はどうして誰もが幸せになれないのだろう、と思った。 「驚いた、あの母上をよくおさめたものだ」 レザンディが言った。 けつばく 「私にはどちらでも良かったわ。あなたが事件に関わっていらっしやるか、それは潔白であっ ても娼館でおやすみになられたということが事実であるか、二つに一つが真実であれば、後者 のほうがましというものです」 レザンディは涼しい顔をしてそれを聞いていたが、やがて口を開くと、 「それで迫真の涙の演技をしてくれたのだな。礼を言うと言った。 いつ見られたのだろうとエレミアンは恥ずかしさに顔を赤らめて、レザンディを睨んだ。 かな 城館への階段を上がりながら、エレミアンは、レザンディの奏でるビオールの音色を脳裏か ら消すことができずに、弱り果てていた。あれはきっと、そのメラ 1 ルの恋人を想って弾いた ものなのだろう。愛情が強いほど、あの曲は美しく人の心をとらえるのだ。娼館の話を聞いた 聖時に、なぜ涙を見せてしまったのだろうと自問したが、答えは得られなかった。 薇それ以来、レザンディのビオールを聞くたびに、彼女はメラールの恋人のことをあれこれと 想像してしまう妙な癖がついた。弟までも手にかけたかも知れないという非情な男が恋い焦が れて甘い言葉を投げかける相手というのは一体どんな女性なのだろう ? にら
彼を呼ぶ異名だ。 ぶくん 数々の武勲。 そして彼を恐れる噂は数知れない。 かんけい 流血と奸計によって手にした新しい領地においては、彼は古い領主の血筋を絶やさねば気が 済まない。 やから くわだ また彼はどんな小さな謀反も見逃さない。反逆を企てそうな輩を根絶やしにする絶好の機会 だからだ。 さつりく いげん そして威厳を示すための見せしめの殺戮にはいかなるためらいもない。 噂はいろいろ流れてくるが、どれもエレミアンには大して重要なことには思えなかった。た だひとつを除いては。 オーディーの異端を大量に殺害するほどの異教嫌い。 しかしエレミアンはきっと顔を上げて、その不安に立ち向かっていた。 アベルがきっと守ってくれる 聖それは誰も動かすことのできない確信だ。 薇「私がマンダラゴラを名も知れぬ吟遊詩人に託したように、アベルも遠くから私を見ていてく れるはずだわ」 みちび 誰にも聞こえないようにそう呟いて、エレミアンは大聖堂へと導かれた。 むん つぶや
Ⅷ「アベルが守ってくれたのだわ : : : 」 アベルはたとえ風にでも木の葉にでも姿を変えてやってきたのだという確信を彼女はもって いた。あの、甘美な眠りの前に唇に受けた洗礼は、心から愛しいと思って与える恋人のくちづ けに違いなかった。アベルが精霊になって抱きしめてくれたのかも知れないと思った。エレミ ためいき アンは長い溜息をついた。長い夢を見ていたような気がした。 まばた エレミアンは瞬きを繰り返しながら、林で起こった出来事を思いだそうとした。そしてふと 顔をサヤに向けると言った。 「 : : : あの男は ? あの詩人はどこへ行ったの ? サヤ」 重々しい沈黙が続いた後、サヤがわっと泣き出した。 「お嬢様にもしものことがあったら、私は生きてはいられません ! どうか、私を処罰してく ださい ! 」 サヤはひどく取り乱して床にひれ伏した。 「死んだの ? あの人は助からなかったの ? 」 きつもん エレミアンが詰問するほど、サヤは体を縮めて泣き叫んだ。 「私がお叱りを受けてもお供するべきでした ! お嬢様があのようなひどい仕打ちに遭われる なんて ! 」 エレミアンは不可解な顔をして、サヤを見た。 かんび しよばっ
