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検索対象: 新潮45 2016年7月号
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1. 新潮45 2016年7月号

ⅲ本髞決定発表 各記念品及び副賞百万円 【第 29 回】 【第 29 回】 山本周五郎賞 三島由紀夫賞 【選考委員】 【選考委員】 石田衣良角田光代 川上弘美高村薫 佐々木譲 白石一文唯川恵 辻原登平野啓一郎町田康 1 な 新 潮 〇 五 年 年 十 四 月 月 号 集 英 社 0 【みなと・かなえ】 1973 年、広島県生まれ。 287 年「聖職者」で第 29 回小説推理新人賞を受賞。同作を収録する「告白』 が 2 開 8 年に刊行され、翌年第 6 回本屋大賞を受賞。 2012 年「望郷、海の星」で第 65 回日本推理作家協 会賞 ( 短編部門 ) を受賞。 2014 年「告白」の英訳 版が米紙「ウォール・ストリート・ジャーナル」 でベストミステリーの 10 作品に選出され、同年、 全米図書協会 AIex 賞にも日本人の作品として初め て選ばれた。他の著書に「少女」「贖罪』「 N のた めに」「夜行観覧車」「往復書簡」「花の鎖」「境遇」「サ ファイア」「白ゆき姫殺人事件』「母性」「望郷』「高 校入試」『豆の上で眠る」「山女日記」「物語のお わり」「絶唱」「リバース」「ポイズンドーター・ホー リーマザー』がある。 【はすみ・しげひこ】 19 年 4 月 29 日東京生まれ。 80 歳。東京大学文学 部仏文学科卒業。教養学部教授を経て 1993 年から 1995 年まで教養学部長。 1995 年から 1997 年まで副 学長を歴任。 1997 年から 2 開 1 年まで第 26 代総長。 主な著書に、「反 = 日本語論」「凡庸な芸術家の肖 像マクシム・デュ・カン論」「監督小津安二郎」「陥 没地帯」「オペラ・オペラシオネル』「「赤」の誘 惑ーフィクション論序説ー」「随想」「「ポヴァリ ー夫人」論」がある。 一般財団法人新潮文芸振興会

2. 新潮45 2016年7月号

第はつらを旅する 引いてしまい、自分が振られたかのよう に去ってゆく。 寅は、音邦なことに女性に対してスト ィックである。 それが決定的だったのが、第四作「寅 の伊長の恋 次郎あじさいの恋」 ( 年 ) 。いしだあゆ み演じる末亡人を好きになり、相手もそ の気になったところで、ひるんでしまう。 丹後の漁師町、伊根 最後の一線を超えることをせず、別れて 舟屋」のある漁港の風景は、 しまう。 年前の映画の中と、 惚れられているのに、手を出さない。 ほとんど同じだった / 自分はやくざな男だから、かたぎの女性 かわもとさぶろう には触れないという寅なりのけじめがあ るのだろう。 川本三郎 の ′、ろら′と 19 4 4 年東京生れ。東京大学法学部卒。 付合う女性は玄人だけ。決して素人に 朝日新聞社を経て独立。著書に「マイ・ 次 / は手を出さない。あれだけ女性に溺れた バック・べ」ジ」「荷風と東京」等。 永蕎風が「女好きなれど処女を犯した ることなくまた道ならぬ恋をなしたる事 かえり いつも女性に振られてばかりいる寅だ笑い話にしてしまう。 なし。五十年の生涯を顧みて夢見のわ が、たまに女性に惚れられることもある。第作「浪花の恋の寅次郎」氤年 ) るい事一つも為したることなし」 ( 『断腸 第川作「寅次郎夢枕」 ( 肥年 ) では、の大阪の芸者、松坂慶子も、第作「寅亭日乗』昭和三年十一一月三十一日 ) と書 寅の幼なじみで、夫と離婚し柴又で美容次郎紙風船」 ( 年 ) のテキャ仲間の女いたことを思い出させる。 院を開いている八千草薫が、明らかに寅房、立品契紀子も寅に好意を持っていた。素人の女性には手を出さない。やくざ と結婚してもいいと思った。それを寅はところが、いざというところで寅は身をな寅なりのモラルである。 しろうと July 2016 186

