せき 唇がこわ張って、声にならなかった。咳を一つ、無理やり押しだす。それから再び、ロを開 やかた 「俺が、知りたいことです。大海人さまは葛城さまの館に泊まって、今日、仕事が引けたら忍 海にいらっしやると俺たちに伝言なさっていました。大海人さまはまちがいなくそちらに、泊 まるおつもりだったんです。葛城さまの館から、宮へ向かうはずだったんだ」 胃の腑から込み上げるものがあって、声がまた、とぎれる。 「まちがいなく 「大海人さまは、見た目や服装はかなりだらしないところがあるし、いつも半分夢を見ている みたいにばうっとしてて、ずばらでのんびりしていらっしやるけれど。誰かと交わした約束を 自分勝手に反古にするようなことは、なさいません。だから、昨日は何かよほどのことがあっ 章たんです。どうしても優先しなくてはならないことがあって、葛城さまとの約束を破るしかな 露くなった」 ~ 「そうかも、知れないな」 想そう言った葛城の細いまなざしのうちにどこか皮肉めいた笑みが浮かんでいるのに、品治は 気づかなかった。 明 「葛城さま。橋のところで葛城さまは、俺に『お前は話を聞いているのだろうな』とおっしゃ 芻いましたが、それはどんな「話』だったのでしようか ? 王子 : : : 大海人さまと何か決められ
「品治、これはただの切り傷だ」 手を伸ばして、大海人は品治の頬に触れる。 「呪いなんてものはないと、最初に私に教えてくれたのはお前だったろう ? 柔らかな、声に。 吐く息とともに肩の力を抜いて、品治は子首からの手紙を読みあげた。 「会いに行ってやればいい。 三輪ならば、さして遠くはないんだ」 読みおえた彼に、大海人はばつりと命する。 あおげ 「王子が元気になって、青毛を乗り回せるようになったら、考えます」 うなず はこ ひも ふところ 品治は頷いて、手紙をとじた。函に戻して紐をかけ、懐へ入れる。と。 たまじゃり 章 真稚が動く気配を感した。玉砂利を踏む音が、近づいてくるのも。 の 朝何だろ、フと思い、立ち上がりかけたところに。 「王子。葛城さまが見舞いにおいでです」 虹真稚の低い声が知らせ、ほとんど同時に扉が開かれた 香 「兄上がっ卩」 明 大海人は弾かれたみたいに身を起こしかけ。 ほお
透明な水に手を浸し、ロをすすぐ。白い木綿の装束に身を包んだ子首は、祭壇に深く拝礼を じじよ して、脇に待っ侍女に向き直った。 おわり まっと 「尾張さま、つつがなくお役目を全うされますように」 彼女は木綿を結んだ榊の小枝を、彼に差しだす。 「ありがとう、日野」 うなず 章子首は頷いて、それを両手に受け取った。 露 「これが終わったら、ちょっと好きにしてもいいんだよね」 朝 「ええ。この儀式が終わりましたら、しばらくの間私どもは、波紋がどう広がるかを静観する かみつみや ことになります。上宮に住まうことはできませんが、尾張さまは自由になさっててください 香 「よかった。私ね、捜し物を手伝う約束をしてるんだ。だめになったら、どうしようって思っ 明 ひののいらつめ 子首の、めったに見ることのなくなった子供らしい笑顔に、日野娘は顔をほころばせる。 空気が、山の端に落ちょうとする太陽の色を映して赤に染まっていた。 儀式は、日没を待って始まる。 ひの はもん こびと
