なんという瞳だ。 くつきりと黒く宇宙のすべてを映している。 その瞳に自分の今の姿を映されているのだと知った瞬間、カナンは自分がひどく恥じ入って しまっていることに気づかされた。 ( 見られたくない。 このような姿など ) 人間の女が自分のこの姿を見て「化け物ーと呼んでいたことを、今さらのように思い出す。 あのときはなんでもなかった。 野獣化したときの自分の姿を恥ずかしいと感じたことなど、今まで一度もなかった。 なのに今は、死にそうだ。 彼のあの黒い目にこの体を見られていると思うだけで。 な・せここに来てしまったのだろう。 みにく わざわざこの醜い異形の姿を晒してまで。 「ん ? どうした。こっち来いよ。牛丼食ってたんだけど食うか ? って人間の食べ物なんか ンまずくて入らねえって ? 」 リュウトは笑いながらカナンを手招く。 下水路の端にうまい具合にダンポールの切れ端や赤いレンガを並べて、居心地のいい空間を 創り出している。 さら
142 とうとっ 駆け出そうとしたリュウトの目の前に、唐突にそれが姿を現した。 「うつ・ 思わず息をのむ。 地上に、いや、この地球上にはあり得ない大いなる者の姿がそこにあった。 異世界の存在。 あらゆる恐怖を呼び覚ますために存在する神話の怪物だ。 くぎづ リュウトの視線は自分の前で立ち止まったその異質なる者に釘付けになった。 ( こ、 こいつは : ウ ) 体中をおおっている黒褐色の体毛はごわごわと硬そうに見えたが、長さは二十センチ以上あ って、全体の印象は怪物というよりは一匹の巨大な野獣に近かった。 おおかみくま 狼と熊とゴリラを掛け合わせてみれば、こんな異形の怪物になるのだろうか。 しかしそこには狼の美しさも熊の明るさも存在せず、ゴリラの愛らしさの片鱗すらありはし どこまでも醜く恐ろしげなその姿は、悪意ある遺伝子の陰謀に巻き込まれた事実をとくとく と物語っているかのようである。 身長はほとんど三メートル近くあり、その黒褐色の被毛におおわれた頭は天井のコンクリー トに接触してしまっている。 いんぼう へんりん
次の日の真昼も、また次の日の真昼も、カナンは施工途中の下水路を訪れた。 太陽の光を浴びて、あの醜い怪物の姿になって。 リュウトは夜のバイトのためにたいてい昼間は眠っていたが、カナンを追い返したりするこ ンとはけっしてなかった。 デカナンが来ると少しばかり話をして、それからカナンの横でまた寝入った。 工 しばらくするとカナンもリュウトのそばで眠るようになり、リュウトがカナンの毛むくじゃ ひざ らな膝にもたれて眠るようなことも珍しくなくなった。 この初めての訪問日はそんなふうにして終わっていった。 カナンは陽が落ちるまで怪物の姿のままリュウトのそばで過ごし、途中から眠ってしまった リュウトの顔を見おろして時の音を聴いていた。 カナンが自分が当初の目的を忘れ去っていたことに気づくのは、その日、闇の城に戻ってか ら、ずいぶん経った後だった。 めずら
216 打ち消しても打ち消してもなお消えることのないもの。 名を、情熱という。 なが リュウトはゆっくりと相手の体を離すと、その青い瞳をしみじみと眺めて言った。 「俺も混乱してるんだ。なにしろそこまで気にした相手が男で、しかも敵の大将ときたんじゃ な」 ( ついでに言えば、俺を食っちまうかもしれねえ食人種だ ) 不思議なことに、怪物の姿でいるときよりもこうして人の姿に戻っている彼を見ているほう ざんこく が、その残酷な事実がよりはっきりと迫ってくるのだった。 イヴ 闇の剣精。 その謎めいた存在にふさわしい稀有な造形の男が口を開く。 「混乱している ? そうは見えない。おまえは冷静そうに見える」 「そうか ? まあ、顔に出さねえでいるのはクセになっちまってるかもしれねえな。仲間たち 相手にはそれが必要は時もあったしな」 リュウトの視線がそこでようやく自分たちの周囲に向けられる。 しんと静まりかえって動かなくなってしまっている闇の空間。 リュウトは浅くため息をついて小さな声でつぶやいた。 「どうすんだよ、あれ」
