華奢な体で、険しい山あいをいつまでも走り続けられるものではない。 旅の途中で賊にでも襲われた貴族の娘だろうか。 ふるいっきたくなるような美しい娘だった。宝箱みたいな物を大事に抱えて。 さっさと手放せばまだ身動きがとれるものを、ばかな女だ。 いのちご 金貨でも入っているのかしれないが、そんなもので命乞いできると思うのか。 ごくじ、っ・ それにしても : : : 極上の玉だった。 まだ幼いようにも思えたが、女は女だ。 この山奥でとんだごちそうが転がり込んできた。 ここで逃してたまるか。 男はごくりとのどを鳴らした。 目にやきついている娘の姿をたどる。 白い手首、白いうなじ、柔らかな黒い髪 この森の中でたったひとりで逃げまどう娘。 触れれば砕け散るかもしれない。 外気にすらなじまないと思える透けるような肌。 武器もなく、力もなく、己を守るすべも知らずーーただ美しいだけ。 そんな女の命運は決まっている。 きやし 4 ぞく
「本当よ。あたしにろくな物を食べさせてくれないんだから。ひどい仕打ちばかりするのよ」 「へえ : : : そうかい ? こんな高価な着物を買ってくれたのに ? 見立てたのはあたしだけど まち さーーーそんなことを言ったら罰があたるよ。まあ、ひどい仕打ちってのはわかる気もするね。 レオンに惚れた娘はみんなそういうよ。ちらとでも笑いかけてくれりや、どの娘も使い物にな かたぶつ らないくらい夢見心地になってしまうってのに、レオンときたらあの通りの堅物だもの。だけ ひど どね、レオンにしてみりや、誰にでも良い顔をするのはかえって酷い仕打ちなのさ。女の機嫌 を取ったりなんて気の利いたことは一切しないけど、こうまで世話をしているのは、憎からず 思っている証拠じゃないのかい」 「おばさんの言うこと : : : わからない。もちろん笑いかける、なんてことないわ、一度だっ て。でも別にそんなこと必要ないでしよ。 大切なのは食べ物よ。レオンはあたしを飼って るのに何も食べさせてくれないんだから ! あたし、本当にレオンに殺されるかもしれないの よ ? ・ ディアがまじめな顔で訴えるのを、フラが楽しげに聞いていた。 動「飼ってるだって ? おもしろい娘だね、こりや退屈しないわ。安心おし、食べ物は用意して えり せいそ 魔あるから : : : さあ、きれいになった。衣もよく似合ってる。襟が高いのは清楚で良いね。うち の娘たちのドレスはみんな、胸元が開きすぎているからね。髪は何もしないほうがおまえさん 礙には似合うかもしれないーーあとは、そうそう、につこり笑うのが良いよ。そして死ぬほどレ ご
102 「おまえ、どうするつもりだね、あの三人」と亭主が言った。 外はすっかり闇に覆われている。 いつもと違って怒号も悲鳴もない、静かな夜だ。 女房は明朝の、客の手洗いのための布を整えている。 かんきっ 香油は柑橘類から作ったネロリ油を使おうと、香油瓶の中身を確認する。 女は細やかな仕事を楽しむ様子だ。 「どうって : 、ごろっきを始末してくれたんですからね、あの三人をただでもてなしたとこ ろで、安いものじゃありませんか。これから安心して暮らせるんですからね」 うまや 「しかし、始末をつけたのは三人じゃないね。レオンとかいう貴族様は、厩で見たが馬も立派 くら だった。ああいう客は、万一支払いが悪かったとしても、馬の鞍なり長剣なりを抵当にすれば しし・カ あとの二人は客じゃない。あの娘におまえ、着物までくれてやるのかね」 「着の身着のままで困っている娘さんを放っておけますかね。自分に娘がいたらと考えるとそ っとしますよ」 「着の身着のままというがね、宿代くらいは払えるんじゃないかね」 おお びん