126 いちべっ エレミアンの射るような眼差しに気づいたのか、彼は暗い瞳でエ・レミアンを一暼した。エレ ミアンは一瞬視線が合ってしまったことに驚きながらも、目をそらすことができなかった。 彼は、誰かを愛している エレミアンは打たれたような衝撃を感じた。この結婚で愛を失ったのは、自分だけではなか ったのかも知れない。 じゅばく エレミアンはその時ようやく、レザンディのビオールの呪縛から解かれたように立ち上がっ た。静かに広間を出た。 れんが 煉瓦色の柱に寄りかかってエレミアンは気持ちを落ちつけようとした。 しゅうぶん 「あの人は、私の醜聞を欲しがっているのだわ・ 。そして私をこの城にいられなくするつも りなのかもしれない」 「奥方様 : : : ? 」 けげん 足音にも気づかないくらい、エレミアンは動揺していたらしい。ェシュアンが怪訝な顔をし て、彼女を見ていたのだ。 「ご気分でも・ ぶどうしゅ 「ええ、 : : : 葡萄酒に酔ってしまったの。外の風にあたりたいわ」 「それではお供させていただきますが、 : なにぶん、夜は危険でございますので」 みちび ェシュアンは広間から出た回廊の窪みから燭台を取り、エレミアンを導いた。エレミアンは
122 「 : : : 来てくれたのね : 人影が動いた。薄暗い文書館で、鑞燭の光を頼りにビオールを弾いていたらしい。彼はビオ かたわ ールを傍らに置いて立ち上がった。 エレミアンはかけよって、その腕に飛び込んだ。 , 彼の腕はエレミアンを受けとめた。 「アベル・ と、低い声が繰り返した。 エレミアンははっとして顔を上げた。そして小さく叫んだ後、凍りついたように動きを止め たまま逃げ出すこともできなかった。 こうさい 鑞燭の光に照らされて、夫の顔に深い影が落ちていた。底の知れない闇のような虹彩に鑞燭 の小さな明かりが揺らめいて映っていた。どこかで見たことがあるような、孤高な光だった。 眉をひそめて、レザンディは罠にかかった小動物のようなエレミアンの体を両腕に抱いたまま 沈黙していた。 きようかく エレミアンの顔に、驚愕と悲嘆の色が浮かんだ。伯はそっとエレミアンをはなした。 ようひし 彼は燭台を引き寄せ、数枚の羊皮紙をエレミアンに見せた。それには四本の線に四角い符号 のようなものが不規則な形に並んでいた。 ネウマ 「音符・
エレミアン以上にレザンディは驚いていた。声もなく義母の痩せた背を撫でてカづけなが とまど ら、戸惑ったように様子をうかがった。 「オーディーがやったのです ! オーディーがヴァンセルのきれいな顔に、あの忌まわしい印 を刻んでよこしたのです。あの子に会ってやってください ! 」 くず そしてノアルは激しく泣き崩れた。 レザンディはノアルの従者に導かれてヴァンセルの頭と対面した。その間、エレミアンはノ アルの側についていた。 ノアルは長いこと泣いていたが、やがて涙も乾き果てた。エレミアンが下女に糖蜜のお茶を 持たせてノアルにすすめた。ノアルほどの悲しみを持ちこたえる術は知らなかったが、エレミ アンはそのような子供だましの飲み物が意外と心を落ちつかせてくれることを知っていた。 「祈りが届きませんでした、ごめんなさい。お義母様」 うるお エレミアンはノアルの手を支えて、甘い飲み物で彼女の喉を潤した。 「優しい方ね。そして強い方。 : : : どうか私の話を聞いてくれますか。 聖ノアルはエレミアンに告解にも似たうち明け話をはじめた。 うら 薇「レザンディが、私のヴァンセルを遠ざけたことを私は確かに恨んでいました。辺境伯領に追 ・ : ヴァンセルはそれでも、レザンディの言葉を真に受けて、政治の いやられたのですもの。 要の所領を任されたと喜んでいました。実際、そうだったのかもしれません。レザンディ自ら や
ふしど レザンディはそこまで話した後、ふと臥所の脇に立ち、アベルの寝顔を見つめた。小姓が無 言で薬草を取り替えていた。エレミアンは床にひざをついて臥所によりかかっていたが、アベ ルを見ることができなかった。 やくとう 「アベルは助からないのですか ? 薬湯は ? 」 彼女は夜具にしがみついて、床にうずくまっていた。レザンディは彼女の体を起こして長椅 けが 子に座らせた。アベルの怪我の処置が終わり、小姓がその顔を麻布で拭いていた。 「アベル ! 起きて ! 」 エレミアンはデラヴィーナの森でそうしたように、アベルを呼んだ。何度も呼び続ければ、 聖マンダラゴラのように、精霊が話しかけてくれるかもしれないと思った。 薇「アベル ! 私の呼んでいるのが聞こえないの ? 」 レザンディは黙ってそれを見ていたが、何を思ったか、壁の飾り棚からビオールを取ってエ レミアンの横に座った。弓を引いて調弦をした。柔らかいビオールの音が、エレミアンの心を 第七章永久の別れ と・わ