3. 新潮45 2016年7月号

に殺人容疑のかかった沖縄の事件としてでの年間の平均値をとって順位付けし関係していると類推することはできる。 は幻年ぶりだ。前から年代にかけてみたら以下の結果が得られた。 詳細な分析は今後の課題である。ネット 1 ・ 4 6 4 て、米軍者の殺人事件が目立ったこ 1 位大阪府 上でも沖縄県の殺人事件が相対的に多い 1 ・ 4 LO 5 とは事実だが、「殺人が多い」という印 2 位沖縄県 ことは話題になっているが、「沖縄の殺 1 ・ 1994 象はその時代に蔑されたものだろう。 3 位高知県 人事件の大半は、本土からの観光客や移 1 ・・ 1 り 0 0 こうした「歴史の記憶」が大切なこと 4 位香川県 住組が起こしている」との書き込みが多 1 ・一 1 1 LO かったので、念のため調べてみた。 は否定しないが、米軍関係者の事件では 5 位和歌山県 たしかに県外者による殺人事件も起こ なく、沖縄県内で現在進行中の深刻な事 態にも注意を払う必要がある。それとい驚いたことに、沖縄県は大阪府と僅差ってはいたが、その数は限られており、 うのも、沖縄は殺人事件の発生半が、全でワースト 2 位を占める。しかも、年別他県の場合も県外者が起こす殺人事件は 国一のレベルだからである。 に見ると、 2001 年から 2007 年ま珍しくない。「沖縄の殺人事件はよそ者 擎第の公表データに拠れば、 200 で、沖縄は 7 年親全国ワースト 1 位だが起こしている」といった物 = ロいは不適 0 年から 2014 年までの年間に沖縄った。 3 位以下の数値を見ても、男と切で、「観光客」や「移住者」に殺人の 臠で認知された殺人羇用事件の数はしては異例の高さだ。「癒しの島」のイ責を押しつけるような姿勢は差別的で好か 298 件 ( 未遂も含む ) 、年平均は四 メージが強い沖縄だが、ネガテイプな側ましくない。同じく「凶悪犯は米軍関係 8 件だ。人口がほぼ同じ他県と比較する面があることを改めて認識す べきだろう。者」といった言説が平然と罷り通る現状 と、沖縄の数値がとくに高い。長は因みに殺人事件発筆の低いのは、下かも差別的だ。米軍者の起こした事件 累計 143 件、年平均 9 ・ 5 件、県ら順に、秋田、山形、福井、富山、岩手ばかりが注目を集め、沖縄で起こっていは る現実を冷静に見つめない姿勢では、県刻 は累計 239 件、年平均新・ 9 件、山口である。 治 県は累計 224 件、年平均・ 9 件、滋賀沖縄と大阪の殺人事件発筆が高い理民のいのちと暮らしを守ることはできな 最 県は累計 15 7 件、年平均川・ 5 件だ。由については、まだ本格的な分析は見あい。 の 次いで人口川万人当たりの殺人羇用たらないが、沖縄が所得格差 ( ジニ係外務省から沖縄に派遣されていた水上縄 事件の認知数を「殺人事件発筆」とし数 ) ワースト 1 位、大阪が同ワースト 2 正史沖縄担当大使 ( 6 月上旬に異動 ) が 3 て算出し、 2000 年から 2014 年ま位であることを考えると、格差や貧困が今回の事件に関連して、人命を守る責

