174 もっと 「明朝、最も大きな暴動が起こります。今一度、防備を抜かりなく」 「暴動は毎日のように起きている」 さえぎ レザンディが遮るように言った。 ウイバーン 「二脚竜亭をご存じでございましよう。地方から集めた傭兵が泊まっております。その中の、 ロゲーリアスという男が頭角をあらわして事実上の隊長となっております」 ひにかせ それはレザンディの耳にも人っていたが、傭兵軍は日銭稼ぎの連中に過ぎないと軽んじられ ており、国家を揺るがすほどの力を持っとは思ってもいなかった。 つなや はたご 「ロゲーリアスはセムルの壺焼きの息子です。彼は旅籠の亭主まで抱き込んでいます」 レザンディは椅子の背から体を離した。 「暴動はそのロゲーリアスが ? 」 その問いにソールはうなずいた。 「夜半、彼らはあちらこちらの旅籠に火を放っ準備をしております。もちろんこの旅籠もその 標的に人っています。 : : 傭兵軍が全て寝返ったら、どうなります ? 」 「待て、この旅籠に誰が火を放つのだ」 「 : : : 私です」 レザンディは眉をひそめてソールをねめつけた。 「私がその役を引き受けました」 ようへい
170 レミアンも自覚していなかったし、レザンデイもまだ知らされていなかった。 王宮付近は荒れていた。 ちんあっ 何事も起こらなければ警護にあたり、事が起こればその暴動を鎮圧するということの繰り返 しだった。 しかばねるいるい 暴動をおさめれば、その後には屍が累々と残るばかりで、兵士たちの戦意も続かなかった。 そのような中だるみの時に、一人の若者がレザンディの前に姿を現したのだ。 はたご 海馬亭という旅籠に、レザンディの隊は宿をとっていた。その名があらわすように、旅籠の つめみずか 戸口の上には、頭部が馬で、鳥のような爪と水掻きのついた前足、胴から尾までが魚であると いう奇妙な生き物を型どった鉄の標識がつけられていた。 のぞ 標識の下には、客が出人りする扉と、その横に旅籠の店主が顔を覗かせるだけの小さな窓が 並んでいた。扉はびったりと閉じられ、満室であることを示していた。その前に一人の若者が 立って、小窓を叩いた。 返事はなく、ただ中からざわざわと騒ぐ声が聞こえた。彼の立っ足下の敷石は赤黒く染まっ こんせき ていた。暴動の痕跡だ。王宮の付近の小路のどこかで、小競り合いは絶えない。 若者は金色の髪をタ日に染めて、もう一度窓を激しく叩いた。その後ろを荷車が音を立てて 走っていった。
とが以前もあったではありませんか」 「いいえ、あの日にはあなたの軍役は終わっていたはずです。ヴァンセルはあなたを出迎える のだと言って出かけたのです。さあ、神の御前で真実を」 レザンディはしかし、顔色も変えず平然としていた。 「 : : : 確かあの日私は軍役を終えてラングヴェルドに帰るところでした。しかしヴァンセルは 私と行き違いになったのです。なぜなら私は帰途、回り道をして別の旅籠に泊まったからで す。 ノアルの目がきらりと光った。 「どこの、何という旅籠なのですか ? 」 「これは困った : : : 母上、それをどうしてもここで言わねばなりませんか」 彼は、その言葉ほどには困った様子もない。むしろ相手をはぐらかし、じらしているように 見えた。 「神の御前で、ごまかしは許しませんよ」 聖小柄なノアルは、その痩せた体の内に、レザンディにも対等に立ち向かえるほどの激しい怒 薇りを秘めていた。 「ヴァンセルは心根の優しい、聡明な子でしたわ。あなたがなぜ、あの子をわざわざ辺境伯領 に遠ざけられたかはよくわかっているつもりです。それでもヴァンセルは最初、恨み言ひとっ はたご うら