「どうなさったんです ? エレミアン様」 あわ アベルはエレミアンを見下ろす恰好になり、慌てて頭を低くした。 「お父様が私を、ゲームの駒みたいに嫁ぎ先を決めてしまったの。サヤはそれを知っていて黙 っていたのよ ! 」 アベルは青い瞳を見開いた。 : ? エレミアン様が」 ろうばい その表情には驚きとも狼狽ともとれる徴かな揺らぎが見えた。 十四歳 : : : 。なぜ今までそういう話がなかったかを不思議に思わねばならない年頃だった。 「サヤはもうお行き。アベル ! 魔術を教えて」 アベルもサヤに目で合図をした。 「早く行っておしまい ! 」 エレミアンはきつい口調で言った。 サヤは太った体を縮めるようにして雪の上にぬかずいていたが、おろおろと立ち上がって城 館へと戻っていった。 アベルはりんごの木の枝に腕を伸ばした。朝の礼拝の時にはエレミアンの髪を結ってあった かんしやく 髪飾りを枝から取った。エレミアンが癇癪を起こして放り投げたのだろう。 ほどけて乱れた髪をそのままに、エレミアンはアベルにつめよって言った。 とっ かす
148 ようしゃ 「ご容赦ください。この街では異教めいた者にはことのほか慎重でなくてはなりません」 老いた管理人はひれ伏してエレミアンに謝罪した。エレミアンは、レザンディをひどく恐れ ている市民の姿をそこに見た。 ぎやくたい 「主人は異教だというだけで虐待するのではありません。それぞれの神をその国の言葉で信仰 しても、命を粗末にしなければ良いのです。さあ、立ってください」 エレミアンがその言葉に間違いがなかっただろうかと不安になってェシュアンを見ると、彼 は目をしばたたかせていた。 部屋の外の廊下には、それぞれの持ち物が人った粗末な袋が並んでいた。エレミアンはふと アベルを思い出した。 アベルがフランディアの城へ来た時も、その荷物の少なさに、エレミアンはどうしてそれで 暮らしていけるのかと驚いたことを覚えている。エレミアンがアベルに着る物や装飾品を与え ても、城を出て行く時にはビオールとルーネの石と、そして賊のもっていた奇妙な剣だけしか たずさ 携えなかったようである。 そのビオールも手放され、今はエレミアンの夫の手に美しい音色をゆだねていた。 アベルは誰にも支配されたくなかったのかもしれない。 自分で手にいれた剣と、もともと自分の持ち物だったルーネの石にしか、そのおそらく険し ぞく
外を見つめていた。彼女はラベンダーの瞳を輝かせて、ふつくらとした小さな指をさした。 そこでは跳ね橋が降りて城門が開き、城の主の一行についてなだれ込んできた所領の人々が うかれ騒いでいた。 「お体が冷えます。もうおやすみになりませんと。エレミアンお嬢様」 乳母のサヤ夫人は、その胸の高さほどの小さな少女に、体をかがめて目線を合わせた。 「いや ! お兄さまばかり、ずるいわ エレミアンと呼ばれた少女は、淡い紫色の瞳で乳母を睨んだ。七歳という幼い少女には似合 そうう わない、勝ち気な、誇り高い双眸。 こしよう 「お兄さまばかりきれいな服を着て、びかびかの剣を身につけて、それにお小姓をたくさん従 えて、まるでどこかの王さまみたい」 きさき 「ご婚礼なのですから。シメン様がお妃様をお迎えになられ、七夜もの間楽士や詩人たちが招 しゆくえん らん かれて祝宴が続くのです。そのうちにご覧になれますとも」 はだざむ 太った乳母は、この少女をなだめようと気をもんでいた。日も暮れかけて肌寒いほどである ずきん かんしやく のに、白い頭巾の下に見える広い額はうっすらと汗を浮かべている。少女が癇籟を起こさない うちに言い含めておかないと、やっかいなことになるのだ。 うたげ この城館では、フランディア伯フェレニスの長男シメンの婚儀の後、長い宴が繰り広げられ ようとしているのだった。エレミアンは伯の三女である。 にら