178 そういうときはもちろん犬や猫たちも一緒だ。 ときにはナスカもこの輪の中に加わることがある。 ナスカは主人が仲間だと認めたものをすぐに自分の仲間だと認めた。 彼女はそもそも大きな生き物が大好きだ。 しかし実はカナンは飛ぶものが大の苦手だった。 ( 闇の城の者たちには知られていないが、 実際のところ、彼が青い翅を仕舞ったままあまり使わないのもそのためと思われる ) 人の姿をしているときはまだそれほどでもないのだが、こうして野獣の本性を外側に表した 姿をしているときは、どういうわけか羽音を耳にしただけでも震えが来るのだ。 初めて彼女がこの下水路に舞い降りてきたとき、カナンはその巨体を四本の脚で支え、自分 が出せる最高速度で逃げ出したのだった。 しかし残念ながら未完の下水路は途中で切れ、怪物は追いつめられた。 ナスカはしかたなく飛ぶのをやめ、ガタガタ震える怪物にびよんびよんと足を使って近づ き、愛の表現をした。 誇り高いナスカにしては度を過ごした特上のサービスである。 カナンはこうして唯一の翼を持っ友を得た。 ナスカはカナンの肩に留まり、片足で立って寝た。 パラダイス 怪物も動物も人間も、この楽園ではたいして差がなかった。
遠くで地下鉄の走る音がする。 リュウトが目を覚ましたとき、そこにはもう怪物の姿はなかった。 ンすっかり眠り込んでしまっていたらしい 昔スザクにもらった腕時計を見たら、もう六時間以上も過ぎた後だった。 立ち上がって名前を呼ぼうとしたが、そういえば名前は知らないのだと思い出した。 光の聖剣はまだそこにあって、弱々しくだが淡い光を放っている。 覚悟を決めるためではなく、近づきすぎて見えなくなったあの青く透きとおった瞳をまぶた の裏に思い描くために。 暮れてゆく音 失われてゆく真昼 そして代わりにあなたが僕の胸の中に滑り込む しなやかな翼を持って 夜明けに飛んでくる白い鳥のように
「よ、スザク」 校門の前に座り込んでいる親友の姿を見つけて、下校途中だったスザクが驚いたように立ち 止まった。 「リュウト ? どうしたんだ、こんな所で。俺を待っていたのか ? こ 「まあな。おまえ目立つからすぐわかるぜ。ちょっと付き合えよ。帰り道でいいからさ」 「なんだ ? ハビロンの話か ? こ 「んにや。ちょープライベートなおハナシ」 リュウトはそう言ってちょんと小首を傾げ、スザクを下から斜め四五度で見上げてくる。 ンそれはスザクの一番弱い視線の角度だった。リ、ウトにこの角度で見上げられて頼み事など デされると、まず断れたためしがない。 工 むろんリュウトのほうにそういう自覚はないのだろうが、無自覚なだけに毎度罪作りな幼な じみではあった。 X X X X おさな
146 「今すぐその子を放せ ! でなきや斬るぜ : ・ ! 」 怪物の目がリュウトを見下ろす。 リュウトはハッとした。 リアル・アイスプルー。 真っ青に透きとおった宝石のような瞳だ。 リュウトの姿を映している。 ( なんだ : ? ) 瞬時に、リュウトの思考を矢のように貫いていったものがある。 ( この瞳・ : ) 何かがリュウトを押しとどめた。 物も一一一一口えず、ただリュウトをまっすぐに見つめ返してくるばかりの野獣の瞳が、何か、無視 してはならないものを自分に物語っている気がしたのだ。 光の聖剣を構えたまま、リュウトの目がスッと細くなる。 何か見逃していることがある。 リュウトは四方に視線を走らせ、怪物以外の周囲の状況をすばやく分析した。 子供の母親は正気を保てず、悲鳴をあげ続けている。 だが、その後ろに立ち尽くしているあの男は何だ ? つらぬ
140 心の周りの肉をこそげ落とされてゆくような。 不安。 足もとが揺らぐ。 自分が自分でなくなるような。 じっと子供の姿を凝視する。 カナンの青い瞳はその銀色の翼を持った小さな物体を、そこだけスポットライトが当たって いるかのごとく、くつきりと映し出した。 子供が手に持って高くかざしているもの。ただのオモチャだ。 三角翼を備えた単純なジェット戦闘機の模型である。 そんなものがなぜこれほど自分を落ち着かなくさせるのか、さつばり見当がっかない。 飢えはいっそうひどくなり、獲物を目の前にして心拍数は上昇している。 早く食物を摂取しなければ取り返しのつかないことになる。 しかしカナンの足は強固な意思を持ったかのように、その場から動こうとしなかった。 子供がふたたび目の前を横切ってゆく。
138 ナスカ 近くに鷹の姿は見当たらなかった。 一般的に鷹の活動が活発になるのは、早朝あるいは夕刻である。 昼の時間は彼女もどこか人目につかない場所に身を潜め、翼を休めていることが多い。 ただしそれも、リュウトの居場所をたしかめたのちである。 ナスカが現在ここ西新宿ビルの地下駐車場へ入ってゆこうとしているリュウトを、どこか 上空から視認しているのは間違いなかった。 駐車場の入り口はビルの入り口とは別の場所にあり、さほど警備は厳しくないようだ。 ちょっとしたやんちや気分をかき立てられたリュウトは、人間のために用意された小さな入 り口を無視することにした。 直接、急傾斜になった車道の端を伝って地下駐車場へ潜り込むことにしたのである。 その子供はせいぜい三歳になるかならないかの小さな男の子だった。