176 かっちゅう 明朝、彼は赤い甲冑に身を包んだ傭兵ロゲーリアスを討たねばならない。灰色の短い髪と青 味がかった黒の瞳を持っ青年だ。 明け方近く、旅籠の外で、ざわめきが聞こえた。ソールの言った通り、付近の旅籠から火が 出ていた。 すで レザンディの麾下の兵士たちは既に武装していた。怒号が起こり、混乱した薄闇の街を軍靴 の音が駆け抜けた。 レザンディは、 「今日だ。今日が全て」 つぶや かんぬき と呟き、それから海馬亭の扉の閂を外させた。 「エーヴァ神の御加護あれ ! 」 この叫びが出撃の合図だ。 とき 鬨の声と、剣の音、馬のいななき、死にゆく者の叫び : さつりく 王宮付近の小路は殺戮の舞台となった。 ( 今日が全て ) レザンディの思いは、今日持ちこたえられるか、という不安を含んでいた。ェシュアンの案 けが いちじる じた通り、まだ完全に癒えていない怪我と、失血によって著しく落ちた体力で、レザンディは ぐんか
荷車は死体を運んでいた。荷車を引いて行くのは刑場で働く下男だろう。日が暮れる前にし ておかねばならない最後の仕事だ。 小窓が開き、無愛想な顔をした男が、 「よそを当たってくれ、うちはもういつばいなんでね ! 」と言った。よそへ行ったところでど こも兵士であふれているのだが。 「ラングヴェルド伯にお目通しを」 若者は静かに言った。 旅籠の下男は、奥まった小さな目でその若者をねめるように見た。 彼は最初、相手にしないつもりだったが、その若者の貴族的な雰囲気に圧されて、それをレ ザンディの従者に伝えたのだった。 扉を明けて宿に足を踏み人れると、荒くれ男どもの馬鹿騒ぎと酒臭さに、若者は顔をしかめ てたじろいだ。 とイく へきえき 無意味な労役に辟易して賭博に熱を上げていた兵士たちは、思わぬ美貌の客人に興味をそそ きわ こりにお 聖られた。血と埃の匂いに満ちた街の旅籠で、その柔らかく気高い物腰は際だって人目をひい 薇た。 「御館様、お目通りを願いたいという若者がおりますが、いかがいたしましよう ? 」 きんじゅ 先に寝室で体を休めていたレザンディに、近習がそれを伝えた。 ばか くさ
172 「何者だ、それは ? 」 「ソールと名乗っております。それが、俗人にない気品を持った若者と見受けられます」 王宮の使いと言われても信じられたであろう。レザンディは、彼に会いに、旅籠の広間に降 やゅちょうろう 客人は、無骨な男たちの揶揄、嘲弄の的になっていた。レザンディが姿を現すと、一転、そ の場は静まり返った。 若者はひざまずいた。 ひ 「私は雇われ兵に過ぎませんが、御館様に是非ともお知らせしておかなければならないことが ございます。どうか、私を御館様の軍に加えてください」 レザンディは目を細めて、その男を観察した。彼は直感によって人を見定めようとすると き、そのような仕草をする。切れ長の目で何を判断したか、彼の態度は他の兵士たちとは違っ ていた。 ・「戦えるのか」 「足手まといにならぬ程度には」 きやしゃ ゆみずる 兵士たちから笑い声が漏れた。華奢な体つき、気弱そうな物腰から、彼には剣より弓弦、と いうのも楽器のことを指すが、それを操るほうがはるかに似合っていた。 「馬は ? 」
平然とそう言うソールの耳に、レザンディの腕甲のすれる音が聞こえた。 「そうです。私を斬れば、この旅籠に火をつける者はおりません」 沈黙の後、剣柄に手をやっていたレザンディのほうから先に口を開いた。 「王を裏切る傭兵を、おまえは裏切るのかー あざむ 「敵を欺くためには味方も騙さねばなりません」 「それでどうやって私を信じさせることができる ? 先の話が真実だと、エーヴァ神に誓え」 ソールは黙っていた。エーヴァ神に誓ったところで信用できるわけではなく、レザンディの その命令の意図は別のところにあった。 彼はそれを見抜くだけの経験を積んでいた。オーディーの僕たちが、時にエーヴァ神の使徒 たちには理解できない行動をとることも知っていた。 ソールはレザンディの反応を待っていた。 レザンディは何も言わず、階下で待機する兵士たちに武具や防具を整備させた。兵士たちは かぶと 聖丹念に兜を磨き、剣や短剣を研いだ。 薇レザンディは表向きはソールを信じたように見えた。そして全ての準備を終えて、ラングヴ エルドの貴人はソールを縛り上げた。 「火をつけられては困るからな」 つか だま わんこう しもべ
