ロトス王国の南端に位置する、沃野を抱くフランディアは、美しい五月を迎えていた。 あが すべ その日は聖セルビアンカの祭日であった。工 1 ヴァ神を崇めるロトスの全ての州、村という 村、町という町は、どんなに小さくとも、それぞれに守護聖人を持っていた。フ一フンディアの それは、聖セルビアンカであった。 おそじも かぐわしい風が訪れ、冷たい遅霜がフランディアを去ろうとしていた。 フ一フンディアの町には人々があふれ、髪に花を挿した農家の娘が踊り、道化師がナイフを手 かげん 玉にして、喝采を集めていた。ほろ酔い加減の大工の親方は日頃飲みつけない新酒をなめ、調 子外れの歌を歌っている。それを聞いてまた若い娘たちが笑う。 はし 細い月が空の端に昇りはじめても誰も帰ろうとしない。それは、聖者の祭りだけのにぎわい ではなかった。 「金貨だ ! 金貨の雨だぞ ! 」 湿った土に金属の落ちる音がして、馬の蹄の音がそれに続いた。 第一章銀狼の剣 かっさい ぎんろうつるぎ よくや ひづめ
やることしかできなかった。 ( フランディアではそんなことは学ばなかった ! いったいどうすればいいのかしら ? ) ちょうちゃく つぶや その時、部屋の隅で異国の言葉を呟く女がおり、管理人は血相を変えて彼女を打擲した。 「何をしたのです ? 」 エレミアンが尋ねると、管理人は言った。 「この女は異国から流れてここで保護されているのですが、わが神の祈りを唱えようとしませ 「セムルの言葉のようです、聞いてみます」 とエレミアンが言って、彼女に近づいた。 エレミアンはフランディアで学んだことで、一フングヴェルドにおいて役に立っことなど何一 つないような気がしていた。だが、ロトス王国の近隣の国々で使われているいくつかの言語を 操れることが、なす術を知らず立ち尽くしている彼女の一歩を踏み出させた。 彼女はみすぼらしい異国の女と小声で会話した。ェシ = アンや従者、管理人、そして他の救 聖貧院の人々が二人を見つめていた。 薇「セムルの言葉で、私のために祈ってくれていたのです」 エレミアンは管理人に言った。 「異教でも何でもありません。彼女を打たないでください」 ん」
102 六月。 しようろう ラングヴェルドは大聖堂も、城壁も城館も、鐘楼も小径も、全ての建物が煉瓦色に統一され た、重厚な都市だった。 まわ 都市の周りの牧草地や湿地の緑と対比されて、美しい街だ。洗練された建築物、整備された 路、高くそびえ立っ塔。 たくわ おびや これは要塞だ、とエレミアンは思った。所領を広げ、力を蓄え、近隣の領主を脅かしている ひょく ひな だけのことはある、そんな都市だ。肥沃な土地を持ち、鄙びた風景を含んだフランディアとは 雰囲気からして違っていた。 街の中心に位置する大聖堂の煉瓦色の鐘楼から、祝福の鐘の音が鳴り響いた。その半透明 な、柔らかな音は煉瓦色の街全体にゆっくりと波紋のように広がっていった。 フランディアはそれほど遠くない。言葉も同じだ。それなのに、エレミアンは不安だった。 ざんぎやく 残虐領主、冷酷伯、死の将軍。 第四章哀しみのビオール ようさい すべ れんが
はく 「フランディア伯のおなりだ」 きようばんざい 「フェレニス卿、万歳 ! 」 人の群れが半分に分かれて、その間を馬車がゆるやかに通り過ぎた。そこからばらまかれる 金貨や花を、貧しい人々が狂喜して、うずくまって拾った。 あざ つづ あしげ 葦毛の馬が土くれを飛び散らして進んだ。綴れ織りの装飾馬衣と、絹の胸帯が鮮やかだ。二 たづな 本の手綱のうちの一本に埋め込まれた銀細工の鋲がきらきらと光り、銀色の鈴が華やかな音を たてていた。 警備兵を乗せた何頭かの鮮やかな馬の後、フランディア伯フェレニス卿を乗せた天蓋つきの 四輪の馬車、それに続く、伯の息子シメンとその新妻の馬車、そしてまた警護の馬と、長い行 列が続いて跳ね橋を渡った。 城下の人々がそれに続く。 ゅうれきがくじん うたげ 一行がすっかり城館の広間におさまった後、宴のおこぼれに与かろうと、遊歴楽人や派手な 緋色と白の衣装の道化師たちが中庭で騒いでいた。 の 「サヤ、私もあの道化師を近くで見たいわ」 彼女はまだ結い上げていない亜麻色に輝くしなやかな髪をたらして窓の と、少女が言った。 , ひいろ びよう きぬ てんがい
勝ち気で誇り高いフランディア伯の三女エレ ミアン。貴婦人のようにト姓を従えて歩きた いと願っていた。彼女は宴の席で、黄金の髪 と海の色の瞳を持った少年楽士アベルと出逢 う。アベルの奏でる美しいビオールの音色に 興味を持ったエレミアンは、彼を自らの従者 にする。「雨粒ひとつにも濡らさす、あなたを お守りします」と幼い誓いを立てたアベル。 それが激しく、哀しい愛の始まりだった 恋気分いっぱいの夢小説誌 ! 朝 t 、 0 0 0 000 00 = = : 隔月刊てすの蕉お求めにくいこともあります あらかしめ書店にこ予約をおすすめします 集英社
