160 綺麗すぎるストーリー きれい が綺麗すぎるの 「初めて『ありさの虐待日記』を読んだとき、あまりにもストーリー で、これは創作しているのじゃないかな、と思ったんです。もっと穿った見方をすれ ば、どこかのマスコミが話題作りのために流したんじゃないか、とー 法主任ソーシャルワーカーは、そういって笑う。 発信者はある程度演技をしながらこういう日記を書いているのではないだろうか、 と思ったそうだ。しかし、虐待されているという雄介くんの反応はそれほど異常では ない、それなりに愛情を与えられて育ってきているように感じられたという。言い換 えれば、日記に書いてある行為には、あまりリアリティが感じられなかった。だから、 亜里沙さんはそういってみたかっただけではないか、と。 「この方は、おそらく、だれかに何かをいってみたかったのではないかな、と思うん ですね。その対象は、社会一般なのかもしれないし、夫なのかもしれない。私が関わ った虐待のケースでも、夫婦関係においてお互いが理解しあっていると感じているひ とは、ほとんどいないですから。亜里沙さんは、ご主人を含めた親戚とか社会とかに 向けて、『能力のある私がこんなふうに子育てに囚われていることについて、どう思っ
亜里沙さんへの呼ひかけ そうは思う。だが、なんとか本人に連絡して、真意を確認しようと考え、無駄かも しれないとは思いながら『ありさの虐待日記』のミラ 1 サイトに書き込みをした。激 しい「嵐 / 荒らし」が横行しているホームページの掲示板で、そのような呼びかけを することにどれだけの効果があるのかは全く分からない。だが、亜里沙さんがこうし た掲示板を気にしている可能性はゼロとはいえない。しかも、この掲示板には現在も 多くの書き込みが続いている。もしも亜里沙さんが自分の主張に対して幾分かの心残 理りを感じていたとしたら、ひょっとするとこの掲示板への書き込みを読んでくれるか 床もしれないと思ったのだ。 臨 章 この書き込みに対して、掲示板上でかなりの反発があった。せつかくみんなで楽し 第 く傷つけあって遊んでいたのに、真面目な顔をした変なャツが入ってきて邪魔しやが った、と思ったひともいたに違いない。なかには「を送りつけてやれ」など
鮖あると思いますー もちろん、神戸市児童相談所は、市内の保育所に関しては一通りの調査を行ってい る。しかし、該当する児童がいないと分かると、一件落着させてしまったのだ。 ちゅ、っちょ だが、こうした関係者のとまどいと躊躇を、佐藤心理士はこう見る。 「保育所にしたら、自分のところに来ている子どもの親ごさんを疑うようなことはな かなか言えないでしようね。それに、もし間違っていたらどうしよう、という気遣い もあるでしよう」 けれども、と心理士は思いまどう。 「虐待ではないのに虐待ではないかと疑ってしまう罪よりも、虐待なのに虐待ではな い、と見過ごしてしまう罪のほうが圧倒的に重いんです。しつけと虐待の区別がっか ないからとか、家族のプライバシ 1 を尊重するためにとかいった名目で、子どもひと りの生きる権利が失われていくことのほうが重大な問題だと思いますね 正義の御旗
うにあえて告白した亜里沙さんの勇気には敬意を払わなければならないだろう。 だが、その勇気と、一般の感情を逆撫でしたということとは別に考えたほうがよい だろ、つと思う。たしかに世の中には、子どもがかわいいと思えないひともいるのだ。 亜里沙さんの場合は、その子どもが自分の生んだ子で、そのひとが母親だというだ 、と正直に表明した亜里沙さんを、まず受け けのことだ。子どもをかわいく思えない 入れることが必要なのだろう。 ともすると、自分の価値観を基準にして他人を判断してしまいがちだ。しかし、世 の中にはさまざまなひとがいる。自分と異なる価値観をもつひとと、どのように理解 しあうことができるかまず、理解しようとすることがすべての始まりであることは いうまでもない。《虐待は悪くない》というのは亜里沙さんの価値観だ。そのことの是 医非を争っても大して意味はない。互いの価値観をぶつけあったところで何かが生まれ 児る可能性は少ない。そうではなく、価値観のよってきたる核を見いだし、それを理解 しようと努めること、そして相手にも理解してもらうこと。それが、互いに成長して 八ゆく糧となるのではないか。「子どもがかわいいと思えない」ひとがいることを否定し 第 ても、何も変わらない。現実は変化しない。子どもがかわいいという価値観が大切な ら、そう思えないひとにも理解してもらえるように言葉を尽くすことだ。相手を理解
〈罪悪感を持っ〉 ひとが多いからです。でも、それは自分自身を受け入れられないという困難のためで す。だから、自己肯定感を持ってもらうために、あなたは、罪悪感を払拭する闘いに 乗り出したのだと思うのですが、あなたの言葉の真意が伝わる前に世間は蓋をしてし まいました。 あなたの本当にいいたかったことに耳を傾けたい。そうして、虐待について考えて くれるひとみんなに、あなたの真意を伝えたいと思うのです》 おおよそ、こういった内容である なぜ虐待してしまうのか、なぜ自分で分かっていながら虐待を止められないのか、 虐待されて育った子どもはどのようにすれば救えるのか、社会はこうした親たちのた めに何ができるのか、虐待を防ぐ方法はないのか、虐待に気づいたとき社会は何をす じればよいのか : 『ありさの虐待日記』を軸に考えてみた。 ふっしよく ふた
