63 悪魔の揺りか 「危険です 「おれが喰われるはずがない」 「その慢心が危のうございます。ご長老様、そうではありますまいか ? こ 若者に答えて、しかし老人は絞り出すように笑った。 「いいじやろう、面白い。やってみるがいい。捕らえたら見せてほしいものじゃ。わしも最期 はあいつの腹を満たしてやりたいと思わんでもないのじゃ あくび 言い終えると老人は欠伸をひとっした。 「お休みなされますか」 「そうじゃのう ひざ 付き人は老人の膝にかかった毛布を引き上げ、レオンに一礼した。 それを合図にレオンは退室した。 ろ、っそく 手の中には蝋燭代わりに使われていたという悪魔の眼球がある。 ご ' 騙されたような気がしないでもない。 ただの作り物を、若者が喜んで持って帰ったと、笑い話にされるかもしれない。 なぜ老人を頼ったのか、と己をあざ笑った。 だが海いてはいない。 他に手がかりがないなら、騙されてもみよう。 だま
婚約者として、粗末に扱ったこともなければ、貧しい家の者でもないのに。 「わしも若い頃に幾度か見たが、見るたびに違う姿で現れたの。 さすがにここまで生きな がらえると、悪魔のやつもあきらめたらしいわい。近頃はとんと見かけぬ」 「ご長老には心の飢えがございませんゆえ」と付き人が言った。 「若い娘なら山ほどあろうがーーーどうじゃ、思い当たらぬようじゃな。それならいっそ・ : : ・」 レオンは答えられなかった。 婚約者が何を欲しがっていたかなんて、考えたこともなかったのだ。 「悪魔を飼いなされー 「悪魔を捕らえて飼えば、真実がわかるかもしれん」 「捕らえる ! 」 レオンは切れ長の目で老人を凝視した。 「いるかいないかわからないものを ? 」 「おまえ様がいないと思えば、そんなものはいないじやろうがな。いないと思うなら、許嫁の やまい ことは気の病とあきらめるがよかろうー かつがれているのか ? レオンは傍らにいる、老人の付き人を一瞥した。若いその男は真剣な顔で老人のロもとを見 かたわ かっ いちべっ
地下のワインセラーに似た一室に入って薄暗い室内を彼は見渡した。 低い天井は岩肌がむき出しになっており、ところどころ木の根が突き出ている。 壁につけられた明かりを頼りに目をこらし、部屋の奥で何かうごめくものを見た。 みめうるわ 、これはまた見目麗しい御仁じゃ。お迎えが来たかと思うたわ」 動かなければ、・ほろ布を敷きつめた上に据えられたミイラにも見えたが、突然口をきいた。 こわね しわがれていたものの大きく、カのある声音だ。 とうげ 「ご長老様、シャロワ家のレオン殿ですよ。オタールの峠をご存じでしよう」 若い男が老人に耳打ちした。その様子では目も耳も達者なのだろう。 富とは無縁の老人だが、・ とこからともなく人が集まり、従者のように世話をしている。 「さあ、どうだったかの。じゃが、こんな老い・ほれに何の用じゃな」 あんど レオンはだしぬけに問われたことを不快に思うどころか、むしろ安堵していた。 ご誰よりも長く生き、『知恵出づ』と呼ばれ、人から慕われてきたこの老人に一刻も早く聞き カ りたいことがあった。 の この瞬間、この目で見るまでは、レオンがたどり着くまで彼が生きながらえているかどうか 悪すらひそかに疑っていたのだ。レオンは即座に言った。 たましいゆくえ 「婚約者の魂の行方を知りたいのです」 ′」じん
だがそれ以上のものがあったかといえばーー・・愛してやまないといえたかどうか。 レオンはそういったことをじっくり考えるのが苦手だ。 馬の鞍や剣や武具を語るほどには女のことは語れないのだ。 「そのご婦人は、心ここにあらずといったご様子なのですか」とまた若者がきいた。 しかばね 「生ける屍」とレオンがきつばりと言った。 「放っておけば衰弱して死ぬでしよう」 ほうほう、と老人が納得したように言った。 いいなずけ ーー悪魔に魅入られたのじゃな」 「その許嫁の娘はつまり おお 「悪魔 ? : ・悪魔に魂を喰われたと仰せか」 まゆ レオンは眉をひそめて老人に言った。 「目の前に、欲しい物を見せられて、禁断の扉を開けてしまったのじやろう」 コ扉 ? 」 「いろいろな姿をして悪魔は現れるのでな、扉とは限らぬよ。笛の音で心を惑わす悪魔もおれ にお たく か : : : 心が飢えている者の匂いを巧みに嗅ぎつけてやっ りば、色香で惑わすものもあるじやろう。 のて来ますのじゃ」 悪「心の飢えーー レオンは少なからず衝撃を受けた。 ら かっ
61 悪魔の揺りか みじん ていた。師の吐き出す言葉全てに微塵も疑いを抱いていないようなのだ。 がてん 「合点がいかぬようじゃ。 ・ : そうじゃった、あれを見せてやりなさい、悪魔の目じゃ。蠍燭 立てにまだあったじやろ」 老人が壁の明かりの一つを指さした。 付き人は、ああ、と思い当たったようにうなずいてそれを壁からはずした。 かけら 彼は小さな素焼きの皿をレオンの目の前に掲げた。皿の中心に乳白色の欠片が置かれてい じゅうし た。皿の底は獣脂にまみれている。付き人が指さしたその欠片は、赤子のこぶしほどの大きさ で、半透明な、つぶれた球体だ。手をかざして影をつくると、かすかな光を放っているのが見 える。 「これです。蝋燭の代わりに使っていたのですー 「悪魔の目 ? これが ? 」 「はい。ご長老様が昔悪魔使いの男から譲り受けられたもので、三十年ほど前にはこの目その ごものが、蠍燭の明かりもいらないほどに輝いていたそうです」 けげん レオンは怪訝な顔でそれを観察した。 いまだ信じられないが、確かに淡く光っている。 老人はなぜこれが悪魔の目だと思うのだろう。 「悪魔使いが死に際にここを訪ねて来てのうーーその時わしはまだ百と少ししか生きておらん ろうそく
