なのに、親の代わりとして無条件の愛情を求められれば結婚に満足できなくなる。そ うした互いの食い違いはさまざまな不都合を生じるようになるが、たまたまそうした 時期に子どもが生まれてくると、母親の感じているストレスは子どもに出口を求める ようになる。こういう環境に生まれてしまった子どもは、虐待に遭う恐れが高い 「この『ありさの虐待日記』の真偽は分からないにしても、これが子育てをしている 親たちの置かれている状況、心理状態を、代表しているのではないでしようか。極め て深刻な状況だと受け止めるべきでしようね」 、つな 西澤助教授は、唸り声を漏らした。 育て直し ス セ 亜里沙さんの怒り、憎悪は、会社や社会や夫や家族に向かっているように見える。 し雄介くんを虐待す 九自分を認めてくれない周囲に対してプロテストする代わりに、弓、 第 ることで・目分を尉めよ、つとしているよ、つに田んる。 だが、それでは、亜里沙さんの心の傷は癒えないだろう。なぜなら、書かれている
「バ 1 チャル」 ある意味でインターネットはバーチャル ( 空想、架空 ) だ。『ありさの虐待日記』で 分かっているのは、ホ 1 ムページ上に掲示された内容だけだ。これを作った大西亜里 沙さんの名前はもとより、性別、年齢、職業、居住地などいっさい証明できない。虐 待の真偽も不明だ。創作の可能性も高い。あるように見えるのは情報だけ。 ただ「日記」に込められた悪意だけは、ひとびとの心に深い傷を与えた。一般のひ あずか じとたちはそれを感じ取り強く非難した。虐待防止に与る関係者は「作り物だろうし、 これだけ書けるんだから放っておいても大丈夫」といなした。真剣に電話で相談して くるひとたちへの配慮もあろうし、《虐待は悪くない》とホームページに公開する無神 ねずみ 「事件」は完全に収まった。鼠一匹出なかった。 一二月に入って、この「日記」を発見した。『ありさの虐待日記』という名前だった。 衝撃を受けた。読めば読むほど、間違っていたという思いが募った。 そのホームページを第一章に、そのまま転載する
虐待にはふたつのタイプがある、と木下弁護士はいう。 ひとつは「悪意からやる」もので、これは虐待を楽しんでいる。ひとの苦しむのを 見て快感を覚えるというタイプである もうひとつが、「せざるを得ない - もの。こちらは、自分でも悪いと分かっていて何 とかやめようとしているけれど、やめられない。だから、助けてくれ、という悲鳴を あげている。その原因が、自らの虐待体験なのか、精神的なトラブルのせいなのかは 別としても、虐待をやめられないで子どもを手ひどく扱ってしまうケースもあるとい うことだ。お母さんが、ギャアギャア泣きわめく子どもにほとほと困ってしまって、 思わず殴ってしまうというケースもある 「だから、犯罪と、母親の虐待は違うんです。そこを勘違いしないようにしなければ ならないと思いますね」 士 護 弁 社会に根強い「母性神話」は、自分の子どもを虐待してしまう母親の存在をできる 章限りは蔽しようとする。それは、 " 社会の安全性。という一種の幻想の成り立ちに深く 第 関わるタブーに触れるからだろう。子どもを守ってくれるはすの母親のいる家庭が安 全でなかったとしたら、その家庭の集まりである社会の安全はあり得ない。国民の安
解できないんですよ」 つぶ 大田医師はポツリと呟いた。 「僕は小児科医ですから、いままでたくさんの子どもに会ってきました。でも、やっ ばり自分の子が一番かわいい。だから、どんな理由があろうと、自分の子に手をかけ るというのは信じられない。間違っていると思います。それがないと、子どもを治療 する自分の立場が分からなくなります。どうしたらいいのか、自信がなくなってしま いま、丁から ふたりの子どもがいる親としての目からみれば、虐待という行為は納得できない だが、それでも、虐待してしまう親への援助はしていかなければならない、と大田医 師は言う。それは、虐待してしまう親が苦しんでいると思うからだ。だが『ありさの 虐待日記』は《虐待は悪くない》と主張した。 「だから、『ありさの虐待日記』は、一般のひとに違和感を抱かせたのでしようね」 大田医師は「違和感」という抑えた表現を使ったが、「親なのに自分の子がかわいく ないのかーという批判があるのは当然だと思う。それが、一般的な親子の感情だろう。 しかし、亜里沙さんはそうした「常識」に真っ向から異議を唱えようとしたのだと思 う。それが、自分の気持ちに正直であろうとする亜里沙さんの姿勢なのだし、そのよ