4. 新潮45 2016年7月号

四年後には、日本の新繽開業と同じ年幌、横浜、福岡、仙台など全国の計十一一両に日本式の「女性専用車両」も導入さ にされた示五輪が再び開かれる。都市で四十五路線、総延長約八百キロのれた。 ただ、とりわけコスト面で欧州や中国 ニッポンの新繽が新たな光を浴びるか地下鉄が運行されている。もともと国土 が狭く、都市部では地上に建物が密集しの海外勢の攻勢に遭い、国際人札では車 どうか、注目される。 ているだけに、地下鉄のメリットは大き両の受注などの大型契約のには至っ かったのだ。 ていない。政府は、地下鉄に限定し 地下鉄 同じアジアには、日本と似た事情を抱て低利融資する円借款を導人し、民間の 「華やかさの点では新繽の陰に隠れがえた都市が数多くある。経済成長を遂げ技術者を現地に送り込んで巻き返しを図 ちだが、メトロ ( 地下鉄 ) の関連分野もた日本はまず、七四 ( 昭和四九 ) 年に開ろうとしている。 業して以来、次々と路線を増やしていつ中でも、経済成長が著しいベトナムは 日本の重要な看板になっている」 内閣府にある経協インフラ戦略会議事た韓国のソウル地下鉄に対し、建設禾有望な市場だ。最大の都市ホーチミンで 務局の担当者は、世界の鉄道市場が伸びのために円借款を供与し、家を派遣は四年前、路線の一部が地下鏡となる都 市鉄道の建設工事が着工しており、森 る中で、都市圏を走る都市鉄道の中心をするなどして支援を行った。 担う地下鉄システムの輸出 2 莪を強調続いて世界最大の地下鉄市場といわれ盟は一一〇一一〇年のエ疋だ。ベトナムで した。 るインドの首都デリーの「デリーメトロ」は初の地下鉄となる。 日本で最初の地下鉄は、関東大震災かの建設事業にもによる支援を行い、総工費一一千三百億円の大半は日本の支 ら四年後の一九二七年、東京地下鉄道人口自や車の増加に伴う渋滞の緩和と援で賄われる。ホーチミンは他のアジア の大都市同様、自蓮な都市化による ( 現在の東京メトロ銀座線 ) の上野ー浅経済活動の効率性向上にひと役買った。 この地下鉄は、一一〇〇一一年に雙。現在の弊害が表面化しており、その解消が期 草間に開業した。距離は一一・二キロで、 では一日あたり平均一一百五十万人が利用待されている。日本は東示メトロや大阪 アジアでも初の地下鉄だった。 その六年後の三三年には、大阪の梅田し、デリー市内の自動車が十一一万台も削市営地下鉄の料金徴収システムや列車運 ー心斎橋間 ( 三・一キロ ) に国内一一番目減されたという。工事の過程では、安全行に関する鎮術やノウハウを移転し、実 の地下鉄が開業している。以後、延伸や面や環境に配慮した運行についてノウハ績を作りたい音尚だ。 新路線の開設が続き、今では名古屋、札ウも。一〇年には、各路線の先頭車このほか、三年前には丸紅、東芝、 面 2016 44

