118 覚えている最後の記憶は、王子を尾張からおびき出すという言葉、それと、俺が主人を罠にか えさ ける餌となるという一一一一口葉でした」 がくぜん 葛城は愕然として、彼の前に平伏する品治を見下ろした。 さくらん 「俺は途中から錯乱を起こしてしまって、今もそのせいか監禁されていたときのことは断片的 にしか思い出せないでいるのですが、俺に証言の強要をくり返した山背大兄王の顔だけは、今 も忘れられません。狂気に至ろうとする憎悪が、あの方の目の中にはありました」 品治はそこで一度息をつき、唇をなめる。 えんさ みつるぎ 「俺が御剣の件を山背大兄王を御剣に結びつけたのは、御剣を盗んだ動機に憎悪や怨嗟も考え うら られると、聞いたときでした。宮では王子が、宝姫大王と大王家を恨んで御剣を盗んだという うわさ 噂が流れていて、王子が痛いくらい淡々と、自分以外にその動機に当てはまる人物が見当たら ないなんておっしやるのをうかがって。俺は、そうしゃない可能性を示したかったんだと思い ます。不意にあのときの山背大兄王の、すさましい念を思い出したんです。大王家への憎しみ と怨みなら、山背大兄王ももっていたと。俺はそれを王子に申し上げたんです」 「本当か : : : それは。山背大兄王がそんなことを : : : したと一一 = ロうのは」 かす 葛城の声は高く掠れ、わすかに震えていた。答える品治の声は、淡々と低い。 じよう あと 「俺の背中にはまだ、杖で打たれた痕が残っていますが。だから信して下さいとは、申し上げ とっぴょうし られません。これがどんなに突拍子もない話で信しがたいことかくらいは、俺にもわかりま みこ おわり わな
ろうばい 「それは、俺にもわからない。斑鳩宮の突然の襲撃に狼狽して、山背大兄王も平常心ではなか ったんだろう。あいつの瞳の色は、厩戸王子と同しものらしいから、その辺か」 苦笑いが、浮かんだ。 「問題は、ここからだ。『周りの者も、あっけにとられてた』 : : : 大海人から、俺はそう聞い た。山背大兄王の周りに、上宮家の者がいたと」 「王子を。上宮家の何人もが、目にした」 品治は知らす、手を握り締める。 「中には尾張王もいたかもしれない。お前たちが話していた、三輪君文屋も」 「王子は、その時どうなさったんです ? 山背大兄王と、何を」 「詳しくは聞いていない。『生き延びたいなら戦え』なんて、あいつが一一一一口うなんて信しられな いようなことを、ロにしたらしいが。それ以上は何も。俺があいつに会った時間から見た限り いこまやま だと、あいつが連中を連れて生駒山へ入ってから戻ってきたとは、思えない」 口を、手のひらで覆い隠すように品治は押さえた。 「そこに居合わせた誰かが生き延びて、宮に上がった大海人を目にしたなら、あいつが斑鳩宮 にいた〃厩戸王子〃だとわかると思う」 「そんなことが、あったなんて」 ぞわりと、何かが背中を這い上ってくる。 おお みわのきみふみや
みつるぎ 「実はな。俺がこっちに来たのは、御剣を盗みだしたのが上宮家の場合、その標的が大海人自 身だったという可能性があるって伝えるためなんだ」 不意の言葉に、場の空気がびんと張り詰める。 「王子ご自身が、奴らの標的 ? それはいったいどういう : : : 」 品治の乾いた声が、問うた。 そがのおおおみけ 「どうしてそんな。彼らの第一の目的が大王家でも蘇我大臣家でもなく、宮に上って間もない 王子にあるなんて」 弓月は小さく一つ息をつき、再び口を開く。 いかるがのみや 「お前も真稚も、知らないことがある。あいつは、斑鳩宮で山背大兄王に遭ってるんだ」 あぜん 章四つの目が、唖然と見開かれた。 露「王子が : : : 山背大兄王に ? 」 朝つぶ のど ~ 潰れたみたいな声が、真稚の喉をつく。品治は声さえもでなかった。 想「俺も一度聞いたきりだったんで、完全に失念していた。お前を探しにいったあの夜、あいっ うまやどのみこ に出くわした山背大兄王は、あいつを厩戸王子と思い込んで助けを求めてきたらしい 明 「厩戸王子になんて : : : なんで」 かし 品治のつぶやきに、弓月は自信なさそうに首を傾げる。 おおきみ あ