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レザンディを救い、その愛をかなえたいと。 そしてそれをはばむのは自分の存在だと思っていた。 : マンダラゴラを与えた見返りに、別の人を想いながら私を妻とし、 ( あの人はひたむきで、 ようど て擁護していくのでしよう ) あの湿地のはるか向こうに故郷がある。 フランディアが懐かしいかといえば、ただそこで過ごした美しい日々が愛しい。 エレミアンはもっとよく見ようと身を乗り出した。 「あなたのもとへ行くわ。アベル・ 葡萄のつるを型どった鉄の格子に彼女は手をかけ、力を人れて身を引き上げた。 そして足を踏み出したその時、力強い腕が彼女を格子から引き離した。 息が止まるような強さで。 柔らかな胸がたくましい体に押しつけられて苦しかった。 じゃま 聖誰だろう、邪魔をするのは ? 薇誰だろう、抱きしめるのは ? エレミアンはそれをよく見ようと顔を上げようとしたが、抱きすくめられて動けなかった。 黒い髪でそれがようやく夫だとわかった。 いと
「おもしろいビオール弾きがいたものだ。譜をつけて、それを演奏できる腕の者にしかこの極 上のビオールを売るなと言ったらしい」 「そんなはずはないわ ! あの歌を売るなんて : : : アベルを間違えるなんて : : : ? 」 エレミアンはうわごとのようにその言葉を繰り返した。今も胸をしめつけるように、思い出 されるのは、小姓部屋ではじめてその旋律を聞いた雪の日のフランディア。 「噂の小姓はアベルというのか」 レザンディは冷たい声で言った。 「アベルのビオールに触らないで ! 」 エレミアンが叫んで、腕をビオールに伸ばした。伯はしかしビオールを取り上げて言った。 うたげ 「これを使って宴を開こう。きみの大切なアベルとやらを見るのも一興だ」 そう言い捨てて彼は文書館を出ていった。 エレミアンは絶望して床に座りこんだ。 聖「来ないで : : : アベル」 薇異教を激しく憎むあの男に、アベルの正体を知られてはいけない。もしかしたらルーネの石 がアベルを遠ざけたのはこのためかもしれないと、エレミアンは田 5 った。
不意に襲ったその言葉に、エレミアンは顔を覆った。 : 軍役が延びたのではなく、メラールに寄っていたのだー 彼は五月にも軍役の後、そうしたのだから、今度もそうでないと誰が言い切ることができる だろう ? 彼女の心に浮かんだ疑惑は黒いしみのように、拭っても消えないばかりか、次第に広がっ て、手に負えないものとなった。 「エーヴァ様 ! どうかお救いください」 しかし、いくら祈っても、それは消えなかった。 ちょうしよう メラールの女は、エレミアンの脳裏で彼女を嘲笑していた。 あこが 救貧院の貧者たちも、フランディアの若者たちも、皆彼女に憧れ、ほめたたえた。救護院の 病んだ人々は、エレミアンの薬湯の効果に驚き、彼女を女神のように思ってさえいる。しか し、何百人の称賛も、あの冷淡な夫の口から発する優しい一言にはかなわないだろう。そし て、それを聞くことなど、あり得ないだろう。 聖 ( あの人だけが、なぜ ? ) 薇顔から両手を離すと、その手のひらが濡れていた。 さび : わからないわ ) ( この涙は屈辱のため ? それとも私は寂しいの ? しかし、その苦しさを救ったのは、祈りでも天の声でもなかった。 おお
闇に薄明かりを灯したまま、ひそひそと二人の話し声が続き、エレミアンの声が疲れと眠気 を含んで、やがて再び眠りに落ちたのは明け方近くだった。 翌朝遅くに目覚めた後、エレミアンはやはり林に出かけずにはいられなかった。サヤは心配 したが、一人で出かけた。 じゃま エレミアンは誰にも邪魔されたくなかった。 アベルといた時がいちばん幸せだったと思う。フランディアの狩場では、アベルを通じて すべ 木々と語らい、小鳥の声を聞き、草の香りを思いきり吸いこんで、全ての物に宿る精霊と遊ん だ。生まれも身分も、あまりにも違い過ぎるのに、今までの自分の全てが、アベルを拠り所に 輝き、息づいていたような気がする。 あの夢は何だろう。 よちょう オーディーの異教では、夢が何らかの予兆をあらわすことがあると聞いたことがあった。 エレミアンは胸拉がれて、樫の木によりかかった。 「アベル ! 」 エレミアンが叫んだ。 小鳥が、木の葉を揺らして飛び立った。 「アベル、帰って来て ! どんな姿でも良いから、現れてちょうだい ! 」 ひし かし どころ