くう じじよ 侍女の悲鳴が、空に散った。 さいだん 「この方と、その祭壇にある御剣とを。交換して下さい。決して不当な取り引きではないはす です」 おおあまこびとくび 大海人は子首の頸に腕を回して抱え込み、刀子をその真横につきつける。透明な瞳が、文屋 のそばに立ちすくむ一一人の侍女に向けられ、彼は彼女たちに話しかけた。 うまや あおげ 「お一人は門衛に、門を開くようおっしやってください。もう一方は、厩から私の青毛を出し て、門の外へ運ぶよう手配をお願いします。ああ、青毛にくくり付けてあった荷物の方も、戻 しておいて下さい。あれは預かりものなので、本人に返さないといけないんです」 恐怖と不安と心配とが入り交じった美しい瞳が、大海人の腕の中にいる子首と互いとを見、 文屋へと移る。 おおあまのみこ 「大海人王子っ : ・ : ・」 のど 朝文屋は喉の奧から、吐き捨てるみたいな声を発した。大海人は何の感情も見せずに、彼に向 き直る。 くすのき 虹「文屋どのは、御剣を正門まで運んで下さい。楠の箱は結構です。できれば持ち帰りたいので すが、今は荷物は少しでも少ない方がよろしいので」 明 : : : うぬ」 かせ 「時間稼ぎはしないように。のんびり待つのは、好きしゃありません」 とうす
透明な水に手を浸し、ロをすすぐ。白い木綿の装束に身を包んだ子首は、祭壇に深く拝礼を じじよ して、脇に待っ侍女に向き直った。 おわり まっと 「尾張さま、つつがなくお役目を全うされますように」 彼女は木綿を結んだ榊の小枝を、彼に差しだす。 「ありがとう、日野」 うなず 章子首は頷いて、それを両手に受け取った。 露 「これが終わったら、ちょっと好きにしてもいいんだよね」 朝 「ええ。この儀式が終わりましたら、しばらくの間私どもは、波紋がどう広がるかを静観する かみつみや ことになります。上宮に住まうことはできませんが、尾張さまは自由になさっててください 香 「よかった。私ね、捜し物を手伝う約束をしてるんだ。だめになったら、どうしようって思っ 明 ひののいらつめ 子首の、めったに見ることのなくなった子供らしい笑顔に、日野娘は顔をほころばせる。 空気が、山の端に落ちょうとする太陽の色を映して赤に染まっていた。 儀式は、日没を待って始まる。 ひの はもん こびと
言われた人。 確かに、そ、 2 言われてみれば三輪君甕穂とどことなく面差しに似たところもあった。火傷の 引きつれがなければ、一目で感したかもしれない。 きざはし 「今は、そちらにおられる尾張王に仕えております。私の後ろにいる侍女たちも、階の下に立 えじ っている衛士たちも同様です。みな、上宮家に仕えし者に」 ひざ 文屋は扉を開き、侍女を促して中へ入ってきた。大海人のすぐそばに、彼は膝をつく。侍女 たらい ゅふすえき たちはその脇に水を張った盥を、木綿や須恵器を乗せた盆をおいた。 「ほお : : : 」 のぞ の 文屋は大海人を真上から覗き込み、息を呑む。 明らかに、感嘆の表情が浮かんでいた。驚きと、感動。見開いた目の中に、飲み込んだ声の 章中に、それらが存在している。 露「なるほど。すばらしく美しい、こはく色の瞳をしておいでだ。大海人王子」 ~ 彼は手を伸ばし、大海人の目の下に触れた。 想「話にはうかがっておりましたが、よもやこれほど似た色だとは : っや 香撫でさすり、、フっとりと呟く。 わおおきみ うまやど 明 「これでは我が王が、あなたを厩戸さまと思い込まれたのも無理はない。切れ長の瞳の形とい 、薄い透明な色といし ・ : 我が王には受け継がれることのなかった厩戸さまの瞳が、あなた みわのきみみかほ おもざ じじよ