ゆず しろがね かわひもこす 子首の首筋に赤く、革紐が擦れた跡が残っていた。山背大兄王より譲り受けたのであろう銀 の小さな容器を、今はぶら下げていないようだ。新たな革紐は、襟の合わせ目には見えなかっ 「ここがどこか、ご存じですか ? 大海人さま」 たかゆか あおむ せき 咳の発作が治まるのを確認して、文屋は大海人を高床の倉に仰向けに横にならせた。かすか くちもと ふところ いぶか に、訝しむようなまなざしを向けた大海人の手首を一兀のように縛り直し、ロ許を、懐から出し た布でそっとぬぐ、フ。 あや おおきみ 「我が王と同じに、何の罪もなく水に沈められた漢どの : : : 山背大兄さまの従子でありあなた あにぎみ やしな の義兄君である方が、養い育てられていた土地です。元の館はとうに草むらに沈んで、この建 物は当時の様子のままに、新たに建てたものですが」 「漢・・ : : の」 「さよう。大海人さまと同し母をもち上宮家に連なる血を受け継がれながら、忌むべき者のよ うに山奧に隠し育てられていた漢どのが、三歳まで住んでおられた場所です ここカ つぶや 大海人は唇のうちで呟いた。あいまいな記憶が、ふっと浮かび上がる。 こ、つし 塀に囲まれた館の、高床の倉庫の位置が思い起こされた。おそらくはそれが、この格子に仕 切られた部屋にあたる。 やかた えり お
弓月が言いさしたとき。 あすか やましろのおおえのおおきみ 「葛城さま。俺は昨年、明日香に上がった際に、山背大兄王にお会いして : ・ ごうもん で拷問を受けています ぬかず 品治が額き、答えた。 . こっ〔・ 目を見張る弓月の向かい側で、葛城は息を呑み身を浮かせる。 「何をつ : : : お前は」 とゆらそがのおおおみけ おしうみ 「明日香での最後の夜となるはずだった、日に。豊浦の蘇我大臣家から忍海に戻る途中で、俺 は襲われて斑鳩宮に監禁されました」 ぼうぜん 品治は淡々と、自身の身に起きた事柄を説明した。呆然として葛城は彼の話を、山背大兄 王が何を疑い品治を捕らえたか、彼に何を与えたかを聞いた。品治がそれでどうなったかま 露 「大海人が : : : 父上を殺したと考えた : ・ 王族に伝わる毒を、用いて。ばかな」 たからひめのおおきみはいい 虹「あの方が本気でそのように考えておられたのか、それともあくまで宝姫大王を廃位に追い込 香 日 むための台本だったのかは、わかりませんが。俺には、そうおっしやっておられました。王子 びん 明 に頼まれて俺が瓶に薬を入れたと認めろと、宝姫大王がその後始末をしたのだと証言しろと。 はりつる 俺は房の梁に吊されて、打たれて、あの斑鳩襲撃の夜まで、眠ることを許されませんでした。 の いかるがのみや ・・いえ、斑鳩宮
ファン してきたかが、見えるんしゃないかなあと思いますー。 ( と、書いている最中に『葛葉』の レターが届いて、そこをチェックなさった方がおられることが判明。ううむ、深いトコロを突 いていらっしやるなあ : : : ) ししっ A 」く おわりのおおきみ やましろのおおえのおおきみ 尾張王の方も、聖徳太子関係の史書に名前があります。ただし山背大兄王との系図上の位置 関係は、見る史料によって微妙に異なっていたりするので、正しく尾張王が山背大兄王の息子 かどうかは微妙です。 そうそう。レターと言えば、前作『葛葉』のときには慌てふためいていたのですっかりあ とがきに書くのを忘れていたのですが、〃みなみのかんむり座〃の中国名が判明いたしました こうら —D 鰲といいます。どろがめ : : : 亀さんのことらしいです。亀の甲羅にでも見えたんでし ようか。教えて下さった方、ありがとおございましたつ。調べて下さった皆様もつ。 じんぎ 一やたのかがみい せじんぐう やさかにのまがたま 三種の神器関連では、「草薙剣が熱田社で八咫鏡が伊勢神宮、では八坂瓊曲玉はどこにある んですか ? 」という質問を受けました。私、どこかで『宮中』にあるって読んだ気がするんで すが、それがどこだったか資料が何だったかが思い出せないです。うううすみません : : : 。確 かに〃遷した〃という記録がないとい、フことは、即ち宮中におきっ放しでもおかしくはないと だんうらあんとくてんのう と田います・が ( だとしたら壇ノ浦で安徳天皇と一緒に一度は水に沈んだということか ? ) なんて書いているうちにラストページです。今回早いなあ。昨年の十月刊からほば一年かけ うつ あわ