いいなずけ だから、許嫁であった恋人の魂を探す旅にあってーーレオンは幾度も途方に暮れる。 、何に飢えて悪魔に魅入られたというのか。 わざ 女の心がわからないのにそんな物を推測するのは至難の業だ。 むぼう きたん いっそあの無謀な少女のように忌憚なく物を言ってくれていれば、まだわかりやすいのに。 許嫁が本当に悪魔に魂を奪われたかどうかも疑わしいのだが。 だが今は、他に手がかりもなく、あの老人の言葉に従って探し、待っているのだ。 ーー悪魔との出会いを。 もしかしたら、ひどく無駄なことをしているのかもしれない。 レオンは隣室の気配を探った。 宿の亭主が来たというなら、カイとはち合わせして気まずいことになっているかもしれな い。だが言う争う物音などは聞こえない。 宿の亭主が少女の部屋に来たなどというのは嘘だったのだろうか。 動何事もなければそのうち戻って来るだろうし、戻って来なければ、少女と意気投合してよろ 魔しくやっているということだ。 ませたガキ。 レオンは苦笑する。 かっ
かったが , ーーその男が死ぬ時に残していったのじゃ。飼っておった悪魔に喰われかかって、命 からがらやって来たとな。悪魔は自らの手で殺したというので、本当の姿はわしは見ることは なかった」 レオンはなめるようにそれを見ていたが、やはり得体の知れないものだと思う。 にお 「それを持っていくがよいわ。仲間の匂いに誘われてやって来るかもしれん。ただし腕に覚え があっても油断はできぬがな。あやかしも使えば色香で惑わせもする。あの手この手を使って おまえ様の魂を喰おうとするのは必至。喰われないという自信があるなら、捕らえて飼うのが 良い。悪魔使いになるーーそれがいちばんの近道なのじゃ 納得いかない顔でレオンは聞いていた。 ただひとつ、心に触れるものがあった。 喰われる、だと ? このおれが ? あやかしや色香にまんまとはまって喰われる ? ・はか・はかしい 挑発されているような気もするが、ここで引き下がるわけにはいかない 「捕らえて、飼うーー いいだろう」 「シャロワ殿ーー」 老人の付き人が不安そうに言った。 たましい
老人はロをもぐもぐさせてしばらく何か考えているそぶりをした。 「ある日突然、物も言わなくなり、目の動きも虚ろとなりーーー放っておけば飲むことも食べる たましい こともないーーまるで魂を失ったとしか思えないのですー と付き添いの若者が言った。 「それはお気の毒なーー 「愛してやまない方なのでしようね」 レオンは琥珀の瞳でちらりと彼を見た。奇妙な質問をする。 「愛して : : : ? さあーーそう問われるとそうでもなかったかもしれない」 問いかけた若者が驚いてレオンを見つめ返した。 正直言って、そう答えるほかなかった。 確かに結婚を約束していた。抱きしめれば愛しさも感じた。 しかし目の前にいなければ忘れる程度のものだ。 女とはそんなものなのだろうと思っていた。 だが、彼女が魂をどこかに放ってからの方がむしろ、気になった。 婚約を破棄しろという親族もあった。だがレオンはしなかった。 逆に彼女を自分の館に引き取り、侍女も何人かつけ、大切にした。 結婚の約束をとり交わした女を、原因もわからないのに見捨てることなどできなかった。 人はレオンを情け深いと言った。
190 病人がディアに向けて腕を伸ばした。 ディアは後ずさりした。 あたし、しかけてなんかいない。この人を殺したくなんかないのに けんめい だが病人はディアの木箱が欲しくてたまらないというように、懸命に体を起こした。 今まで石病をしていた女たちがみな目を見張った。それほどの力が残っていたとは信じられ なかったのだろう。 「見せてやれ、ディア」とレオンが言った。 そしてレオンはディアの肩をつかんで引き寄せた。 「苦しんでいるのがわからないのか」 レオンは忘れているのだ。捕食する所を他人に見られてはいけないことを。 だがすぐに気づいてか、レオンは人払いをした。 「フラ、ここはおれに任せてくれないか」 「レオン ? しいけど : : : 大丈夫かい、何かあったらすぐ呼んでおくれよー フラはレオンを信頼しているのだろう、娘たちを連れて部屋を出て行った。 寝台の上に取りつけられたの垂れ幕が引かれた。
今思えば、悪魔と一夜を共にしていたのか。 えじき それでも餌食にならなかった。 カイが箱を開けなかったからだろうか。 「少し考えさせてください。朝の出発までに答えを出します」 忘れろと言われて簡単にできるものではない。 、腕にある少女の温もりは、きっといつまでも消えないだろう。 レオノま、 、をいくら考えたって同じだそ、と言った。 足音がしたのでふたりはロをつぐんだ。 宿の女房が青ざめた顔で戸口に突っ立っていた。 まゆ レオンが眉を寄せて女を見た。 彼女はレオンの足下にうずくまってびれ伏した。 「お許し下さい : 主人がどこにもおりません」 彼女は泥棒が自分の亭主だと悟ったようだった。 きじよう 目の前が真っ暗になっただろうが、女は気丈に対応した。 魔「何か無くなった物があれば、わたしが代わって一生かけてもお返しします。どうかおっしゃ って下さい ! 」 カイの胸がずきずきした。