5. 新潮45 2016年7月号

( 行年 ) の真野響子、第作「寅次郎春は、少しく心が躍った。工疋では伊根の 「寅次郎あじさいの恋」では寅は、京都の夢」 ( 四年 ) の香川京子。いずれも末あと、第作「寅次郎恋やつれ」 ( 年、 の町で商売をする。ちょうど葵祭の頃。亡人である。 吉永小百合主演 ) のロケ地になった島根 ゅのつ ひと仕事を終えて鴨川べりで休んでいた ちなみに、未亡人は日本映画の典型的県の温泉津と津和野にまわる。山陰本線 時、下駄召が切れて難儀している老なヒロインで、小津安一一郎「束尺物をはじめ鉄道で行けるので今回は一人旅 人 ( 士一一代目片岡仁左自 ) のをす語」年 ) の原節子、木下惠介監督になる。 げかえてやったことから、親しくなる。「二十四の瞳」 ( 年 ) と「遠い雲」 ( 「舟屋」のある漁師町 家族に邪魔にされている孤老かと思い年 ) の高峰秀子、成瀬巳喜皿督「おか きや、この老人は高名な陶芸家だった。あさん」 ( 年 ) の田中絹代、同「乱れ伊根には鉄道は通じていない。 このあたりのは、第片作「寅次郎タる」 ( 年 ) の高峰秀子・ : : ・いずれも未「寅次郎あじさいの恋」では、寅は間違 えて山陰本線の豊岡 ( 兵庫県 ) まで行っ 焼け小焼け」 ( 間年、太地喜和子主演 ) 亡人である。 で、居酒屋にいた老人 ( 宇野重吉 ) が無寅は、かがりという未亡人に心惹かれてしまったので、そこから丹後古をバ 銭飲食をとがめられたのを助けたら、ある。しかし、彼女は、好きだった陶芸家スでぐるっと回って伊根に行くことにな とで日本画の大家と知って驚いたのと同の弟子 ( 津嘉山正種 ) が他の女性と結婚るが、通常は、京都丹道の天橋立駅 じ。 することに傷つき、故郷に帰ってしまう。で降り、そこからバスで行く。天橋立駅 陶芸家の家で厄介になり、そこで仲居その故郷が丹後の伊根。海の上にせりまでは京都駅から山陰本線経由の特急が として働くかがりという女性、いしだあ出た舟屋が並ぶ漁師町として知られる。出ている。京都から約一一時間。 バスは日本三景のひとっ天橋立を右にす というか、この町が全国的に広く知られ ゆみと知り合う。 未亡人で、小さい娘を故郷に置いて京るようになったのは「男はつらいよ」の見ながら走る。ショッピングセンターや よ リゾートマンションのある町を抜けると 都に働きに出ているという。どこか儚げロケ地になったからではないか。 「男はつらいよ」で寅が旅している町は、風景は一気に田舎に変わる。一時間ほどっ で薄幸そう。寅はこういう女性に弱い。 男 第 3 作「フーテンの寅」 (E 年 ) の新これまでにすでに行っているところが多で伊根に着く。 珠三千代、第 8 作「寅次郎恋歌」 ( れ年 ) いのだが、伊根だけははじめて。それだ期待以上に素晴しいところだった。 の池内淳子、第作「寅次郎と殿様」けに、五月のなかば、伊根に向かった時若狭湾の内海に面した漁師町。古の いね

6. 新潮45 2016年7月号

江藤淳は 福沢諭吉と 「恋人」三浦慶子 慶応の文学部に入り、自動車部をすぐ止めた淳夫は、生涯の伴侶と交際をはじめる 小学校登否により一年、日比谷高がその頃の常識でいうと、日比谷を出は十人もいる。江藤の近研 ( 近代劇研究 校三年での蘰休学によりさらに一年遅て慶応の文科へ行くなどということは会 ) の仲間では、井口紀夫と南條晴彦が えがしらあつお れ、満一一十歳の江頭淳夫は昭和一一十八年とんでもない暴挙で、ほとんど日比谷のストレートで前年に文学部に人学し、英 ( 一九五一一 l) 四月に慶応の文学部に人学 prestige に対する冒漬ととられかねない文科二年生になっていた。「日比谷の した。希望通りの進学だったが、「なに、雰囲気があった。しかし私は数学がきら prestige に対する冒漬」というのは、数 慶応の文科。君も案外伸びなかったね」いでまた出来もしなかったから、数学の字で見る限りは大袈裟で、これは江藤の という日比谷の教員室での言葉を背に浴試験のない三田の文科なら受かるだろう自尊心と東大コンプレックスが言わせた 言葉であった。 と思っていたのである」 びていた。三十代にして高名な文芸評論 家「江藤浮」となってから、日比谷高校江藤が入学した時の「三田新聞」を見 「アメちゃんの時代だから」 の雑誌「星陵」に書いた回想は、後輩たると、新人生のクラス分けと出身高校が 出ている。「江一明奚 ( 日比谷高 ) 」は文日比谷の同級生で文学部一年@組だっ ちに向けて書かれている。 「その頃までに私は受強というもの学部一年組で、後に江藤夫人となるた酒井邦衛が珍しいものを保存していた。 にすっかり興味を失い、慶応の文科に行「三浦慶子 ( 慶女局 ) 」と同じクラスであ体育会自動車部の昭和一一十八年五月一日 くと広言しはじめていた。今は知らないる。文学部全八クラスに日比谷の出身者付けの名簿である。その中に「江頭淳 十二 0 びらやましゅうきち 平山周吉。雑文家 1952 年東京生まれ。慶応義塾大学文学 部国文科卒業。出版社で雑誌、書籍の編集 に従事した。「新潮」「週刊ポスト」で書 評掲載中。著書に「昭和天皇「よもの海」の 謎」「戦争画リターンズ」がある July 2016 242

