「そんなもの、何でもない。瞳の色なんて、人によって色も濃さも全然違うものだし、だいた いそんなことは、誰も気に留めたりしません」 品治は身を浮かせ、声は抑えながら強く訴えた。 やましろのおおえのおおきみ 「山背大兄王の目の色は、厩戸王子の御子にもかかわらず見事に黒かったです。俺はその たかむくのあやひとげんり ことに、今日まで気付きもしなかった。尾張に来られた高向漢人玄理どのも、王子の瞳の色が 薄いと思われたようだけど、それ以上は何も感じてはおられなかった。あの方は、厩戸王子が 存命のときから、宮に仕えておられたはすです」 「その者にとってどうでも ) しいことならば、気にはなりません。厩戸王子も高向さまも、漢 も。自身の利害に関わらない者にとっては、誰が何者でも構わない。けれど、そうではない者 もいるのです、先王のように」 章品治に傍に来るよう招き、彼女は卓の横におかれた椅子に腰を下ろす。品治は大王のすぐそ ひざ 空ばに膝をつき、彼女はごく小さな声で話し始めた。 すかてひめのみこ 「品治。酢香手姫王女がご自身の罪の告白を : : : 厩戸王子とのあいだに高向さまを産んだと告 虹白なさったとき、その場には先王と先々代、それに山背大兄と蝦夷とがいたと聞いています。 ひとっき 酢香手姫王女はその次の朝に急死、高向さまはそれより一月ほど後に、野盗に襲われて亡くな られました。神器を伊勢の社に運途中で、野盗に襲われて : : : 高向さまだけが殺されたので す。一緒に護衛についていた、先王も山背大兄もかすり傷ですんだというのに。誰が、なぜ。 えみし あや
柔らかな微笑を浮かべる男の顔に、品治は目を見開いた。 まさかと、思う。そしてまたなぜ、と。 「あなたが : : : 俺を ? がくぜん 愕然として見つめる自分の顔が、男の目の中にあった。 「そう、私が君をここに招待した。意外だったかな ? ほお 男の手が、品治の頬に触れる。この夜気よりも、冷たかった。 「改めて歓迎するよ、大海人の従者。君には本当に、いろいろと聞かせてもらいたいと思って おわり いる。君のこととか、尾張にいる君の主人のこととかを」 男の唇が、柔らかにつり上がる。 かんなづき くだらのみやさきのおおきみえつけん 「そう、例えば君は、一一年前の十月八日に、百済宮で先王に謁見したね」 章 品治はいきなり、氷水を頭からかけられたような気がした。 の 違うだろうか ? 私の懇意にしている者が、教えてくれたんだが」 空「どうだい ? ぞくりと、背中に寒気が走る 幻 この人は : : : 知っているのか ? それで俺を、ここに連れてきたのか 日「あ : : : は ) 。 日は、覚えてませんが。十月に一度、俺は百済宮に呼ばれました」 落ち着けと、 , 自身に一一一一口った。 まだ何も始まっていない。落ち着いて、よく聞いて、よく考えろ。 こんい
146 「では、その時のことを、できるだけ細かく思い出してくれ。明日、改めて聞きたい、 「わかりました」 とり . 帳のところで深く頭を下げ、八束は矢代の後について部屋を出ていった。大海人はほっと息 をつくと、立ち上がろうと身を起こした。 カ 「大海人っ , 我にかえったときには、弓月が彼の二の腕を擱み身体に腕を回して支えていた。 「 : : : 悪い「・ : : ちょっとふらついた」 「大丈夫か ? お前」 「大丈夫 ? なんで ? 「真っ青だ」 「そうなのか ? 私は特に、何も感してないけど。夜になって、少し熱が出てきたかな」 髪をかき上げ、大海人は弓月を見上げる。 笑顔が。硬かった。 「大丈夫だよ、私は。今日はもう、寝る。お前も休め」 弓月の腕を離れて、外へと向かう。 「蘇我大臣だと思うか ? 」
