214 ふ 学校はいいの、と母親が言った。桐香はテーブルを拭きながら、顔をあげて笑った。 「たまにはいいでしょ ? だって、お父さん帰ってくるんだからー 「そうね、仕方ないわねー 母親は棚を開け、大小さまざまの皿を山ほど取り出した。桐香はそれをテーブルに並べ、湯 気のあがる鍋を運んできて、器へ盛った。台所からはちょうど、さつまいもの焼ける甘ったる い匂いがしていた。フライバンが音を立て、焦げたバターの匂いが香ばしく広がる。 「そろそろかしらね」 母親の声に、桐香は時計を見あけた。六時十分。新幹線で一一時間半だから、たぶん駅には着 いている頃だ。帰宅ラッシュで渋滞するかもしれない、と母親はつぶやき、鍋のスープをかき 回す腕を止めた。火を消して蓋をする。テーブルには三人分の、豪華すぎるほどの夕食が並ん でいた。 「さつま芋のバター焼き、久し振りに作ってみたのよ」 あぶら フライバンごと持ってきて、小ぶりの器にそれを盛る。黄金色のさつまいもが、バターの脂 でてらてら光る。器ひとっ分の量しかないので、桐香は不思議そうに顔をあげた。 「足りなくない ? 」 にお たな な ふた じゅ、ったい こ
「会いたかねえか、俺になんか」 試すように目を覗ぎ込まれて、桐香は反射的に顎を引いた。どういう意味なんだろう、と思 った。哲の目は笑っていて、桐香の鼻先にどうそ、と何かぎらきら輝くものを差し出してい た。どうそ。受け取って。でもそれには見えない糸がついていて、桐香が手を伸ばし引き寄せ ても、根元は永遠に哲が握っている。彼が取り戻そうとすれば、いつでもそうすることができ る。 みけん 黙り込んでただ見つめ返す桐香に、哲は微かに眉間を寄せた。あのさ、とつぶやき、つなが った手をやや乱暴に握り直す。 「俺とっきあって」 「ーーうん」 桐香は頷いた。体のなかが突然、ざわざわと騒々しくなったような気がした。同時に頭がか きれい らつぼになった。何かがたくさん入り込んできた。暖かくて、綺麗で、眩しすぎて直視できな いもの。決して不快ではなく、汚れてもおらず、けれど同時に奪ってもいくもの。 束「ほんと ? 」 かす 哲の声が掠れていた。桐香は目をあげ、頷いた。彼は笑って、緊張した、とつぶやいた。 約 家に帰ったのは結局、十二時過ぎだった。母親に電話することを、桐香はすっかり忘れてい た。楽しいことばかり考えていた。最終ぎりぎりの電車に乗って、ホームで手を振る哲を見て かす あ′」
プルプルと鳴り出した。 「お母さん : ・」 「待ちなさい」 受話器をあげようとする桐香の手を、母親は上からひっかいた。思わず手を引く。顔をゆが め、睨みあける。真っ白な顔を無表情のまま、母親は厳かに受話器を取った。 「はい、月 ー上でございます」 「どちらさまでしようか ? 」 「うちには娘などおりません」 ガチャツ。娘 ? と桐香は顔をあげた。とうに切れた受話器を取って、耳にあてる。ツーツ ーツー。母親は台所へ行き、微かに音を立て、コンロに火をつける。 「お母さん、今の」 束「食べましよう、桐香」 「え ? 」 約 「帰らないわ。お父さんは帰らないの」 「・ : 何言ってるの」 にら かわかみ かす お・こそ
うやって帰るんだろう、と桐香は思い、健作とかいう彼氏が、この近くに住んでいることを思 い出した。ぐいぐいと押しつけてくる携帯を受け取り、諦めて番号を押す。 「・ : もしもし」 桐香ですけど、と続けることはできず、母親の震える声が割り込んできた。 「何やってるの卩」 「友達と : ・ 「どこにいるの卩」 「外、駅の近くの : 「お母さんすぐに出るから、いつものとこで待ってなさい」 「あ、電車で : ・」 帰るから、とは続かなかった。すでに回線が切れていた。叩きつけるような音が耳に残っ て、母親の震える声と、一方的な言葉で胸がいつばいになった。絢子がいることを思い出し て、顔をあげ電話を返す。 「・ : 切りやがった」 「迎えに来るって ? 」 約「うん : ・ 「じゃあ、あたしあっちだから」 あきら