7. 新潮45 2016年7月号

手帳に代表される母子保篇度の充実導人したりしている海外の国は、一一〇一 。日本はその地理や地形、気象、海 や医療制度の向上の結果、現在の妊産婦五年一月現在で韓国、タイ、インドネシ洋条件により、他の国と比べても災 死亡率は途上国の約一〇〇分の一、五歳ア、プータン、オランダ、フランス、米害が特に頻発する国として知られる。そ 児未満死亡率は一一〇分の一となり、世界ユタ州、ニジェール、チュニジア、コーれだけに、諸外国の災害・防災対策に貢 的にみても局となった。九〇年代トジボワールなど。国も含めて、か献できる機会も多くなるといえる。 には、日本の母子手帳を見習って制度となりの国で根付いているこどが分かる。 災害をいかに制御するか。その点で日 して取り入れようとする動きが、妊娠中ほかにも、ベトナムやラオス、。ハレス本が防災対策を充実させる契機になった や産後の女性、さらには乳幼児の死亡率チナ、モンゴルでも普及。フロジェクトをのは、一九五九 ( 昭和三四 ) 年に発生し、 が高い開発途上国を中心に加速した。 進めており、プルネイや中国でも導入に五千人もの犠牲者を出した伊台風だ 九四年には、の支援を受けて向けた準備や検討が進められている。 った。これを教訓に一一一年後の六一一年に施 インドネシアが母子手帳の試行版を導人域近では一一一年に、母子手帳を国内の行された災圭罸策基本法に基づき、中央 した。九七年に全国版を発行し、母子保自治体や開発途上国に普及させ、育児環防災会議の設置や防災基本計画の疋を 篇度の柱として定着。一一〇〇六年には、境を改善することを目的とする十健康進めて防災体制を作り上げた。河川改修 すべての州で母子手帳が使われるように手帳普及協会が発足。主に中国での手帳や洪水調整のためのダム建設をはじめと なった。これもカイゼンのコスタリカの普及に向けて、日中の母子保健の家する治水・治山対策を進めた結果、水害 例と同様に、現在ではインドネシア政府を交えた会を開くなどの活動を続けによる死者は約五十年後には一〇〇分の 自らが、他の開発途上国に対して母子手ている。また、母子手帳に関する知識を一以下にまで激減した。近年には阪神・ 帳の導入や定着のための研修フログラム深めるための「母子手帳国際会議」も、淡路大震災や東日本大震災を経験し、と などを実施している。 九八年の泉を皮切りに世界各地を舞台りわけ地震対策に力を入れてきたのは周 途上国の保健医療システムや人材に隔年で開かれている。 知の通りだ。 育成の支援に取り組む法人「 によると、高度成長期以降に 」 ( 本部・東京 ) の公式ホームペ 苦い経験を積み、克服もしてきた日本の 防災 ージによると、母子手帳を国・地域〈な 防災・災害復興対策に対する世界からの に普及させたり、国家プログラムとして地震、津波、豪雨、台風、火山噴火注目度は高い。開発途上国や新興国への 面ⅳ 2016 40