130 「それで真稚どのは、王子のことをご存じだったんだ」 むしろ すえき うつわ 円に編んだ筵に座り込み、須恵器の器を両手に包み込んで、品治は中の酒をゆらゆらと回し あぐら た。向かい側には胡座をかいた真稚が、同しように酒を満たした器を片手に掴んでいる。白く でが 濁った酒は、真稚の妻綾女が品治に返礼として贈ったもので、真稚は出掛けに彼女から、三 人で飲む』よう言いっかったらしかった。 それで、真稚は品治を自室に誘い、品治は受けてここに来ている。 月明かりが格子の窓から、白銀の光を降り注いでいた。 「俺みたいに、偶然に知ったわけしゃなかったんだ」 ちちうえ 「義父上が、王子を葛城川の流れから助けたそうだ。生まれる赤子の壬生となるはすであった すえみこ おしつみおおあまけ おおきみ この忍海大海家で、大王と義父上と大海家とで、王子を末王子の身代わりとし、尾張へと隠す ことを決めたと、私は聞いている」 ばつり、ばつりと真稚は話す。語られる言葉には何の感情も見えないが、それだけに内容の 重さは、ずしりとのし掛かった。 「国押どのは : : : その : : : 王子を襲った者を : ・ にご こ、つし つか
貶く、唇を噛む。 「それで、山背大兄どのにも前もって話は通してあったのではないかと思われたのですよ。山 えにし はは′」 背大兄どのの母御は私の母と同しく蝦夷どのの妹、蘇我大臣家と血の縁をもっておいでですか ら。何か行き違いがあって春米どのの耳にまでは届かなかっただけで、山背大兄どのは承知の ことなのかもしれないと」 返事を促すように、古人大兄は宝姫大王を見やった。 わらわ 「そう。そうなのですよ春米。今回の一件は行き違いの可能性が高いと、妾は思うのです。だ からそなたにはまず落ち着いてもらい、それから詳しく話を聞きたいと思ったのですー あしぎぬ 古人大兄の助け船に、宝姫大王は浮かせていた身を再び絶の座に沈めた。目に見えてほっと して、余裕を取り戻している。 かきのたみ 「妾には蝦夷であれ入鹿であれ、上宮家の部曲を許可も求めすにカずくで私用に駆り出すよう なことまでするとは、とても信じられない。何があって、どのようなことになったのかを、正 しく教えてほしい。早々に、蝦夷と山背大兄を呼んで事情を確認しましよう。その上で、そな たの申し立て通りであれば、無論厳しく蘇我大臣家を罰します。幸い、もうしばらくすれば蝦 夷がこちらに参ることになっています。まずはあの者にこたびの件を尋ねましよう。そなたも 同席すると良い 9 そして山背大兄にこのことを話して、あれにも早急に : 「 : : : もう、結構でございます。私の訴えは、なかったことにしてください
278 まひと かばね ます、『現は夢ー』の主役である多臣真人の〃真人〃は〃姓〃なのではないかという質問で やくさかばね てんむ すが。確かにこれは、天武十三 ( 六八四 ) 年に制定された〃八色の姓〃の最高位の姓の名前で す。が、 , 少なくともそれ以前には人名として使われていまして、日本書紀に載っているもの にいな きのあそんまひと あわたのあそんまひと に、〃紀朝臣真人〃〃粟田朝臣真人〃などが存在します。物語の時代設定は天武十一年 ( 新字作 成が三月、天変地異発生は八月 ) なので、当時はまだ、真人は人名として問題なく使われてい たいほう たと思われます。因みに粟田朝臣真人はオレの真人のモデルでして、大宝年間に遣唐執節使と リートさん。中国の史 して唐 ~ 渡り、かの有名な宝律令の撰定にも携わ 0 た、なかなかのエ 書に「美形で好学の人で文章も巧み」な方とゆーよーなことが「記されていたりするらしいで つき 次に。オレがここんところ〃あとがき〃の最後に使っている、月の呼び方ですが。あれ、全 きさら一 ゆきまち はづき 部日本の月の呼び方です。〃葉月みは有名ですね。八月です。同様に〃如月〃は二月、〃雪待 づき さみだれづき はなのこりづき 月〃は十一月、〃五月雨月〃は六月、ついでに〃花残月みは四月です。 ( 全部旧暦 ) それから、この時代の人物名のかな表記 ( ルビっすね ) が、資料文献によってまちまちで混 乱するという件ですが。それはその文献の執筆者それぞれが、各々の解釈で発音しているため だと思います。当時の日本語と現代の日本語は、発音その他色々と異なっているので、どう読 を〃バイオ むかというのも様々なのです。わかりやすそーなところで例えれば、 げんり ) ン〃と書くか、〃ヴァイオリン〃と書くかの違いと言いますか。ただ、玄理を″くろまろ〃 ちな オオノオミマヒト けんとう