「気持ちいし ・ : あたしには何の匂いでもいいわ」 柔らかな布で女はディアのうなじを洗った。ディアがくすくす笑った。 みが 「くすぐったいかい ? がまんおし、びかびかに磨きあげるんだから。あたしや、久しぶりに すみ 楽しみだね、こんなに磨きがいのある娘にはなかなかお目にかかれない。レオンも隅に置けな 。しかしまあ・ : ・ : おまえさんは、痩せすぎだね。もっとたくさん食べなきやだめだよ。 もっともレオンは女に関しては気が利かないとこあるからね、仕方ないね」 かたわ 女は手を止め、傍らにいた娘に、湯を足しとくれと言った。 「おばさんは、レオンの知り合い ? こ 「ーーああ、古い友人だね」 「古いって、そんな昔から ? 」 「レオンがこんなちっちゃな時からさ」 女は胸元のあたりに手をやって見せた。 そんな小さな時がレオンにもあったのかとディアは不思議な気がした。 勧「おばさん、フラって名前 ? レオンがさっきそう呼んでたわ」 魔「そう。これは僧のことを言う名前で、あたしやけっこう気に入っているよ」 「おばさんに似合うわー 「ありがとう。あんたはなかなか物わかりがいいね。さすがはレオンの気に入った娘だ」 ご
「誰か、手を貸して ! 」 女が叫んでいるのが聞こえる。 ディアが真っ先に部屋を飛び出した。 レオンが舌打ちしてその後に出ていった。 カイも後を追おうとしたが、ふと足を止め、部屋の中に瞳を巡らす。 ディアの眠っていたべッドの奥に取り残された木箱を見た。 「おっと、いけない」 悪魔の揺りかごを放置するのは危険だ。 カイはべッドの奥からそれを取り出して、脇に抱えた。 しよっかん 廊下を出て左奥の部屋では、娼館の娘が何人か集まっていた。 ある者は不家けに中をのそいており、ある者は壁の方を向いて涙をぬぐっていた。 レオンとディアが彼女らの間を通り抜けて中に入ると、フラやその下女らしい若い女が病人 揺の世話をしていた。 けんめい 魔苦痛の極みに達しているらしく、暴れてもがく娘をフラが懸命になだめていた。 ディアは足がすくむ思いだった。 人間は、 : ・ : ・沛い ご
164 「フラ」とレオンが言った。 「そういうのじゃないんだ。いろいろ世話になったのはありがたいがーーーあいつを甘やかした りしないでくれ。必要以上に着飾らせることもないし。それと : : : 頼みついでに、数日泊めて くれないか」 ししの ? こんなとこ 「かまいませんよ、古い友達の頼みとあれば、断りやしない。でも・ : ろで。あの娘の教育上よろしくないんじゃないかい」 はた′」 「館の中をうろうろさせないようにするから。旅籠では何かと人の目に触れるし : : : もう少し 丈夫になって長旅に耐えられるまでーーー頼むー かたぶつ 「わかった。堅物のレオンがそういうなら、特別な事情があるんだろう。詮索はしないでおく よ。 : ・だけどね、ここ数日のうちに忌みごとがあるかもしれない、それだけは承知しておい てくれるかい」 フラが神妙な顔つきになって言った。 「忌みごとーーー ? 「うちで働いていた娘のひとりが、もう長くはないのさ」 「病気か ? 」 「ああーー手は尽くしたけどどうしようもない。ひどく苦しむから芥子の薬液で楽にしてやる ぐらいのことしか : : かわいそうだけどどうにもしてやれない」 せんさく
158 あやめの匂いがした。 ばら 「これは本当は男の使う香油なのさ。ここの娘たちは薔薇の香油をみんな好むけれど、レオン はそういうの嫌いらしいからね」と女が言う。 ちをつにくちゅうぜい 中肉中背で、若い時にはなかなかの美人だったろうと想像がつくが、きびきびとした動作 よくそう や物言いが男っぽい。 彼女はタイル張りの部屋に特別あつらえの浴槽を置いて、少女に湯を使 わせていた。 よ , 、そう 少女ディアは大理石の浴槽に身を沈めて目を閉じていた。 湯から酸味のある芳香が漂う。なめらかな白い肌に女は何度も湯をかけた。 気晴らしに窓の外でも見ていたのだろう。 ほほえ 弱々しく微笑んでいたが、今にも消え入りそうで目が離せない。 髪に艶もなく、 - 唇の色も悪いのは、ディアを見慣れているせいだけじゃないだろえ しよっかん だが、娼館で体をこわす娘など、珍しくもないのかもしれない。 こんな女性を働かせるなんて : : : どういう知り合いなんだろ、レオン様の。 いきどお カイはそんな憤りは隠して、どうも、と言った。 つや にお