内容を見ている。 「そのとき、初めて『虐待日記』の内容を知り、こういう形でネット上に出ているこ 所とが分かったわけです」 児童相談所の相談室で行われたインタビューでは、村上所長はプライバシー保護の 児観点から「ありさ」という固有名詞を意識して省いている。しかし、本書では、他に しゅんべっ 戸もたくさん開設されている「虐待に悩む親たちのホームペ 1 ジ」と峻別するために、 あえて「ありさの」と特定していくことにする。 「ホームページを見て、まず『虐待日記』という題名にビックリして、内容を見てま らたエーツと思いましたね。こんなことがあるのかな、と : このように親子関係を 赤裸々に書いて、それをインターネットで公開するということが本当にあるのかな ? ということですよ」 しぎやく ホ 1 ムペ 1 ジに書かれている内容は、過激で挑発的で嗜虐的とも取れる。村上所長 の第一印象も、同じようなものだったらしい 二四日午前中に村上氏が『ありさの虐待日記』を見た段階で、アクセス数はすでに 五七〇九であったとい、つ。その数は、当日の夜にこのホームページが閉鎖されるまで の間に、およそ六〇〇〇件にも上った。多くのひとがこれを読んだことになる。
「虐待されてきたひとたちは、『子どものときに大人がだれか気づいてくれていたら、 こんなに苦しまなくてよかったのに』って皆さんいいますね。 実際に、私が関わったあるお母さんは、小学生のころに先生が彼女の様子に気づい てくれたそうなんです。体育のときに着替えますから、虐待が分かりますよね。そう したら、その先生は家庭に乗り込んできて『体罰を止めてくれ』と強く意見してくれ たんですって。でも、そのあと、体罰はますます烈しくなりますよね。お前が余計な ことをいったから、みつともない思いをしたじゃないかって」 なるほど、正義の側に立った先生の気持ちは晴れたかもしれない。だが、それだけ で終わってしまったのでは子どもは救われない。その後のケアがなければ、虐待され ている子どもは「やつばり大人は頼りにならない」と思い知らされるだけだ。だから、 理よくよく考えて、十分な対応を取れる体制を整えてから対処しなければならない、と 佐藤心理士はいう。親を責めてはいけないのだ、ということを肝に銘じておかなけれ 臨よならない 、と。『子どものために』という錦の御旗は振りやすい。だが、その分、親 六を傷つける恐れも高い。 第 「ですから、どうしても助言が必要な局面では、『お母さんもこれ以上ストレスが溜ま らないように、大変にならないようにこうしませんか』という言い方で、提案の形で
232 とくに真偽のほどが分からないインターネットのを取材対象にし て背景を探ろうとする記者の息づかいが伝わり、その手法の面白さが生 きていた。「ありさの虐待日記」のホームページの内容を善悪や正義・不 正義という価値観から離れて、に徹底的に寄り添い、耳を傾ける姿 勢は「話し手」と「聞き手ーの関係を彷彿とさせた。 に書かれたことは「ありさの語りである。語られなかった物語 はフィクションである。だが伝えようとして語られたものはフィクショ ンではなくなる。その場合、だれに語ったかが問題である。聞き手の存 在である。インタビューでは話し手と聞き手が双方見える関係にある。 反応の表情、言葉遣い、着ている物、場所の雰囲気が物語の形成に影響 する。そこで生まれた信頼関係が、本当らしさ ( リアリティ ) を思わせ る物語の信憑性を担保する。しかしは不特定多数に話し手が語る。 聞き手が今回はマスコミになり「騒動」になった。善悪という価値基準 にしばられた聞き手との間では、物語を語り続けることはできない。だ が本書の記者が聞き手になり、見えない「ありさ」の存在はあぶり出さ れてきた。「ありさ」が紡いだ物語は「聞き手」を獲得してリアリティを