8. 新潮45 2016年7月号

「世界は粥で造られてはいない。君等は人からは星付きであるお店も、また星の重ねて申しますが、客商売の王道は一一一口う 怠けてぐずぐずするな。固いものは噛まないお店からも実に憫の籠ったお便りまでもなく、最良の品物とサービスによ ねばならない。喉がつまるか消化するか、を頂戴しました。 ってお客様の支持を得て毎日繁盛し、そ 二つに一つだ」ゲーテ かのガイドブックが日本へ上陸いたしの結果利益を得、その利益を商品に還元 まして早十年が過ぎ、発売当初の上を下してより一層のお客様のご愛顧を得るこ 去年 ( 2015 年 ) 本誌川月万に「祇への狂騷も少しは冷めて、ある音味冷静とにより、その土地においての確固たる 園『浜作』ミシュラン調査員撃退記」がにその存在莪を分析するための実証的信用をし、これを長年に亘り繰り返 掲載されてからは、今日に至るまで各方データが蓄積されました。それを基に、 し継続することによって名声を得て、謂 面から様々なご亠覚を頂戴いたしました。各人の「ミシュランの評価」に対するわゆる″名店・老舗〃になるということ 「よくぞ言ってくれた」「ミシュランにつ「評価」がぼんやりとしていたものからに尽きると思います。 いてはなにか釈然としない思いがあった輪郭を具えたはっきりしたものとなって こういう筋道は一一年や三年で決して構 ので溜飲が下がった」など、お陰様で九こられたのが現状ではないかと思います。築されるものではありません。少なくと 割がたは拙論にご賛同を得るところとな 私が思いますところの「ミシュランガも一一十年や三十年のたゆまぬと努力 りました。殊にご同業の食べ物屋のご主イド」の功罪は前回で詳しく述べました。が不可欠であることは一一一一口うまでもないこ ほんまに美味しおすか、森川裕之 ミシュランさん この世界一といわれる料理ガイドブックが日本上陸を果たしたとき、 その掲載店の多くを寿司屋や日本料理店とする「荒技」が繰り出された。 京都八坂鳥居畔三代目浜作本店主人 1962 年京都生まれ。生家・浜作は日 本最初の板前割烹。皇族をはじめ、谷 崎・川端などの文豪も足しげく通った。 著書に「和食の教科書ぎをん献立帖」。 July 2016 124

9. 新潮45 2016年7月号

二の本に出合うことになったのだ。 ニケーションがとれず人係が築けな社の人と ~ でやり取りしなければなら 「その中に、書いてあったんです。吃翌日いことへの悔しさやもどかしさに深く悩ない可能性を考えただけで逃げ出したく は治そうと思って、治るものではないかんだ。以来、様々に悩みながら、四年近なった。私は大学院に行くつもりだった ら、吃翌日を持ったまま、いかに生きるかくの月日を過ごしてきたのだった。 ので、四年になっても就職活動があった を考えよう、と。小一一からずっと、どう わけではない。しかし友人らを見て、数 模索し立ち止まる日々 すればどもらないか、数々の方法を試し 年後の自分を想像しながら足がすくんだ。 てきて、すべて失敗していたので、伊藤「いや、あ、あ、あの、じつは、きゅ、 その未来から逃げるように、私はフリー さんの考え方を、受け人れざるを得ない休学、したんです」 で働くことを真剣に考え始めたのだ。 と、感じました。それがぼくにとって、 八木が休学し始めた一五年の春、彼は 一方八木は、逃げることに必死だった 吃音を、受け人れる第一歩でした」 そのことを直接会って教えてくれた。そ自分とは違った。吃翌日と正面から向き合 その後八木は、吃音を隠さずに、どもの前年、三年次の秋、休学を決める直前 って、自ら道を切り開こうとした。 ってもやりたいことをやろうと思うようには、就職活動の重圧によって大学に通水泳やランニングで身体を動かし、カ になっていく。すると ~ 〕回二になって状況うこともできなくなっていたという。いウンセリングにも通った。ヒントを得ら は少しずつ好転した。友人の黒田も、八つもの平然とした表情だったが、前に進れそうな本も数多く読んだ。吃菩のある 木が授市に自ら手を挙げるようになつめない苦しみが痛いほど伝わってきた。人が主宰する劇団で演劇をやるようにも たのを覚えている。「雰囲気がすごく変苦笑いを見せて状況を話す彼の姿を見ななった。また、以前から興味を持ってい わったなって感じました」。受験勉強でがら、私は、自分も大学四年になるころた日中の学生の交流団体で活動を始め、 忙しく人付を入口いが減ったことも、吃音に同様に悩んだことを思い出した。 休学中の秋には台湾へ短期留学すること による悩みを軽減させた。 当時の私の吃音は八木に比べると症状も計画していた。どもって困る機会が多 しかし一年浪人して京都大学に人学すは軽く、周囲に気づかれずに過ごすことそうなことであっても、彼は果敢に挑戦 ると再び→ ~ は大きくなった。吃翌日をもができる程度ではあったものの、隠すたした。いずれも直接吃岦日を改善させるよ姓 ったままでも人とかかわりたいという気めに費やすエネルギーは大きく、悩みはうな活動ではなかったが、自らの感覚に吃 持ちが強くあったものの、実際には容易深かった。自分の名前が言えないため面従って八木は積極的に動き続けた。 ではなかったからだ。思うようにコミュ接を通過できる気などしなかったし、会大学一一年のころ、一鸚見士の羽佐田