からだ らくはお身体にはまったく力が入らない状態でいらっしやると、思いますが」 かぎ こ、フし かんぬき 男は格子の向こう側でひざをついた。閂に手を伸ばして、鍵を差し込む。大海人は彼が〃ま ったく〃と語ったのを、頭の隅に刻んでおいた。 ようしゃ 「一応念のために、手の方はらせていただいております。どうぞご容赦を」 「あな : ・ . こ、キ 6 」 誰だ。 動く早さよりもなお遅く、大海人は唇を動かす。男の手の動きが止まり、彼は大海人に柔ら やけどあと みぎほお かくほほ笑みかけた。その額から右頬にかけてひどい火傷の痕があって、それが奇妙な引きっ れを起こす。 みわのきみふみや かみつみやけ やましろのおおえのおおきみ 「私は上宮家 : : : 山背大兄王に仕え、軍の指揮を任されておりました、三輪君文屋と申し ます。大海人さまには、初めてお目にかかります きようしゅ こうべ うやうや 格子越しに、恭しく男は拱手し大海人に頭を垂れた。 三輪君文屋に関する情報が、一度に大海人の脳裏に押し寄せる。彼が何者で、どのような人 物であるか。どれほどの忠誠を上宮家に尽くし、どんなに山背大兄王を見込んでいたかを。 三輪君の氏上であった人。上宮家が滅べば、自身も生きてはいないと断言される人。上宮家 せんてい に一人でも生き残りがいれば、決して新たな氏上を撰定するこどはなかったと、弟である者に このかみ
いつ、は : : : 事実を、言ったんだ」 「ほお : : : さようで。嘘はついていないと。そう言い張られるのですね。あなたご自身も」 くつくっと、文屋は笑った。同時にびしやりと大海人の頬を、張った。 みこ 「答えて下さい。山背大兄さまの御子のことを、なぜ知ろうと思われたのです。どなたからお 聞きになられましたか ? 尾張王の名を、どこで手に入れられました」 一変して冷ややかな声で、彼は尋ねる。 「忘れ : : : 」 「落とせ」 水の弾く音と共に、大海人の顔はまた、水面の奧へと沈められた。 ほお
葛城王子 かつらぎのみこ 大海人の兄 ( 本当は弟 ) で 十八歳 , 宮での蘇の台 頭を快く思って . いない。 子首 ( 尾張王 ) びとおわりのおおきみ さかのうえのあたいまわか 坂上直真稚 謀殺された山背大兄王の息 子。大海人を攫い該大王家 に復讐しようとしている。 毎人リ仕えであるニ十 九歳の青年。大柄て嘸ロだ が、忠誠心に篤い。 大海連弓月 おおあまのむらじゅづき 大海氏の新ト、矢代の長男。 大海人の側近で、数少ない : 理解者でもある。
「何があなたに上宮を、あの場所を探らせたのです ? 」 「なにも、な : 王のことを、邑で尋ねておられながら ? 信しられませんな」 合図が入り、また、三成は大海人の顔を水の中へ押し込んだ。引き上げられるまでには先よ せ りも間があり、顔を持ち上げられた大海人は激しく咳き込み、酸素を求める。 「どこで尾王の名を、知られました ? あなたは王を、最初にその名で呼んでいる」 やましろおおきみ 「宮 : : : で。聞いた。山背 : : : 王、の。御子の名は」 「どなたに ? 」 「覚えて、ない。大勢に、聞いて回っ : ・・ : 」 答えは水の中に閉ざされた。 やましろのおおえ みつるぎ 章「なぜ、山背大兄さまの御子のことを、尋ねようと思われたのです ? どこから御剣の盗難 露と、上宮家を結ばれました」 「私はただ、大王家にかかわる : : : 全部を、順に調べた、だけだ」 認「あなたは、あなたの従者と少し、似ておられますな」 りようほお 晒文屋は濡れて髪がへばりついている大海人の両頬を手のひらに包み、持ち上げる。 ぎよ 「いかにも御しやすいような印象があるのに、やたら強情で聞き分けがない。あの者も、己と 己の主人のした罪を一切認めす、告白を拒み通しましたからな」