220 あるかのように反応する。これが「トラウマ記憶ーだ。ところが、それが繰り返し語 られ、思い出されると、次第に衝撃は薄れてゆき、最終的に過去の経験として心の中 に収まってゆく。こうしてトラウマは〈過去の物語〉になり、ひとはそこから回復し てくることが可能になるだろうと、ヴァン・デア・コークはいう。 トラウマを消化吸収してゆく過程を、三つので説明するのが、・ジョンソンで ある。再体験 (Reexperience) 、解放 (Release) 、再統合 (Reintegration) がそれだ。 話すことは、体験を客観化することに通じる。そのときに感じた怒りや悲しみや無 力感などを言葉にすることで、子どもだった自分に説明してやる。そのときには何が なんだか分からなかった体験を、こういうことだったのだ、と教えてやる作業だ。 ときには、あまりに辛く、悲しい体験を思い出して泣くこともあるだろう。だが、 その体験をしたときに、 こうした感情を抑え込んでしまったことが、トラウマの原因 ともなっているのだから、感情を解放して悲しみ直すことも大切だ そうして、自分の感情を思い切り解放したら、閉じ込めていた体験とその記憶を、 自分の人格の中に組み込んでやることが必要になる。虐待された自分も、やはり自分 の一部であり、それをそのまま受け入れることで、欠けていた自己を取り戻すのだ。 虐待を許すとか、親を認容するというようなことではなく、そういう経験をしたのだ
174 だから、と法主任はいう。 「私が夫に子育てはふたりでするもんだって主張しやすいのは、こっちも働いている 強みがあるからだと思います。夫と妻が役割分担して夫婦がお互いに違う世界で生き ている場合、夫に妻の立場や育児への共感や思いやりがないと、妻としては決別され たような気持ちになるんじゃないでしようかね 今日はだれが何をいったとか、公園でどうしたとか、妻の話は面白くないかもしれ ないが、夫はそれに耳を傾ける必要があるのではないか。フーンとか、ヘエーとか適 あいづち 当な相槌でもいい。聞いてくれるだけで妻は楽になることが多いのではないか。「王様 の耳はロバの耳ーではないが、何でもいえる穴は夫以外にいないことが、どうして夫 たちには分からないのか。妻の話すつまらないことが、家で過ごす母親と子どもを取 り巻いている現実なのだということを。 「核家族化して孤立した家族のなかでも、さらにお母さんは孤立しているんです。夫 の理解が得られないことでね。経済的に豊かで働かなくてもいい家庭のひとこそ、逆 にストレスが溜まっているのかもしれませんね」 子育ては夫婦共同の仕事であるはずだ。厚生省もいっているではないか。 『育児をしない男を、父とは呼ばない。』と。
ているのよ』と文句をいっているような気がするんです」 敵がだれなのかハッキリ決まっているわけではないが、自分の思いのたけをいって みたという印象を、法主任は『ありさの虐待日記』から受けた。そのときにインター ネットという、不特定多数に向けて何かを発信できる手段が亜里沙さんにとってはピ ッタリきたのだろう、と。 「こうして発言したことで、一時的にしろ、ある程度は気持ちが収まっているかもし れませんね。でも、それは、根本的な解決にはならないわけです。それに、世間から 猛烈な批判を浴びてしまったから、世間体を気にする亜里沙さんは今はおそらく戦々 恐々としているでしよう。このひとの叫びが救われたわけではないんです。 カ ワ虐待は繰り返す、というのはよくいわれることなのですが、近くにいるひと、とく に亜里沙さんのご主人が気づかなければ、またいつ、これを書いたときみたいにムラ 一ムラと子どもを虐待したいという気持ちが湧いてくるか分かりませんよね 見ようによっては、『ありさの虐待日記』の内容は coOco とも読めるのだ。ただ、と 七ソーシャルワ 1 カ 1 は姿勢を改めた。 第 「こういう (.noco の出し方じゃ、なかなか手を差し伸べにくいですよね。いつも感じ 血るのですが、虐待に介入することのむずかしさを、亜里沙さんのケースでも感じます