 「女将だろう」 「違うと思いますよ。こんな夜中に何の用で女将が来るんです」 レオンは聞き耳を立てているのか、しばらく沈黙した。 「女将じゃないなら亭主か ? : : : 何が目的だろう : ですから、間違いが起こらないうちに、ボク見てきます。あのう・ : ・ : もし」 「あ ? こ 「もしかボクが間違い起こしちゃうとか危惧されてるんでしたら、ご一緒に」 「おれはかまわんぞー わら ろぎん
人歩きをして : ・ 日が落ちてからこの通りを何事もなく通り抜けられるなんて思ったら大 間違いさ。人のことより自分の身をまず心配おし」 うまや 「だって : : : 。父さんを呼んでこようよ。厩にいるでしょ ? 「おやめ ! 父さんにもどうしようもない。よそごとに関わって命を落としでもしたらどうす るんだい ? 相手はあのどうしようもない荒くれ男たちなんだから ! 」 「でもーー」 「いいからもうお黙り」 少年は母の目配せに気づいたのだろう、暖炉の横のテーブルを見た。 女将は客人の手前、体裁を取り繕おうとしていたのだ。 レオンは素知らぬ顔で林檎酒をあおった。 ちらりと目をやると、旅籠の息子だろう、十歳くらいの子どもがこちらを見ていた。 硬直したように立ちつくしてレオンを凝視している。 しよくたい レオンは今は武装はしていないが、飾帯には見事な長剣が吊るしてある。 おび それを見て、子供は怯えてでもいるのだろうか。 の「申し訳ございません。お見苦しいところを」と女将が慌てて言った。 悪「早く奥へお行き ! 火の番をしなさい」 彼女はたしなめるように息子に言って追い立てた。 ていさい はたご あわ
168 「芥子のシロツ。フですかー : : : それはまた : : : 」 れんびん 憐憫を含んだカイの声に、レオンが答えた。 にそうしゅうどういんちっ すべ 「フラに任せるしかないそ。彼女は昔、尼僧修道院長だったんだ。癒しの言葉も祈る術も心得 てる」 おかみ 「えつ、あの女将がですか」 しよっかん 娼館の女将と尼僧修道院とは意外な組み合わせだ。 きしゃ 「おかしいか ? 劣悪な尼僧院より居心地が良いかもしれないぜ。礼拝を怠らず、喜捨もケチ らない。ここの娘たちはある年頃になったら降嫁もするし、店を持って独立することもでき る。だから娘たちに悲愴感はあまりないな。そこがフラのおもしろいところだ」 へえ、とカイが感心していると、レオンがつけ加えて言った。 みと 「病んでしまった女は気の毒だが、フラは手厚く世話をするし、最期を看取って埋葬まで責任 をもって面倒を見る。おれたちにできることは何もないさ」 「そうですか。そういうことなら 。ディアちゃんがさっきからその病人だと思うんですけ ど、苦しがってる声が気になるようで、落ち着かなかったんです」 カイは自分の背に隠れているディアへと首をめぐらせた。 「ディアちゃん、病気の女の子がいるんだって。原因がわかったからもういいね ? 」 さと 彼はディアに論した。 こうか いや おこた まいそう
ふんいき 露店の雰囲気や、通りの人々の顔つきで察することができる。 いずれにせよ、長居は無用だ。 とりあえず腹を満たすものと、今夜の寝床さえ確保できれば上等だ。 自分の所領の城館から遠く離れた今、落ち着いた食事など望むべくもない。 彼がナイフで肉汁に浸った香草を束ねるようにして刺し、ロに運んだ時、太った女がチーズ おかみ と。ハンを持ってやってきた。この粗末な宿の女将だ。 ずきん かっしよく 白い頭巾と白い前掛けの他は暗い褐色の衣に身を包んでいる。 粗末な宿の女将とはいっても、物言いのはっきりとした気だての良い女だ。 さかずきりんご 彼女は戸口を気にするそぶりを見せながら、レオンの杯に林檎酒を注いだ。 「またごろっきたちが暴れているんでございますよ。お客さんもお気をつけなさいましな。暗 くなったら出歩かないのがようございます」 もともとレオンには関心のないことだ。かまわずに出されたパンに手を出した。 「ねえ、大変だよ ! 女の子がいじめられてる ! 」 乱暴に戸を開けて少年が飛び込んできた。 「これ、お客さんの前で」 「だって母さん、よそから来た子だよ、きっと、男の子もいるけど、死んじゃうかも」 えんぎ 「物騒なことをお言いでない。縁起でもない。だいたいおまえもいけない。こんなタ暮れに一
148 レオン様とちゃんと仲良くやれよ : : : って無理だろうなあ。 ちゅうぼう 階下の厨房で音がしたので、レオンは様子を見に行っている。 ぬぎぬ 結局彼は、宿の亭主に濡れ衣を着せるようなことはしなかったのだ。 かといって真実を話すこともできない。 ディアが亭主を喰っただなんてーー誰が信じるだろう。 こんせき 死体も痕跡も残っていないからどこかへ姿を消したとしか思えないだろう。 それでいいのかもしれない。 きう 気丈な女だし、子どももしつかりしているから、きっとそれなりにやっていける。 ディアが目を開けた。 一晩中苦しんだようで、すっかり面やつれしている。 「大丈夫 ? 」とカイがたずねた。 ディアがカイを見上げた。 「ずっと いたの ? 」 「うん。ディアちゃんのそ・よこ、 を冫したよ」 「あいつは ? こ ディアがうるんだ瞳で室内を探っている。 おかみ 「レオン様は下。女将と何か話してる。宿代のことかな」 おも
