助けて 悲鳴は全部、水の中で泡となった。 おお 開いたロを、鼻を、耳を、水に覆い尽くされる。逃れようともがいても、押しつける圧倒的 章な力はびくともしない。 露 朝 ~ 苦しい。苦しい。苦しい 想 幻 頭の中でがんがんと、音が響く。呼吸を求めて開いたロを、ただ水が満たしてゆく。 とら しび 明 波立っ水の流れに末端から、痺れていった。手も足も、冷たく重い水に囚われて動かなくな 3 っていく。 止まない雨 まったん あわ
章 の 露 朝 想、「う : : : わっ : 香ぬかるみに足をとられ、葦毛が前のめりになる。・手綱を引き重心をずらすようにして、品治 ひざ 明は馬が膝を折ろうとするのを、ぎりぎりのところで持ち堪えさせた。 体勢を整えるために、葦毛は何度も足踏みをする。それに逆らわないように、彼は馬上で手 そう、言われたかもしれなかった。 兄上は。 意識を手放す寸前に、疑問が彼の心の臓を掴んだ。 雨の音が、ずっと遠くに聞こえる。 かたしろあったのやしろ 御剣の形代を熱田社に送るのは、どうなったのだろう。雨は、それを止めてくれたか ? 間 に合っただろ、フか そうであってほしいと、大海人は祈った。 祈りの言葉がすべて形になるよりも早く。 彼は眠りに就いていた。・ たづな こた
「品治 : : : さん : 「王子は、どこだ。どこにいる。知っているんだろう、教えてくれー 品治は声を押し殺し、低く尋ねる。 「王子を、迎えにきた。案内してくれ、子首」 ほん 「品・ ばしんと、子首は彼の手を振り払う。 「も : : : 遅い 一一歩後ずさり、声を押しだした。 「何を、言ってる」 「 : : : 私は : : : あの人を」 章「子・・・・ : っ卩 露 品治は己の手に、ぬるりとした感触が残されているのに気づいた。手のひらに目を落とした 朝 彼は、そこに、血の赤を見る。 香 どくんと、胸が跳ねた。全身の血が、逆流する。 明 「子首っ : おおきみ 「王 !
だけなんです」 「あのつ、お願いします ! 」 ちゅうちょ 答えを躊躇する甕穂に、品治は意気込んで頭を下げた。 「あと、もう三日、いえ、一日でも構いません。明日の朝から日暮れまで、この神域に入るこ とを許して下さい 「いや : : : しかし : : : 」 「どうか、お願いっ : 甕穂の方へ足を踏み出したとたんに。 「うわっ ! 」 あしもと ずるっと足許が滑って、品治はその場にべしやっと倒れた。腰に軽い衝撃があり、とっさに つか 手が、地面を掴む。 朝「品治 ! 」 「品治どのつ 幼「つてー 香 「大丈夫か ? お前」 あき 明 弓月の心配そ、フな、でも少し呆れてるみたいな声が、上からかかった。 「すいません。滑ってしまって」
やかた 章夕方にさしかかる頃には、雨脚は一段と早くなった。葛城王子の館を後にした一一頭の馬は、 朝雨の中を東へと向かう。 「弓月どの、先程は申し訳ありませんでした」 虹馬首が並んですぐに、品治は弓月に言った。雨の音に消えないほどの声に、弓月はいぶかし 日げ・に隣に目」・回ける。 明 「何が ? 」 「斑鳩宮でのことを : : : 葛城さまに申し上げてしまったことです」 く見えたんしゃないでしようか」 ・一言くらい、相談するという発想はなかったのか。ばか者が。そうすれば : 長い沈黙の後に、葛城は切りつけるみたいな声を吐きだした。 「まったくです」 弓月は柔らかく、応える。 「ああいうのを、救いようのない大まぬけと言うんです」 おもて 困ったような、愛おしむような、淡い笑顔が端正な面に映されていた。