142 「王子 ! 弓月さま。おいでですか」 とり ひざ 外から、悲鳴めいた声が届く。答える前にばたばたと階をかけ上がり、帳の向こうで床に膝 をつく音が響いた。 大海人と弓月は、思わす顔を見合わせる。 「どうした」 おしうみおおあまけ 「今し方、忍海の大海家より急使が参りまして・ : 息せききっているために、声は中途で一度途切れた。 かんなづき 「明日香を訪問中の品治が、十月十六日に忍海を出たまま戻らないとのことに存じます」 きざはし
264 〃野盗に襲われた際に一時的に記憶が混乱したらしく、何があったかは覚えていない。気がっ むら いたら斑鳩付近の邑に行き倒れ助けられていて、介護されているあいだに記憶が戻った。けが と服の状況から見て、泥棒か何かと思われたらしい しもっきついたち にしてあると告げられ、すまんなと謝られて。後になって、十一月朔にだれが何をしたのか を教えてくれた。 おおきみ 「大王に内緒で来てたんで、お前が助かると分かった時点で尾張に戻ったけどな」 あはち 忍海では万一にも聞かれるわけにはいかなくて話せなかったけれどと言い置き、弓月は安八 磨への道すがらに、品治に話してくれたのだった。 それで、思い出したことがあった。一一つ。弓月から話を聞く前は、変な夢だですませてしま っていたのだけれど。大海人が忍海に来ていたのなら、あれは現実だったのかもしれない。 も、つろう 一つは、朦朧とした意識の中に大海人にごめんと謝られた記憶があること。額に触れた手 が、冷たさではなく熱さを感じさせていた。 そしてもう一つ。どうしても、確かめたいことだ。もし記憶が正しければ自分は : 「若つ、若ー あわ やけに硫てふためいたしわがれ声を聞き止めて、品治は我にかえった。 「お急ぎ下さいつ、若 ! ろうぼく やかた 老僕の声だ。館で一番ロうるさい、孺子の頃から品治にやれ落ち着きがないとか男はじたば ま がき
118 うわさ 「お前、大海人を一人前にしたいなら、母上に呪いの噂など気にするなと、大海人をここに呼 やまい ぶよう説得してこい。病がないのだから『呪い』もない、噂のようないずれ勝手に消えるもの を不安がる必要はないとな」 きびす 厳しい、噛みつくみたいな声でそう言い、彼は踵を返す。少なからす驚いて、品治は彼の背 中を見た。 「話が終わったら、西の端にある建物に来い。お前にもう少し聞きたいことがある。大海人へ の伝言も」 「はい」 うなず 両手を合わせて拝礼する品治に軽く頷きかけ、彼は左手、自身が指で示した方向へ歩き去 きざはし る。品治の目の前には、宝姫大王の待っ場所へと続く階があった。 おおのおみほんじ 「多臣品治 : ・・ : よく ひざ たからひめのおおきみ 跪拝し、望まれるままに顔を上げた品治のすぐ傍まできて、宝姫大王は床に膝をつき彼の両 手を包んだ。 「あの時はよくぞ、吾子を救ってくれました。ずっと、きちんと礼を言いたいと思っていまし
「ああ。会った印象のままに、君は正直だね。顔や態度に、すべてが表れる。どんなに言葉が 嘘をついても」 のど くつくつくっと、喉の奧で男は笑った。 「大丈夫、決して悪いようにはしない。君は重荷をおろして、楽になれば良いだけだ。後は私 に任せて。大海人のことも、私は別に責めようとは思わない。彼には何の責任もないことだか らね。むしろ同情しているんだよ、呪いを背負わされた傷みはよくわかる」 品治はゆっくりと息を吐き、体の力を抜くよう意識した。 逃げられない、自分は。逃げようとすることはできない。逃げ出せばそれは、認めたことに なる。それを知っていて、この人は衛士を下げた。 目を伏せて、男の顔を視界から消す。 章 の 空王子 : ・ 虹唇だけが、名を、形作った。 日「さあ、どうぞ。茶も : ・・ : 酒も準備してある。ゆっくりと話を聞かせてくれー 明 声に従い、品治は顔を上げた。少し見上げる位置にある男の顔には、優越感に満ちた笑みが 張り付いている。