うというフェレニス殿にとって、好都合だった」 「父のその隹 . りはわからないでもありませんが、ヴァンセル様がどうして : : : ? 」 そう言いかけて、エレミアンはふとノアルの顔を思い浮かべた。彼女がレザンディたち兄弟 を仲違いさせた罪を告白した時のことだ。 ヴァンセルははじめのうちは、そんなことは思い過ごしだと笑っていましたが、春頃か ら態度が変わりました すで 五月といえば、既にレザンディとヴァンセルの仲は険悪になっていたはずだ。 しかも父まで、レザンディのゆかりの地であることを伏せてエレミアンを静養させるとは けんおかん うりやく エレミアンは美しい別荘にも謀略がうずまいていたのだと知って、嫌悪感さえ抱いた。 はたご 「帰還の途中の旅籠に、ヴァンセルは手紙でそれを知らせてきた。兄上の婚約者を垣間みる機 いたずら 会をつくりました。それはほんの悪戯心ですが、兄上に喜んでいただけるものと思います、と いう内容の手紙だった。 私は弟を疑わなかったわけではないが、しかし、ヴァンセルが昔からそういった無邪気さを 聖持っていることもまた事実だった。 わな 薇罠にはまるつもりはなかったが、婚約者をどうにかされては、フランディアとの同盟の話も 立ち消えになると、私はひとり馬を走らせた。それがあの、天の異変の起こった日だ」 エレミアンはさっと顔色を変え、怯えたように叫んだ。 加 おび
きか けど それを麾下の兵士に気取られないように戦わねばならなかった。 自分をめがけて振り下ろされる剣に、燃え上がる旅籠の炎の光が映って閃光をもたらす。レ おうしゅう ザンディはそれを剣で受ける。金属音の応酬。いつもなら、たった一振りで相手を馬からたた ごう かっちゅう き落としているはずだ。三合、四合、ようやく敵の軽騎兵にとどめをさす。うめき声と甲冑の 音が落下する。 ( 持ちこたえられるか ? ) 剣を振りながら自問する。いつになく弱気な自分に苦笑する。 やり 歩兵の突き上げる槍を剣でたたき折る。 怒声とともにすれ違う騎兵の剣をかわす。そのタイミングがいつになくきわどい。体が重 く、意のままにあやつれないでいる。甲冑の上から剣を下す。しかし、相手を死の国へと送る までには至らない。 「くそ ! 」 今度ばかりは、生きてラングヴェルドへ帰れないかも知れない。 聖「エーヴァ神の御加護あれ ! 」 ふる の 薇 レザンディは、自分を奮いたたせるように叫んだ。 はんらん レザンディの軍は「闇に融けるような黒い甲冑、それに対して叛乱軍は様々な、統制のとれ ていない民族と武具と甲冑の集まりだ。丸腰に近い者もいれば、軽騎兵あり、鍬や鉄槌を振り せんこう くわてつつい
そしてレザンディは壁に顔を向けた。首筋に黒い髪が汗ではりついていた。痛みを耐えてい るのだろう。エレミアンはその汗をそっとふいた。 苦しみは長く続くだろう。のたうちまわるような苦痛に弱音を吐いてしまうのではないか けんめい と、レザンディは恐れているのだ。エレミアンは懸命にアベルから学んだことを思い出した。 アンデレが薬草を籠に人れて戻って来た。 おお 「奥方様。仰せの薬草をお持ちしました」 エレミアンは籠の中を調べた。 げどく 「毒の正体がわからないうちは、解毒の草はまだ使えないわ。毒矢にはビシアを塗ると聞くけ やっかい れど。 : : : 動物の毒だと厄介だわ」 「とんだ魔女だ。よくもそんなことを知っているものだな レザンディがちらりと彼女を見て呶いた。 「減らずロね。今に泣き叫んで私に助けを求めたって知りませんからね」 そしてレザンディの左手の傷に触れた。 レザンディの肩がびくんと動き、うめき声が漏れた。 聖 薇「熱をもっているわ。うずいているのでしよう ? 」 うら レザンディは恨めしい顔でエレミアンを睨んだ。 いちべっ エレミアンは夫を一暼しただけで、籠の中から刺のある草を取り出した。 かご