うなず 甕穂は穏やかな笑みを見せて、頷く 「私のことよりも、葛城さま。大海人さまのお具合はいかがです ? なんでも、落馬なさった ひょうし 拍子に川に転落なさったとか。まだ宮へ戻っておられないそうですが、ひどいけがを負われた のでしようか」 まゆ 葛城は初めて耳にした事柄に、眉をひそめた。 いっ川に転落したんだ。 「ん、ああ : : : まあ。足を折ったので、時間がかかるという話だ」 「それは、大事になさらないといけませんね。もしゃ落馬なさったときは、大海人さまはどな たかを前に乗せて走っておられたのではありませんか ? 当日の夕方に、大海人さまが子供を あおげ 青毛に乗せておられたと言う者が、おりましてね」 「へえ・ : : ・」 あいづち 朝気のない相槌を打ちかけた葛城は、はっと、目を見開く。 「なに ? 」 「大海人さまは乗馬が苦手でおいでなので、見まちがいだろうと言ったのですが、あの方の青 香 毛にまちがいないと断言されまして。見舞い客から大海人さまが落馬でけがを負われたという 明 のを聞いたときには、なるほどなと納得したと申しますか 「なんだと ? 」
お前が 後の言葉は、音にはならなかった。 「尾張に戻ったと、大海人は言っていたが」 「一一日前に、再上京いたしました」 」、つべ 頭を垂れたまま、弓月は答える。 「立つがいい、大海連弓月。雨の中で膝をついている必要はない」 葛城はつつけんどんに命じ、彼を立ち上がらせた。 「私も大海人の口から、お前の名を何度か聞かされた」 弓月は軽く膝のあたりをはらいつつ、にこりとする。 「きっとろくなものじゃないでしようね。何しろ、俺があいっから聞かされた言葉で一番多か 章ったのは、『お前は嫌いだ』でしたから」 朝そのほほ笑みの柔らかさに、葛城は一瞬目を細くし、視線を品治へと移した。 とこだ こせのおみとこだ 「多臣品治。大海人ならばあの朝は、徳太 : : : 巨勢臣徳太に尋ねごとをしていたことが、わか っている」 周囲を見回して誰も注意を払っていないのを確認してから、彼は小さな声で告げる。品治は 明 、ん、とい、フ顔になった。 「葛城さま : : : それは葛城さまが ?
「本当なの ? それは」 「信しるのはあなたで、信しないのもあなただ」 不審さをあらわにした子首の目が、困惑げに揺らぐ。 「あなたが斑鳩宮に 、いたのはなぜ ? 」 答えを望む声に、大海人は今度は返事をしなかった。 かんじん 「大海人さま。肝心な答えをまだ、私はもらってない。あなたは何の用事があって、あの夜斑 鳩宮に入っていたの」 いらだ こわね 苛立ちを含んだ声音に、彼はまぶたを開いて声の主を見つめ、そして口を切る。 やかた 「欲しいものが、ありました。それがあなたの父上の館にあると知って、私は斑鳩宮へ入った のです」 章「それは、何 ? いったい何を : おおきみ 「王 ! 何をしておいでですっリ」 みわのきみふみや すさまじい音で扉が開き、三輪君文屋が駆け込んできた。 虹「誰がここに入ることを許しました。お父上を死に追いやった者と一一人きりになるなど、何を 香 日 考えておられるのです ! 」 明 「文屋 : : : 」 剣幕にあっけにとられ、子首は目を見開く。
その骨張った、震える手が。近づいてくるのを見た。 冷たい、濡れた感触を喉に知る。 「一緒に : : : 逝こう。父上のおられる、処へ。御仏のそばへ。この醜い肉体を捨てて」 父の目は、赤かった。 うめ その背中越しに、梁にぶらさがる縄を、縄の先に揺れる人の姿を、見た。微かに響く呻き声 の、その向こうに。浄土の絵は変わらすにあり、御仏のまなざしは柔らかなままに注がれてい る。 母は、涙を流してほほ笑みながら、一気に喉を突いた。 視界が真っ赤になった。 つぶや だんまつま おお あえ 父の低い呟きと、断末魔の声とが耳に覆いかぶさって、圧迫されているところに響く喘ぎ声 章が、他人のものか自分のものかもわからなくなって、こめかみに脈が痛いくらいに響き、やが 露て何も彼もが遠くなって。 どうして、と。赤一色に染まる中で思った。 どうして、優しかった日々がなくなってしまったのか。どうして王族の誰も、助けてくれな 香いのか。止めてくれないのか。 明 どうして、父は戦うことを放棄して自ら死へと向かうのか。皆を、そこへ導くのか。自分が 死ななくてはならないのは、なぜか のど なわ ところ みにく