しし子〃のひとりではないのか。だから、会社に勤める 亜里沙さんも、そうした″、、 あかし こと、経済的に独立することが「自分の価値ーの証だった。でも、それが実現できな 、会社が認めてくれない、と分かったとき、強い怒りを抱いたのではないか。彼女 にとって、″いい子〃であり続けることが、自己の存在証明なのだとしたら : 孤独な人生 インターネットのホ 1 ムペ 1 ジでこ、つい、つ O を出すしかなかったところに、彼 理女の悲劇はあるのではないか。佐藤心理士はそう推測する。 「だって、だれかと面と向かって相談して、温かく受け入れられた経験があったら、 臨 絶対、ひとはもう一度そういう相談方法を選びます。会って話すほうが、ダイレクト 六なんです。心の傷はひととの間で起こっていることがらなのだから、ひととの間で癒 第 えていくんですね。でも、亜里沙さんには、そういう体験がないんだと思いますー
虐待の問題は、あらゆる歪みが集中的に子どもに向かっていると言っても過言では ないくらい、根が深く、考えれば考えるほど無力感に囚われそうになる。だがそれで も「人生にイエスと一一一口う」気持ちだけは失いたくないと思う。 「どんな人生にも意味がある」とフランクルは書きつける。そのとき、この偉大な哲 学者の脳裏にどれほどたくさんの死者が過っていったか、そのことに思いを馳せると き、普通に生活して生きていくことができる我々が挫けることなど許されないと奮い 立たせられる。 凸いかいかさん て え 虐待してしまう親たちは、どうして自分を止められないのだろうか それが、取材を通して常に抱いていた疑問である。 AJ 自分をほんとうに愛せないのではないか。というのが亜里沙さんの日記を何度も読 あ んだ後の感想だ。それが彼女のトラブルの大元ではないか、と。自分を愛する力は、 どうしたら取り戻せるのか。本文でも何度か触れたいかいかさんが、あるとき、こう よぎ
ここまで取材してきて、子どもへの虐待の原因のひとつは、親が子どもの育て方に 神経質になり過ぎていることではないか、と思えてきた。そこで、一冊の本を紹介し ようと思う。『赤ちゃんのいる暮らし』『幼い子のいる暮らし』 ( 筑摩書房 ) で、若葉マ 1 クの親の不安を和らげてくれた小児科医毛利子来さんの『子育ての迷い解決法川 の知恵』 ( 集英社新書 ) である。 この本には、一般的な育児書のような子育てのノウハウはない。むしろ「子育てを どう考えるか」について多くの紙数が費やされている。そして、育児に伴うさまざま な困難について、具体的にどう考え、どう対処したらいいのか記してある。 この本の要点は、自分の感覚を信じ、子どもの状態を親のカンで判断しようという 主張にある。子どもから「元気か、機嫌はよいか」を感じ取ることが大切であり、自 医分の《母親としての直観》をもっと信じよう、ということだ。 胼赤ちゃんは言葉で訴えることができない。だから全身で不快を訴える。泣き、手足 や体を動かし、顔色で訴える。おかしなところはないか、赤ちゃんをよく注意して見 八て、全体の様子に問題がなさそうなら《少なくとも慌てる必要はない》。毛利医師はそ 第 う書いて、安心させてくれる。 この本では病気については触れていない。それでなくても子育てが不安でならない
ている子どもをど、つやって救ったらいいのか、とい、つことを手さぐりしているよ、つな 段階で、まだ、その後のことにまで手が回らない、というのが正直なところですね」 さて、『ありさの虐待日記』についてである。芝野教授は次のような感想を抱いたと 所 相し、つ 児「だれが作ったか知らないけれど、上手ですね。上手というか、状況を非常によく分 戸かっているんですよ。虐待する状況をよく分析して、しかもおもしろおかしく、パロ 神 ディ 1 風に書いていますよね。ただ、非常に悪質ですよ。いかにもありそうですから 五ね。ここに書かれている状況は、孤立した環境のなかで育児に疲れて、たとえば子ど らもかいうことを聞かなかったことに対して、自分はこうした、と書いている。そこは 日なかなかなものだと思います。よくできている 四 作者も犯罪的で、非常に挑発的ですよね。上手に社会現象を取り上げて、ある程度 〇状況を把握したうえで、おもしろおかしくこれを作り上げたという感じですよね。私 は、作者は男性のような気がしますね。 ( 神戸市保健局児童家庭課に ) 電話をかけてき 一一たひとは女性ですが、『育児に疲れてつい』なんて、あれほどのことを書いたひとはい 第 わないと思いますね」 実際にそうであるかもしれない。しかし、たとえそうであっても、社会的事件にま
解できないんですよ」 つぶ 大田医師はポツリと呟いた。 「僕は小児科医ですから、いままでたくさんの子どもに会ってきました。でも、やっ ばり自分の子が一番かわいい。だから、どんな理由があろうと、自分の子に手をかけ るというのは信じられない。間違っていると思います。それがないと、子どもを治療 する自分の立場が分からなくなります。どうしたらいいのか、自信がなくなってしま いま、丁から ふたりの子どもがいる親としての目からみれば、虐待という行為は納得できない だが、それでも、虐待してしまう親への援助はしていかなければならない、と大田医 師は言う。それは、虐待してしまう親が苦しんでいると思うからだ。だが『ありさの 虐待日記』は《虐待は悪くない》と主張した。 「だから、『ありさの虐待日記』は、一般のひとに違和感を抱かせたのでしようね」 大田医師は「違和感」という抑えた表現を使ったが、「親なのに自分の子がかわいく ないのかーという批判があるのは当然だと思う。それが、一般的な親子の感情だろう。 しかし、亜里沙さんはそうした「常識」に真っ向から異議を唱えようとしたのだと思 う。それが、自分の気持ちに正直であろうとする亜里沙さんの姿勢なのだし、そのよ