154 文屋に、みんなに。謝らないと : . 子首は身を起こして、寝台から立ち上がった。少しふらっく。鈍く痛む腹部をかばうよう に、彼はそろそろと歩きだした。 遠くにざわめきが聞こえる。何か、あったのか。 かいろうらんかん 子首はおばっかない足取りで、外へと向かった。部屋を出て、回廊の欄干にすがるみたいに じじよ 手を伸ばす。侍女一一人が何かを抱えてこちらに来るのが目に入った。 きざはし 目を凝らして、手の中のものを見て。子首は痛みを忘れて階を駆け下りた。 「どうしたの、それつ」 おわり 「尾張さま、気がっかれましたのですね」 ひざ くさなぎのつるぎうやうや 草薙剣を恭しく手にした侍女は、その場に膝をついた おおあまのみこ 「今し方、文屋さまたちが戻られました。大海人王子を、捕らえておいでです」 「本当っ卩 みつるぎ 「まい。 こうして御剣も、無事取り戻してこられました」 ぎようし 子首は捧げるように示された剣を、凝視した。泥と雨に汚れて、それでも闇の中で不思議と 美しく力強く息づいている。
142 とうす のどもと 大海人は身動ぎしようとする子首の喉元に、刀子の切っ先を押しつけた。 おわりのおおきみ 「尾張王も、じたばたしないでください。私はあなたを傷つけることを、ためらわない」 「尾張さまっ ! 」 おおきみ 「やめろ ! 王に触れるな ! じじよ 侍女が、文屋が叫ぶ。大海人の刀子が、子首の動きがとまった。 「お : : : 尾張さまを、放してください。代わりに、私が」 かつらぎやかた 侍女の一人がすがるようなまなざしを大海人に向け、手を差し伸ばす。年若い、葛城の館で 目にした方の女性だ。 「それはできない。この館の中で誰よりも大切な命は、上宮の血を引いたこの方のものだ。あ なたでは、取り引きにならない」 大海人はあっさりと拒絶した。 ゃいば 「尾張王ご自身も、自分の代わりに女性を刃にさらしたいとは、思わないでしよう」 にんびにん 「たった十歳の方を人質にして、刃を立てて。恥ずかしくはないのですか、人非人 ! 」 「自覚してます。ですが、恥すかしいとは思いません」 困ったように、笑みを見せる。 みつるぎ 「取り引きは館の外で。御剣と、馬を。それだけを返していただければ、私は尾張王をあなた がたにこのままお返し致します」 みじろ かみつみや
左腕に力を込め、彼は事務的に文屋に告げた。文屋は大海人を睨みすえ、侍女に一言う通りに するよう命ずる。一一人は緊張に顔をこわ張らせ、小走りに建物を後にした。 「先に、門へ向かって下さい。もう一度後ろから刺されるのは、できれば避けたい」 くさなぎのつるぎ 大海人は少し身をすらし、草薙剣を両手に抱えた文屋に背中を向けないようにして、場所を あけた。 かすかに首を左右に振る子首を、苦しげに見つめながら文屋は奧殿を出る。大海人はそれか ら五歩ほど後ろを歩いた。 建物を出たところで左に曲がろうとする文屋を、彼はとめる。 「正門へと、言ったはすです。そっちしゃない 文屋は足を止め、驚いたように彼をふりかえった。 章「まっすぐに正門へ。尾張王の命は私の手の中にあります」 朝無言で、文屋はきびすを返した。 やかた 正門は館の南にあった。大海人が要求した通りに門は両側に開け放たれ、そこを出たところ 相 5 あおげ 虹に青毛が男に引き綱を持たれて立っている。 香 奧殿にいた二人の侍女と、門衛らしき者、それに五人の男が門の脇に立ち尽くしていた。 「王 ! 」 「文屋どのつ : にら
そんなものを、彼は遠い記憶のすみから引き出そうとしていた。 みつるぎ やかた 扉の外の衛士は、何人か。御剣はこの館の内にあるのか。 けれど、重い幕に覆われるような感覚が、思考を断ち切ろうとした。眠い。 すいま あきら からだ 大海人はそれ以上考えることを諦めて、身体が望むままにまぶたを閉した。迫る睡魔に身を ゆだ 委ね、意識を自由にしてやる。休息を、身体は欲していた。 「薬が、効いてきましたか ? 」 文屋の声が、耳元に響く。 「今飲んでいただいたものには、麻痺を解く作用がありますので、次に目覚めた時には言葉は ずっと自由になっているはずです。お身体の方も。あなたには色々とお尋ねしなくてはならな いことがあるのに、まともに会話ができないとなると何かと不便でございますからね」 それは、ありがたい。 大海人はもうろうと、った。 子首の声がしたような、気がした。ー何度かの、やりとり。けれどもう、形を捉えることはで きなかった。 じじよ 文屋と一一人の侍女が立ち上がるのを、気配のうちに感じる。 よい夢を、ご覧下さい おお まひ