168 「芥子のシロツ。フですかー : : : それはまた : : : 」 れんびん 憐憫を含んだカイの声に、レオンが答えた。 にそうしゅうどういんちっ すべ 「フラに任せるしかないそ。彼女は昔、尼僧修道院長だったんだ。癒しの言葉も祈る術も心得 てる」 おかみ 「えつ、あの女将がですか」 しよっかん 娼館の女将と尼僧修道院とは意外な組み合わせだ。 きしゃ 「おかしいか ? 劣悪な尼僧院より居心地が良いかもしれないぜ。礼拝を怠らず、喜捨もケチ らない。ここの娘たちはある年頃になったら降嫁もするし、店を持って独立することもでき る。だから娘たちに悲愴感はあまりないな。そこがフラのおもしろいところだ」 へえ、とカイが感心していると、レオンがつけ加えて言った。 みと 「病んでしまった女は気の毒だが、フラは手厚く世話をするし、最期を看取って埋葬まで責任 をもって面倒を見る。おれたちにできることは何もないさ」 「そうですか。そういうことなら 。ディアちゃんがさっきからその病人だと思うんですけ ど、苦しがってる声が気になるようで、落ち着かなかったんです」 カイは自分の背に隠れているディアへと首をめぐらせた。 「ディアちゃん、病気の女の子がいるんだって。原因がわかったからもういいね ? 」 さと 彼はディアに論した。 こうか いや おこた まいそう
狡猾な物言いで亭主が言うのを、女房が驚いたように聞き返した。 「宿代 ? 、どうしてですか ? あれを見てわからないんですか ? : かわいそうに、衣も破 くっ れているばかりか、靴もないんですよ ? 何もかも取られてしまったに違いないんです」 かっこう あかぬ 「しかしあの箱はどうだ。恰好はああでも、なんというか垢抜けしていてーーー思いがけない高 貴な家の娘かもしれんじゃないか。 おまえ箱の中身を見なかったかね」 「ええ、そりゃあ : : : ずっと抱えてましたからね。子どもがお人形を抱っこしているみたいに ねえ、わたしはあえてそれを引き離さないほうがいいと思ったんですよ。ただでさえこわい思 いをしたばかりなんですから。まあ、取り越し苦労でしたけどね」 「ふうん : : : わしがにらんだところ、ありゃあ、相当な財産が入ってるに違いない。さっき持 ずいぶん った時、随分重かった。娘は軽々と持っていたように見えたが、びつくりだね、あれは。銀貨 が何百枚という重さだった。揺れた時にも音がしただろう・ : : だから、取るものはちゃんとも らってもいいとわしは思うね きとうしょ 「まさか : : : そんな財宝が入ってるなんて嘘ですよ。せいぜい小さな祈疇書くらいのもんでし ようよ。銀貨の音なんてわたしには聞こえませんでしたよ」 揺 魔女房は腑に落ちないという顔で受け答えをしながらも手だけは動かしていた。 つば やぎつの 亜ちゅうぼうたな 厨房の棚から壺を出し、山羊の角に白い粉を詰めている。 かき 牡蠣を砕いた粉で、歯を磨く時に使うものだ。 こうかっ みが
190 病人がディアに向けて腕を伸ばした。 ディアは後ずさりした。 あたし、しかけてなんかいない。この人を殺したくなんかないのに けんめい だが病人はディアの木箱が欲しくてたまらないというように、懸命に体を起こした。 今まで石病をしていた女たちがみな目を見張った。それほどの力が残っていたとは信じられ なかったのだろう。 「見せてやれ、ディア」とレオンが言った。 そしてレオンはディアの肩をつかんで引き寄せた。 「苦しんでいるのがわからないのか」 レオンは忘れているのだ。捕食する所を他人に見られてはいけないことを。 だがすぐに気づいてか、レオンは人払いをした。 「フラ、ここはおれに任せてくれないか」 「レオン ? しいけど : : : 大丈夫かい、何かあったらすぐ呼んでおくれよー フラはレオンを信頼しているのだろう、娘たちを連れて部屋を出て行った。 寝台の上に取りつけられたの垂れ幕が引かれた。