仕方のないと言いたげに、大海人はため息をついた。 「それに。心配の種は病だけしゃないってのも、わかってるだろ」 髪をくしやっとかき上げて、少し困ったみたいな微苦笑を浮かべた。 あやのみこ うわさ 漢王子の水死と結びつけられた大海人の誕生には、一つの噂がっきまとっている。健康を損 かくり じゅばく い隔離された生活を強いられた子供は、『呪い』の呪縛をもその身に受けることとなった。 おおきみすえみこ やまいみ ーーーー大王の末王子は、葛城川で水死した漢に呪われて生まれた。だから病に魅入られ、遠 ひな い鄙の地に追いやられている むらざと ツ」とだま 大海家では忘れられているその言葉は、近隣の邑里では遠い言霊として存在し、明日香の地 では生々しく息づいている。 じか たび 品治は直にそれを経験していた。思い出す度に、苦さと腹立たしさが込み上げる。それでつ 返事に詰まった。 「で、実はもフ一つあってな」 それを見越していたかのように、大海人は卓上を目で一小す。 「兄上が母上に何かおっしやったのか、母上から私へ、山田へは来ないようにとの手紙をいた し そこな
「行けるわけない」 ひもしば 大海人は手紙を函に戻し、蓋を閉じて紐を縛る。 「私が明日香に行くと、母上が卒倒なさる。こっちも見るか ? 兄上からどのような申し出が あっても受けてはならないと、書かれている」 卓上の、もフ一つの函を、彼は手を伸ばして示した。その拍子に、彼の半分開いた襟の合わ きずあと あら せ目がはだける。左の肩に残る傷痕が、顕わになった。 刀傷であった。深く突き刺された痕は薄くくばみ、白い引きつれになっている。一一年前に、 さきのおおきみしかく 大海人が実子ではないと知った先王の刺客によって、与えられたものだ。 たむらのおおきみほうぎよ 刺客の始末を決める前に、田村大王崩御の報が明日香よりもたらされ、すべてはなかったこ ととされたのだった。 おもわく 「大王には大王の、心配と思惑があるんだろうさ」 すく めもと 弓月は軽く肩を竦め、大海人の目許に触れる。 「で ? お前もそれを、心配しているのか ? 大王と同じに」 ・確認するような口調で、彼は尋ねた。 「母上の心配はもっともだと思っているよ」 「それは、返事になってないよ。大海人」 あぎけ 大海人の静かな声に、弓月は少し、嘲るように唇をゆがめる。 おおきみ ふた えり
178 れ。 「わかりました。そう致しますー 輿を持つ一一人と青毛の青年に合図を送り、彼は自らも鹿毛にまたがった。 「お騒がせして、本当に申し訳ありませんでした」 馬上で頭を一つ下げ、手綱を振るう。言われたとおりに歩調を速めて、一行は豊浦を後にし 「相当びりびりしているな」 蘇我本家の塀が目に入らない場所まで来たところで、弓月は息をついて隣に話しかける。 「母上の一 = ロう通りにしておいて、よかったんじゃないか ? おかげで必要以上に疑われずにす んだ。『冬の気は熱のある体にはきつい』だってさ、心配されてたぞお前」 「関係ない」 あら 不機嫌を顕わに、大海人は言い捨てた。 「下らないこと、言ってんじゃない」 目を開き背筋を伸ばして、今は輿に座っている。弓月は苦笑し、ふっと真顔になって東をふ り返った。 「品治と、何か関わりがあるんだろうか。あの物々しさは」 くにおししゃべ 「国押が喋るだろう」 こし たづな
170 矢代の硬い手が、びくんと震えて大海人の肩を離れた。 「王子 : : : 」 「弓月を借りる。向こうへ行ったとしても、私がそうそうあちこちに出回るわけにはいかない だろうし、母上の手前、あまり忍海の連中をおおっぴらに動かすわけにもいかない。弓月な ら、明日香では顔を知られていないから、比較的自由に動ける。本人さえ間抜けなことをしな ければ、どこの誰で何を目的にしているのかも、知られずにすむだろう」 「大王に連絡をしないというのは、これでだったのですか」 明ら分にしかめつ面で、矢代は尋ねる。苦々しげな声に、大海人は髪を軽くかき上げてすま ん、と謝った。 