「ああ : : : よかった : おそ つかさや 畏れるようにため息を漏らし、そっと、把と鞘とに手を触れた 「どうしようって、田 5 ってた。みんなに、どう謝ればいいんだろうって。全部、台無しにしち やったから、私が」 からだ 「大丈夫ですわ。それよりお身体の方がよろしければ、ぜひお出迎えにいらしてください。文 屋さまもみなも、尾張さまのことを心配しています」 「うん。わかった、行って : : : 」 手を離して言いさした、瞳がもう一人の抱えているものに止まる。 布 ? 「それは ? 何 . 章「え ? これですか ? これも、大海人王子が持ち出そうとしたものです。文屋さまは処分す 朝るようおっしやったんですが、よい仕立ての服なのでもったいなくて、いただいてしまいまし た。ほどいて仕立てし直せば、いろいろと使えそうですし」 想 年かさの方の侍女は、たたんだ布を抱え直した。 くら 日「ああ、そフ言えば何か、鞍につけるようあの人は言っていたね」 きじ 子首は何気なく手を伸ばして、生地を手に取る。 「ふうん :
おおあま おしうみ すきまぶん 連子の窓は、風を通すほんのわすかな隙間分だけを押し上げてあった。忍海の地にある大海 ほんじ かつらぎのみこ 家の主殿に、茶の器を挟んで、品治は葛城王子と対座する位置に腰を下ろす。 やかた ひんきやく 本来ならば葛城王子をもてなさなくてはならない立場にある館の主人も、賓客と主人の身辺 じじよ を守るべき衛士も、世話にあたる侍女の一人もいなかった。彼ら一一人だけをこの広い主殿にお いて、だれ一人建物の中にもその周辺にも存在しない。 いらだ 不意に、その切れ長の鋭いまなざしの中に、苛立ちとは異なる何かが生まれる。 「いないのか、奴は。大海家には来なかったのか」 その何かが、品治に焦点を結んだ。怒りと、痛みが。 「は、はい。ですから」 「しゃあ、どこへ行った。あれほど約束していったのに、お前には何も、話してないのか。 『必す』と、私に答えておきながら : : : つ」 えりくびつか 葛城は腕を伸ばして品治の襟首を掴み、引き寄せる。 「あいつは今どこで、なにをしている ! 答えろっー 叩きつけるみたいに、彼は品治を怒鳴りつけた。 れんじ うつわはさ
うなず 侍女が恐怖に凍りつくのを、気のうちに感した。子首は瞳を揺らさずに、頷く 「父上から、容器と一緒にいただいた。ほんの一粒で人を永遠の眠りへと誘うもので、大王家 あかし に連なる証だって」 「・ : : ・そうか」 品治はもう一度容器に目を向けると、逆さに返した。子首が、日野娘が目を見張り息を呑 む。地面にこばれ落ちたそれを、品治は踏みつぶした。泥に混じって、白は一瞬のうちに消え る。 残りを確かめるように一一度底を叩き、蓋を閉しる。そして子首の手のひらに、銀の容器を戻 した。 「これはお前に返す、子首 「品治さん : : : そんな」 ぼうぜん きびす あしげ 朝呆然とかぶりを振る子首をおいて、品治は踵を返し葦毛を引き寄せる。 「私はっ 「尾張王は亡くなっている。お前が何と称しようと、その証になるものは何もない」 「何を、言ってるの。そんなこと」 「不満なら、お前が自分で考え、お前の納得できるように決めれよ ) : 、」 ーししお前自身の始末も、 お前に付き従う連中の始末も。俺が王子に頼まれたのは、御剣を取り戻すことだけだ。王子は