10. 新潮45 2016年7月号

エンエ近 学工ジ 大イイ任る エサダ歴え 農経・を変 ス京日一どを いなせ日本人は毎年「之 リ東「ヤな界 。チ長世 一れ卒イ集が . ャま科ネ編学 生学「の科 学都理瑟実語 ノーベル賞を取れるのか 京物集事本 東用編の日 2 000 年以降、日本人は自然科学系のノーベル賞を毎年一人の割合で受賞。 年応副 0 引部」 界 その理由は日本語で科学や技術を勉強してこられたからたという 学スス著 世眦 において、圧倒的な力を発揮している。 している。アメリカに次ぐ数だ。 科学も技術も超一流 科学と密接な関係をもっ技術でも、日間違いなく超一流である。日本人は自分 この秋、一一三番目の元素の名前が正本の貢献は著しい。いや、科学よりも技たちの実力・実績を見くびってはいけな 式に決まる。理化学研の森田浩介博術の方が、先に超一流とな 0 た。例えばい。この事実を了解していただかないと、 か の る 士らの発見が国際機関に認められ、命名高輝度 ( 発光ダイオード ) がその話は前に進まない。 れ 取 権を与えられたからだ。 = ホニウムでい象徴である。この光る半導体は、三原色実は、日本の経済も世界の一一〇 % 近く くのか。いずれにせよ、これから何十年 ( 赤緑青 ) すべてが日本人の発明である。を握 0 ている。 ( 国内総生産 ) は べ 何百年と、周期表の一一三番元素は、日照明に使う白色も日本人の発明品五〇〇兆円で頭打ちになって久しいが、 ノ 年 本人が命名したものが世界中の教育現場だ。それ以外にも、ここ一一〇年、世界で日本企業が成長を止めたわけではない。 毎 は で子供達に記憶されていく。だとしたら、最も革新的と思われる工業製品の大半が、市場をどんどん海外に広げ、かっての指 実は日本から生み出されている。日本生標である ( 国民総生産 ) で見れば、本 ちょっと胸を張ってもよいと思う。 日本人のノ 1 ベル賞受賞も年中行事とまれでない技呶品を探し出す方がむずず 0 と増え続けている。トヨタ自動車を 見ればいい。その国内売上はいまや一一五 なった。紀元二〇〇〇年以降の受賞者はかしいのだ。 一六人で、まさに毎年一人の割合で受賞そのくらい、日本は科学と鎮術の分野 % 程度しかない。残り四分の三は海外で