胃の腑よりしんと、痛みが込み上げた。考えろと、また、声がする。 どこへ : きびす 手を握り締めて、踵を返した。 「品治どの」 まぎ 彼を見る真稚の顔には、紛れもなく不安と動揺があった。少し青ざめているのは、雨に降ら れたせいではない。 やかた 「王子は、葛城さまの館か ? 章「葛城さまは、なんと ? 王子がまた、具合を悪くなさったのか」 露真稚の言葉にかぶせるように、津守が尋ねてきた。そうであって欲しいという願望が、声の ~ 響きの中にある。 「津守どの」 香 品治は忍海大海家の主人に向き直った。両手を握り締めて、しつかりしろと自分自身に言い 明 聞かせる。 あすか 「どうか尾張の大海家に、弓月どのに明日香に来ていただくよう、連絡をお願いします。おそ ゅづき
みつるぎあさくら その夜のうちに、御剣は朝倉の葛城王子の館に運ばれた。そして次の日の早朝、品治は尾張 あったのやしろ た 熱田社へと発つ。 ふるひとのおおえのみこ 古人大兄王子が熱田社より御剣を宮へと遷し奉ったのは、それから七日の後。同日に葛城王 いせのおおみかみのみや みかがみ 子が、伊勢神宮より御鏡を遷し奉った。 たからひめのおおきみ きとう あんたい その三日後に、宝姫大王による〃天地の安泰と天候の安定〃の祈薦はつつがなく執り行われ 章たのであった。 露 朝 想 香 日 明 目を、彼は大海人に向ける。ほんの少しの間。そして。 「わかった」 静かに、弓月は頷いた。 うなず うったてまっ やかた
すさまじい激痛が突き抜けて。 「う : : : あっ・ 大海人は意識を取り戻した。呼吸を求めて開いたロから、挟み込まれていた布が地面に落ち る。 「気がついたのか。寝てた方がつらくないのに」 おしうみ 「ああ、動くな。刀傷を手当てしてる。このまましゃ忍海まで、もたないんでな」 うつわ 弓月は軽い口調で言い、酒を入れた筒を地面においてその横の小さな器を取り上げた。 「品治 : ・・ : は」 「どこぞの大ばか野郎の尻ぬぐいに、真稚と御剣を追っかけている」 「真・ : : ・稚も ? 」 朝「そう。あいつらも物好きだよな。自分を勝手に馘にしたような相手のために「必死になって るんだから」 虹「品治に、怒られた」 香 「安心しろ、俺も怒ってる」 明 さりげない言葉とは裏腹に、その表情は厳しい。大海人は彼の端正な顔に浮かぶ、痛みを目 2 にした。 つつ はさ
かたしろ 兄上はどのような状況においでだろう。形代を、動かされたのか。品治には、もう会われ て、命令を下されたのだろうか。 私が戻らなかったことは、どう捉えられただろう。真稚は国押に話しただろうか。 ロロは。真稚は。 名が浮かぶと同時に、彼らの顔を思い出している自分に気づいた。それ以上に、呼んでいる 「ばか : ・ : か。私は」 自分自身に呆れ、大海人は吐き捨てた。 切り捨てて、突き放したのは誰だ。そのくせ勝手に頼って、来てくれることを望んでいるな んて。 章「最低だぞ」 露早く、何とかしないと。 「 : : : 取りあえず、寝るか」 想吐く息と一緒につぶやき、大海人は再び横になった。そのとき。 外に、いつもと違う空気を捉えた。幾度かのやり取り、わずかな間。そして小さな足音が きぎはし 明 階を上ってくるのが、聞こえた。 おそらくは子供のものだ。 己に。 あき まわか
そびれているんだ」 「その可能性も、なくはないがな。あいつだけが何かを持っていて黙っていたってことも、あ る」 「いえ。それはっ ありません、と言う前に。弓月は言葉を継いだ。 「それに、当日の朝に宮かどこかで仕入れた何かが、大海人を動かしたのかもしれない。違う か ? 」 少し強い口調で、彼は一言う。品治は驚いて、顔をあげた。 「・ : ・ : はい。それは、有り得ることです」 ふくろこうじ 「だろ。だからあまりぐるぐると思い悩むのはやめろ。袋小路に入って、身動きが取れなくな 章るだけだ」 露ま ) 。 と、再び品治はそう答えた。 朝 「よし」 想 につと、初めて彼らしい、ちょっといたずらっ子めいた笑顔を見せ、弓月は再び尋ねる。 香「お前らこれまでに、どのあたりを当たってみたんだ ? あと、どこがある ? 明 「あ、はい。えっと : : : 」 「品治どの。地図を」