みんなでひどいことしてるんだ。放っておいて、殺されちゃっても平気 ? 」 「おやめ ! そんなことどうしようもないんだよ。あたしたちが今日無事で過ぎりゃあ、それ おかみ でいいじゃないか」と女将があきらめたように言った。 レオンは立ち上がった。 「助けてくれるの ? ーと少年が嬉々として叫んだ。 「やった ! 万歳ー 「まあ、待て。おれの手に負えるかどうかな」 レオンは気がのらないふうで、長剣に手をやって店の戸口へ歩いた。 「ほら、あそこ」と子どもが指さす。 レオンは透けた褐色の瞳でその先を見た。人だかりしか見えないが、争いに関わっていると 見られるのは一一十人程と見た。 ご「わかった。危ないから家ん中、入ってろ」 「おいら、見ていていい ? 」 の「だめだ。向こう行ってろ」 けんそうみなもと 悪レオンは喧噪の源に向けて足を踏み出した。 海からの風が吹いて、褐色の髪を後ろになびかせた。 かっしよく
ざこね と雑魚寝しなければならない旅籠よりはましかもしれない。 おかみ しかもこの娼館の女将と知り合いらしいので、何かと融通がきくのだろう。 ディアがまた何かを聞きつけたように顔を上げた℃ カイが彼女を軽く睨んだ。そして両手でディアの耳をふさぐ。 「こうしてなさい。そんなに気になるんだったら」 しかしディアはがばっと立ち上がってカイの背に隠れた。 おび 何かに怯えるように、カイの背後からおずおずと扉を見つめる。 「ディアちゃん、どうした ? 」 「・ : ・ : ひどく痛がってるよ」 扉の向こうの部屋から聞こえるというのだろうか。 ふたりで扉を見つめていたら、取っ手が動いて戸が開いた。 レオンだ 0 ものう 彼は物憂い顔をして隣室の方に目をやりながら部屋に入って来た。 勧「レオン様、何かあったんですか ? ディアちゃんが物音に敏感で ろうか 魔「 : : : ああ、聞こえたのか。この廊下の奥の部屋に病人がいるらしい」 「病人・ : けし 「芥子のシロップでごまかしているらしいが、あまり効いてないみたいだな」 ご にら はたご ゅ、つう
人様がわざわざ乗り出してくれたのは、ありがたいことじゃないんですか ? ずっと泣き寝入 りじゃ、何も変わりやしないんですからねえ」 自分に言い聞かせるように女は言った。だが亭主はまだ納得しない。 「男の客のほうは、万一のことがあったとしても、宿代を踏み倒すようなことにはならないと 思うがー・・ー・」 おかみ 女将が顔色を変えた。 「不吉なこと言わないでくださいよ ! 」 ふりよ やまい 亭主が言うのは、客が不慮の事故や病で亡くなった時には、その所持品が泊めていた家のも のになるということを指している。 「まあ待て、万が一と言ったろう。そうでなかったとしても、あの娘、路銀も持ってないよう だが、この後どうするんだね ? 亭主は今度は金の心配をしている。 ご「さあ ? あのお客さんと相談して身の振り方を決めてもらいますよ。旅の人なんですから、 途中まで一緒してもらって、どこか預けるところを探してもらいますよ。 ・ : あんた、ちょっ の、 20 ぎ のと通りますからね、どいてくださいよ。野兎を料理したほうがいいですね、食事はまだ終わっ 悪ちゃいなか 0 たんでした。それからーー・また鍋に水を足しておいてくださいね . 女はきびきびと手を動かし、重い木桶を運んだ。 ろぎん
て、いちばん嬉しい瞬間に逝くんだからーーーあんたみたいに痛い思いはさせてない」 ディアはまくしたてた後、息苦しそうに肩であえいだ。 ; こりと立日がした。 しよくたい レオンが椅子から立ち上がったのだ。そして飾帯をかすかに鳴らしてべッドの側へ歩いた。 壁の明かりがレオンの顔に深い影を落としている。 彼は顔を傾けてディアを冷ややかに見下ろした。 おかみ 「苦しみを与えない、だと ? あの女将は苦しんでなかったか ? その息子はどうだ、何の関 係もないおまえを助けようとしておれに訴えて来た、ならず者をやつつけてくれってな」 淡々と彼は語る。 ディアが口惜しそうにレオンを見た。 「おれはあいつに頼まれなかったら手を貸さないつもりだった」 ほおかっしよく レオンの頬に褐色の髪がこ・ほれた。背で束ねていたのだが、結わえていた紐が緩んだのだ。 まゆ ひそめた眉以外は無表情でーーその心情をはかることはカイにもできなかった。 勧「それをあのガキ、おまえとカイが殺されても平気かと詰め寄ったんだ。おまえを助けるため 魔にな ! おまえはその父親を奪ったんだ。息子は今はまだ何も知らずに夢でも見ているだろう が、夜が明けたら全てわかるだろう。おまえのしたことは 「あたしのしたことは何 ? ーーそんなの簡単」 うれ ひも