開けた視界に、最初品治は真稚の背中を見た。張り詰めた気が、場に満ちている。手綱を引 章いた彼は、同じ場所に高向臣国押が刀を手にしている姿を、真稚の後ろに女性が子供を抱えて 露しやがみ込んでいるのに気づいた。馬が、矢を受けて倒れているのにも。 ロっ : 想 「真稚どのつ ! 」 未日あしげ 日 葦毛より飛び下り、彼は真稚の傍に駆けよった。 明 「品治どの、王子は。ご無事か ふり返らずに、真稚が尋ねる。自身の問いを飲み込み、品治ははい、と答えた。 国押は刀を掴み直し、大上段より振り下ろした。 「王子は、生きておられる。亡くなられるわけが、ない」 かんべき 真稚の刀が、完璧にその動きを止める。真正面から、彼は国押を見据えた。 みつるぎ かつらぎ 「御剣を、お返し下さい。それを、葛城さまにお渡ししなくてはならない。王子の、唯一の望 みだ」 真稚は刀の切っ先を、国押につきつける。 つか たづな
「王 ! お待ちくださいっ ! 」 「どうなさいました、儀式はっワ 遠くに、幾つもの声が聞こえた。 「追え ! 」 どせい 鋭い怒声は、文屋のものか。 えんみ さくらん 「急げ ! 今すぐ王を、追いかけろ。厭魅の衝撃で、錯乱なさっている。どこへ行かれるか、 何をなさるかわからん。門衛の者も連れて、王を連れ戻せ」 「し、しかし。ここは」 「こちらは私一人で充分だ。王を頼む。その場は多少手荒になっても、御身の確保を第一にせ てはず みなぶち よ。一人は報告に、他の者は最初の手筈どおりに、王を南淵におつれするのだ」 章子首に何かが起きたのだと、どこかで思っている自分を大海人は知るが 朝苦痛が、思考を分断した。痛みに、意識のはとんどを支配されている。 なわ 腕の自由を奪っていた縄は、おかげで断ち切られていたが。関節を入れることができたとし 虹ても、歩くのは難しいかもしれない。 香 「大海人王子」 みわのきみふ - みや 明 いつ、そばに来ていたのか。かろうして持ち上げた目に、三輪君文屋の顔が間近にあるのが 見えた。冷ややかな笑みが、その顔に浮かんでいる。
からだ る。熱はまだ残っているはずなのに、身体はひどく冷たく感しられた。 高い天井と格子、その向こうに扉。相変わらず同じ場所に転がされているようだった。 「水を飲み過ぎたせいか ? やつばり」 よりにもよって、この夢を、もう一度見ることになるとは思っていなかった。 ・じんもん ふみや みなり 尋問から解放されたのがいっか、覚えていない。周囲を見回すと、文屋の小柄な姿も三成の たらい がっしりとした巨体も、散々水まみれにしてくれたあげく悪夢まで呼び出してくれた盥も、な くなっていた。 右の手が、ずきずきと脈打つのを知る。これが、目を覚まさせてくれたのだろうか 後ろ手で左手と一つにされているので目で確認はできないが、手当てはされているようだっ 左手の指に、木綿の感触があたっている。 かみつみや かつらぎ 章上宮に目を向けた理由を問われ、次いで葛城がどこまで知っているかを訊かれた、その後 露で。与えられた、針だ 朝つめ ~ 爪に差し込まれる瞬間の感触を思いだし、大海人は唇を噛んだ。人差し指と、、中指までは覚 想えている。多分、薬指のときに気を失ったのだろう。 香しばらく使い物にならないかもしれない。 明 ゆっくりと、彼はため息をついた。 だいしよう それでも、これで向こうが信じてくれれば安い代償だ。儀式とやらまでは死なせないという