うめ 函を手にとり、大海人は呻くような声を発した。 「戻る。世話をかけた」 身を整え立ち上がりながら、彼は軽く国押の前に頭を下げる。 「いえ。お聞き届け感謝いたしますー こうべ 大海人以上に深く頭を垂れ、国押は言った。 「成功を、お祈り申し上げます」 「ああ・・ : : ありがとう」 見送りはいらないと言い置き、外へと出かけて一度、大海人は足を止める。拝礼する国押を ふり返り、彼は尋ねた。 「国押。私が斑鳩潜入の話をせす、ただ見取り図を取りにきただけだったら、お前は上宮襲撃 の件を話したか ? 空顔を上げ、大海人に目を据え国押は答える 「相手が王子であれ真稚であれ、どこを最初に探られるかを聞き出し、それが斑鳩宮であれ こうしよう 虹ば、申し上げ交渉いたしました。それ以外の場合は、申し上げることはありません。必要がご 日ざいませんゆえ」 とら 「品治がそこに囚われている可能性を、知っていて」 「私が彼をどうするかは、すでにお話ししてあります」
194 「やめろっ、国押ー 腕を振り払い、大海人は国押を見据える。 「誰が、そんなことっ つか 右手を、刀の柄にかけた。が。 「大王がお知りになれば、どうなさったと思われます ? ご存じだから、王子は宮にはこの一 件を、連絡なさらなかったのではありませんか ? 今にも抜き放たれようとしている刀を平然と見つめ、国押は言った。 「王子。あの青年が、どのような形で囚われ、何を為されているにせよ、王子が怖れるべきな のは、あの青年が傷つけられていることでも殺されるかもしれないということでもありませ ん」 大海人の手が止まる。 むくろ 「彼が骸になることでは、ないのです。おわかりですか」 表情が、凍った。 「王子 , 前立てのところをきつく握り締め、息を吐く。 「 : : : わかっている、国押」 おおきみ
じんじよう 尋常な殺気じゃなかった。あのままやりあっていても死んでいただろうが、もしもその場し のぎに彼らの主張を受け入れていたら、きっと今度はそれを理由に殺されていただろう。 あなた 「本当に、ありがとうございました。もし貴方が気付いて下さらなかったら、俺は自分のこと を証明できなかった」 品治は国押に深く頭を下げた。 「取り返しのつかないことにならなくて、よかった」 国押はわずかに首を左右にふり、静かに一一一一口う。 「しかしお前、一一年も前のことをよく覚えていたな国押。古人大兄は、完全に失念していた ぞ。帰る間際になっても、思い出せないと言っておった」 入鹿はくつくっと笑い声を立てた。あの騒動の際に入鹿とともにきたもう一つの足音の主 さきのおおきみ ふるひとのおおえのみこ は、先王の長子、古人大兄王子だった。どうやら彼の見送りのために、入鹿と国押は門に出 やかた てきて外の騒ぎを知ったらしい。古人大兄はもう、館を後にしていた。 おおきみすえみこ 「わずかな間ではございましたが、大王の末王子の従者という者を宮で目にしたのは、あれが 初めてでしたので。何となく、覚えておりました。山背大兄どのの当てこすりに、唇をかみ締 めていたのが印象的で」 隣に座るよう促された国押は、軽く一礼した後に入鹿の隣に座した。 「山背大兄に当てこすりをな : ・ ・ : だったら、そやつの従者などに間違われては、さぞ不本意だ