うわさ 「母上に連絡をすれば、また母上は噂が呪いがと、さまざまに思い悩まれる。それにどうして も大事になるから、母上の政治に批判的な連中が、あれこれ騒ぎ立てたりもするだろう。私が 動けばいいだけのことを、なにもわざわざ良くない話を持ち込んで、よけいな心配をかけるこ とはない。そう思わないか ? 「それは、確かにそうやも知れませぬ。しかし」 うな むう : ・ : と、渋い顔のまま矢代は唸る。 「大王に内密に、明日香に入られるというのは : : : 」 「話せば、止められる。私は母上に反発はしたくないし、このままここで座って待っていると おおきみ おおごと つら
も、この薬のものだった。 「それ : : : 好きしゃない 「一番効くんだろ ? 必す残さずに飲むよう、母上から言いっかっている」 「信じられないくらい、苦くて不味いんだよ。ロの中から胃の腑にまで延々と味が残って、吐 きそ、フになる」 こうしよう 「薬の味になにわがまま言ってる。だいたいそういう交渉は俺しゃなくて、直接母上にしろ。 配合しているのは母上だ。何だったら、今呼んでやろうか」 第、ちもと おお ロ許を手のひらで覆う大海人に、弓月は意地悪げな笑みを見せた。大海人はうっと頬を引き つらせ、 と小さく答える 「まあ、五日間も夜なべの看病をさせてくれたような人間の一一一一口うことを、聞いてくれるとは息 子の俺でも思わんが」 空今度は声を立てて笑い、弓月は粥の器をとった。手のひらで熱さを確認し、器を大海人に差 し出す。 想けさ 「今朝より少し、硬く煮てあるそうだ。無理せず少しずつ食べろー うなず すえき 香 大海人はむつつりと頷いて、須恵器を両手に受け取った。 明 軟弱者のくせに変なところでつつばって虚勢を張るから、こんなことになるんだ ぞ、お前は」 かゆ ほお
も書いてあるだろう ? 出てこいって」 脇の卓の上におかれた函の一方に、手を伸ばし。 「弓月、おい」 止めようとする手を無視して、弓月は今日届いたばかりの手紙に目を通した。 ながっき おちのいらつめ おおばうえ 九月十日、遠智娘が女子を出産した。母子ともにすこぶる元気で、祖母上が亡くなら れて以来すっとふさぎ込んでおられた母上も久々に笑顔を見せて下さったので、良かったと思 う。私には赤くてしわくちやで猿の子供のようにしか見えないが、遠智の家族に言わせれば遠 智に似た美人で、母上は母上で祖母上に似た美人だと一一一一口う。いすれにせよ美人になるのなら、 良いのだろう。 おしさかのみささぎほうむたてまっ 章先月父上を押坂陵に葬り奉った際も祖母上の葬儀の際も、お前はこちらに来ることはか 蝉なわなかったようだが、今はどうだ。もし体調が安定しているのなら、一度赤子を見に来い 空やまと ~ 倭のあるべき姿について、いろいろと話したいこともある 想 幻 香ほらみろ。 明 そう目で言って、弓月は手紙を閉じ大海人に手渡した。 「行って、本人に訊いてくりゃあい どうして蘇我の血を引く娘を妻問いしたんですかと」
270 「来年、明日香に居を構えると言ったんだ」 「明日香に ? 王子が ? 」 うなず うんと、大海人は一つ頷く 「一月中の予定で、もう母上にも兄上にも書簡を出した。兄上からは、山背大兄王のことがあ ってすぐに、ものすごい書簡が届いて、これで私が動かないようなら、尾張まで来て引きすり ちょうど だしてやるとまで書かれていたから、丁度よかったと一言うか。母上からは許さないというきっ い命令が来ているんで、それを今年中にどうにかしないといけないんだけどな。多分、何とか なると思うんだ」 よど すらすらと、説明をした。あまりにも澱みなくて、まるで、書いたものを読んでいるみたい だと品治は思う。 「あの : : : 王子。どうしてまた、急に」 「反対か ? 「いえつ、そんなことはないですっ あせ 問われて、焦って否定した。 「俺はすっと、王子は明日香に行かれるのが一番自然だって、思ってましたから」 「そうだよな。お前は住まなくても、 しいから行くだけ行こうとか、私に言っていた」 覗き込まれ、うっと返事に詰まる。 のぞ きょ みこ
かなかっただろ ? 倉山田家から兄上へ連絡がいって、そこから母上にも伝わったらしくて。 お前に来いって。祝いの返礼をしたいそうだ」 「ち : : : ちょっと待って下さい。それだったら俺しゃなくて、元々、王子が受けるべきものし や、ありませんか」 態勢を整え追いついて、品治はしれっと笑っている大海人をねめつけた。 「母上は、お前を指名してこられた。で、兄上は、明日香まで来てどうしてこちらに寄らなか あきら ったと、お前を怒っておられる。だから : ・・ : 諦めろー 急に背中が重くなったような気がする。行って帰ってきた疲れが、いきなりでたみたいだっ おおきみはいえっ た。ただ行くだけならまだしも、怒っている葛城に会うことになるとか大王に拝謁しなくては 章ならないというのは。 嬋はっきり言って頭が痛い。 空 「 : ・・ : とんば返りですか ? 俺」 まわか 想「一呼吸おいてからでいいさ。真稚と帰りを合わせるといし はいりよ 「ご配慮、痛み入ります」 あしげ 明 葦毛の背中でがつくりと落ち込んでいる品治を横目で見やり、悪いな、と大海人は苦笑し
系を実現しなくてはならない にな 違うのは、葛城はその担い手は大王と大王家としているが、入鹿は時代が担い手を選ぶのだ と言っているところくらいだ。 不思議な感しがした。対立していながら、目指す方向は同しなのだ。葛城も、入鹿も。 こ、つくり だいじん せいきょ 「知っているか ? 海の向こうの高句麗では、王弟の逝去をきっかけに、大臣の一人が王と王 ざんさっ の一族百余名を惨殺し、王弟の息子を王位につけた」 葛城は苦い笑みの形を、品治に見せた 「母上は何を考えて、入鹿を傍に置いておられるんだ。奴の一一一一口うがままに、政のすべてを任 : いっか奴が大王家にとってかわる。倭は、高句麗の二の舞いにな せて。このままだと奴は : 章ってしまう」 空ぎり、と葛城は唇を噛む。そのまま黙り込んで、地面をにらみ付けながら歩いた。話しかけ ることはできずに、品冶は彼の後についた。 きざはし 虹大殿の北の端、正面に階を見る場所まできて、葛城は足を止め、ふり向く。 香 「ここからは、お前一人でということだ。母上は、お前と一一人きりで話をなさりたいらしい」 ぶぜん 明 憮然とした顔で品治に告げた。 「あ : : : はい まつりごと
116 おおきみ 「大王に止められていると、いつもおっしゃいます , つぶや 母上か、と葛城はごく小さく呟いて、そのまま唇を噛む。が、すぐに吐き捨てるように言っ 「ばかばかしい。今がそんなことに振り回されていて良い時期だと、思っているのかっ ! 何 をのほほんと、下らないことでぐすぐすしている」 むち 鞭がふり下ろされるみたいに鋭い口調だ。 小さな声だが、 やまと 「倭は、変わらなくてはならない時期に来ている。一つの強い独立した国家であるためには、 おのおの 幾つもの国に分かれ各々に土地の豪族がいて、ばらばらに生きているという今の倭の形を捨 と、フなら りつ。りよう て、唐に倣い、律と令一一つの法律に基づく、大王を支配の頂点とした大いなる国の形を整えな くてはならないんだ。為すべきことは山のようにある。反発するであろう豪族勢力を押さえる ために、大王家は結束し、政治を担わなくてはならないと一一一一口うのにつ。重病で動けないならと きがい えんりよ もかく、他人に遠慮してだと卩母上がどう言おうが来るくらいの気概を見せろっ ! 」 あぜん 唖然として、品治は葛城を見直す。 どこかで聞いたことのある話だとったときには、もう思い起こしていた。 そがのおおおみいるか せ - をたっとゆら 先達て豊浦で、蘇我大臣入鹿がほとんど同じことを品治に語っていた。 倭も唐に倣って早急に近代化を図り、中央により権力を集中した、法律による政治体 なら にな