220 国押は見取り図を片付ける彼の様子を眺めながら、尋ねる。 おとり ゅづき 「明晩、連れに行く。弓月も真稚も、三人では無理だ、大掛かりな囮を準備しないと入り込め ないと言っているが、何とか囮なしで考える。この見取り図をばっと見た限りしや、確かに苦 しいとは思、つ力」 うな あご 国押は顎に手を当てて、低く唸った。しっと空の一点を見つめて、考え込むふうに目を細め る。そして。 あきら 「王子、明晩の潜入はお諦めください , 厳しい顔で大海人に告げた。 「なぜ。一日先送りにすれば、それだけ助けるのが遅くなる」 大海人もまた、硬い表情になる。 「明晩、斑鳩宮を騒がせられては、困るのですー ほんじ 冗談じゃない。お前、品治がどれだけの間拘束されているかを、知って」 「どうあっても、聞き届けていただきます。さもなくば」 あらが 国押はざっと腰を起こし、一瞬のうちに大海人の両腕を捕らえて、床に倒した。抗おうとす ひざ る暇もない。両の一一の腕を武骨な腕に押しつけられ、両足の付け根近くを膝に押さえ込まれ て、大海人は身動きが取れなくなった。 「何をつ : : : 国押 : : : 」 こうそく
190 「距離があるというのは、致命傷だったかもしれない つぶや 唇を噛んで呟く 「尾張は、明日香の地からは、遠うございますゆえ」 国押はごく静かに告げた。 わすかに、間があく、その後に、 , 大海人は再び口を切った。 「お前は : : : 何か情報を持っているか ? 」 国押は首を左右に振る。 「残念ながら。蘇我大臣家の門衛は、そのような問い合わせがあったことを、報告して参りま せんでしたので。ただし、現実に知っていたとしても、手を回すことはできなかったでしよう かやかた が。今は、彼の館はそれどころではない状況に、ございますから」 「あの、館の警備の物々しさがそうか ? 中の殺気が、外にまで漏れていた」 ぎよい 「御意に」 答え、彼は唇を閉ざした。大海人はしばらくの間待ち、それ以上を国押が語る気がないのを 捉え、そ、フか、と言った。 「御用は、以上に ? 」 「ん・・ : : いや、もう一つ」 うかが 窺ってくる鋭いまなざしを、真正面に見て切り出す。
「不服そうだな、国押」 入鹿は部屋の入り口に立つ国押に、面白がるような目を向ける。 やかた 「なぜ若があの青年を館に泊めたのか、理解に苦しみます。その上、あのようなことを話され るなど とが 章口調は静かなまま、だが咎めるような響きが国押の声の中には含まれていた。 嬋「彼は手違いによって、必要のない傷を負わされた。彼にはその理由を知る権利がある。なか 空 ~ なか : : : 気に入ったしな」 想「あの者自身の性状はどうあれ、あの者は葛城王子につながる者。不用意に過ぎる、そう存じ ます」 明 品治が眠る同し敷地、その北の建物に入鹿の寝室はある。入鹿は寛衣に着替え、ゆったりと あしぎぬ わろ、フだ 四を組んだ円座に腰を下ろしていた。 疑問に答えをみないうちに、罪人を連れてゆく者たちの姿は建物の陰に消え、声も、やがて は届かなくなる。品治はそれでもしばらくの間、窓のところに立ち尽くしていた。 眠気は、どこかへいっていた。 かんい
こども 「十八歳の青い孺子が、なんだと ? いしかわまろ 「石川麻呂と結びました。子まで生して」 「石川麻呂に、どれほどの力がある。そう言うなら、我が方には古人大兄がいるー 「そうではありません。私が申し上げたいのは : あすか おおあま おわり 「国押。あれは大海人の従者だ。尾張に十六年間もこもったまま、一度として明日香に足を踏 み込んだことのない、名と、こもる理由だけがこの地にある王子のな。興味深いと思わない カ ? ・ いか 入鹿はやんわりと笑い、国押の厳つい顔を見上げる。 彼を通じて : ・ 「めったにない機会だ、逃す手はない。 , ざわざわとした声が庭から聞こえてきて、彼はロを閉ざした。 「どうやら、また招かざる客人が訪れたようだな」 ゆっくりと、立ち上がる。 「さすがにこの時刻に、たまたま通り掛かって興味をひかれて、つい見入ってしまいましたと は誰も言わんだろう」 まゆ 国押は眉をつり上げただけで、返事をしなかった。入鹿は鼻先で息をつき、土を蹴ってきた 者が立ち止まったところで、声をかける。 「何者だった ? ふるひとのおおえ
「お前、明日香近辺の要人の館や斑鳩宮の見取り図が、わかるか ? 「 : : ・・〃要人〃の範囲によりけりですが、あらかたは。ただ、葛城王子の館はまだ充分ではご ざいません」 うかが 「兄上のところはいい。行くときま、 1 、 ー卩カら伺う」 大海人の軽い口調に、国押はびくりと目を細めた。 「だったら、悪いが見取り図を作ってほしい。名前を教えるから、わかるものだけ ことづ 「 : : : では八軒ですね。それでしたら、明晩には全て準備できましよう。こればかりは言付け るわけには参りませんので、真稚を高向の館にお寄越し下さい。私から手渡しますー 「ありがとう。頼む」 「必ず、明晩に。それ以降はしばらく、私は館へは戻りませぬゆえ」 「わかった」 空長く息をついて顔を上げ、大海人は求める館の名を告げてゆく 「以上だ。忙しいところを呼び出して、済まなかった」 まゆ 虹頭を下げる彼を、国押は眉をひそめて見下ろした。 日「しゃあ、これで。明日、必ず真稚を行かせる、 「王子」 立ち上がりかけた大海人の右手首を、国押はぐっと掴む。 つか
こうぞ 弓月は元は白かったであろう、灰色の楮の上衣を眺め下ろした。 「で。どうだった ? 葛城さまは」 「そうですね。進展がないという意味では、よい結果ではないのかも知れませんが」 うれ 夕暮れの、全てが紅く染まってゆこうとする中で、弓月は少しだけ嬉しそうに笑う。 「あいつがまた、吐いてしまうようなことを考える必要は、ないみたいです。葛城王子の一兀に ほんじ は、品治はいません。中に入って調べてきたので、間違いないですよ とうみよう ゆらゆらと、灯明のあかりが揺れる。窓のない空間に他に光はなく、手を伸ばせば届く位置 つか 章にいる者の表情さえ、はっきりとは掴めない。 たかむくのおみくにおし 空そんな場所で、大海人は高向臣国押と相対していた。冬には使われることのない、小屋であ る。中にいるのは二人だけで、外には国押の従者と真稚が立っていた。 こうそく 虹「では、蘇我が品治を拘束していることはないと、お前は言うんだな。対面して世間話をし て、酒を飲んで辞去したと」 みやげ 「あとはその際に、土産を受け取りやたら門のところで恐縮した、が加わります」 りようひざ 大海人の前に両膝をつき、国押はゆるりと頭を下げる。
もろは まゆ 諸刃の言葉に、国押は眉一つ動かさず答えた。 「王子は高向王の御子、高向の血の忠誠をお受けになるべき、ただ一人の存在にございます。 王子の御命は、身に代えてもお守りいたします。たとえ : : : 王子ご自身が死を望まれても」 あえ 大海人は喘ぐように、息を吸う。 「それが王子を選ぶ決断を下したときの、私の覚悟に存じます。我が君、 「やめろ : : : その呼び方は、するな」 「御意」 こんがん 細い懇願に、国押は柔らかに応えた。 ついたち おおきみ かるのおおきみ 「王子。朔には、大王の弟御であられる軽王も、動かれます。古人大兄王子には、この一件 の承認を : : : 大王にも、同しく了解をいただいております」 「母上 : : : が」 語られた言葉に、大海人は目を見開く 空 「まさか・ : : ・」 虹「大王にとって山背大兄王は、それがなくとも滅ばすべき存在にございますゆえ」 おもて 苦しげにその白い面が歪み、その顔を見せまいとして彼は横を向いた。 明 「上宮の襲撃は、蘇我大臣家のみならず、大王の : いえ、王族の意思です . 国押は目を細め、大海人に言い聞かせるみたいにゆっくりと言い切った。 ぎよい ふるひとのおおえのみこ