「友達と映画観に行くの」 目をやると、母親はフライバンを洗いながらうつむいて無言だった。桐香は食事を続けた。 前に父親が帰ってきたのは、確か去年の八月だった。地方に単身赴任していて、三年ほど前か めった ら滅多に会わない。桐香が学校をやめた頃父親は家におらず、そのことで、母親は精神的にか なり不安定だった。もともと何かと子供の世話をやく人だったけれど、それがひどくなった。 部屋に入って勝手に掃除をしたり、物を捨てたり、友達からの電話を切ってしまったり。兄は 早々に逃け、大学に入ってかあはほとんど家に寄りつかなくなった。週に一度ほど現れて、山 のような洗濯物を残し、また消える。友達のところに寝泊まりしているらしい。 「・ : ごちそうさまー トーストの耳をひとかけら残し、麦茶を飲み干して、桐香は立ち上がった。皿をつかんで流 しへ運ぶ。 「タ方には戻るから。電車で帰るし」 ドアを開けながらそう言って、桐香は廊下に出、階段を駆け上がった。用意していた服を着 そろ 束て、鞄の中身を揃え、洗面所に降りて髪を整える。ドライヤーの音が耳元で唸り、初めはちゃ んと聞こえなかった。洗面所のドアが揺れる。どんどん、と叩いている音がする。 約 「・ : なに ? 」 開けてみた。ドライヤーのスイッチをまだ入れたまま、桐香は驚いて目を見開いた。台所で
か。何が食べたい ? 言ってちょうだい。なんでも言っていいのよ」 「ほんとに ? 」 母親は頷いた。 「お仕事で、急にこっちへ寄ることになったって。ねえ、泰二はどこかしら。家族全員が揃う ことなんて、ほんと久し振りなんだから」 「帰ってこないよ」 「ーー帰ってくるわよリ」 受話器を投げつけ、母親は子供のように足を踏ん張った。じゅうたんを踏む右足のストッキ ングが、すねのあたりまで上に裂けているのが見えた。桐香はもちろん、泰二のことを言った のだった。肩で息をつく母親を見ながら、ふと、自分がバイトを始め、ふたたび学校へ通い始 めてから、母親は昼間この家で何をしているんだろうと思った。朝、桐香を送り出して、夜、 遅くに電話を受けて車を出すまで。たったひとりで。 「材料は買ってあるのよ」 束体の横で両の拳を握り締め、母親は歯を剥き出しにして笑った。ロポットのような動作で向 きを変え、スリッパを引きずりながら冷蔵庫を開ける。桐香を振り返る。 約 「すぐに作るから、あなたさっさと顔洗ってらっしゃい。部屋も片づけなくちゃ。ね、夕方ま でに間に合うかしら。予約してないけど、美容院に行きたいの」 たいじ そろ
廊下へ出る。階段を下りる。なんだろう、家じゅうが暑い。台所へ続く扉の向こうが、黄色い す 明かりに透けて見えた。お母さんまだ寝てないんだろうか、と思った。夜、母親が起き出して まぶ ごそごそ動き回っているのを知っていた。扉を開けて、部屋の眩しさに目を覆う。 「・ : うわ、びびった」 まばた 泰二の声だった。顔はよく見えなかった。丸い、真っ白な斑点がいくつも、瞬きするたびに 見えた。頬や額や首筋に斑点をつけ、泰二は片手になにか飲み物を持って立っていた。帰って きた、と思った。少なくとも兄は帰ってきた。頬にうっすらと笑みを浮かべながら、桐香は入 り口の壁に寄りかかった。 「お兄ちゃん」 「なんだ、おまえ : ・」 「冷蔵庫に、オムレッ入ってるよ」 「ああ ? なす 「きんびらと、茄子もー 束髪をかきあげると頬がべたべたした。汚い。パジャマの背中がぐっしより濡れて、その冷た さに鳥肌を立てながら、桐香はようやく、ああ風邪を引いたんだ、と思った。氷枕、作らなく 約 ちゃ。泰二が冷蔵庫を開け、漏れてくる光が桐香の足の上を這った。扉の陰で、驚いた声がし こ 0 ほお ほお はんてん おお
85 約束 すみずみ の隅々にまで目をやり、きびきびと動く。覚えれば簡単なことだった。腹の底から声を出し、 こた 客の言うことにいちいち、きまりきった笑顔で応えることも覚えた。どうでもいい相手にな ら、桐香はいくらでも笑えた。それは桐香自身も知らなかった、体のなかに眠っていたひとっ の才能だった。 一時四十分過ぎ、すべての料理が出た。客はテーブルの三分の一に減り、いつもの通り、店 のドアはもう、びくりとも動かなかった。ラッシュ時にはドアが閉まる間もなく客が押し寄せ ちゅ、つぼう てくるのに、まるで騙されたような落差だ。厨房では坂田が食器洗いに追われ、前崎か椅子に 座り、惚けたような表情で煙草をふかしていた。 「おいつ」 どん、と思い切り脇腹を小突かれた。柚子だった。いたた、と体の横を押さえながら、桐香 は泣きそうな顔で彼女を見あげた。 「なにするんですかー」 「ほうっとしてるからよ」 「い 4 」 1 ーし・ 「あ、爪切ってないやー ごめんねえ、と絶対にそうは思っていない顔で柚子は言った。指を広げ、顔から離してしげ しげと眺める。 なが つめ だま たばこ
かんじん つも、肝心な時には家にいない。 「お兄ちゃんはいし 、よねえ。いざとなったら、どこへでも行けるもんね ? こ 「彼女ができたでしょ ? 知ってるよ、お母さんが言ってたもん。私も電話取ったことある。 うちには息子はおりません、って言うことにしてあんの」 皿の上の目玉焼きは、く / ターが効きすぎて胸につかえた。トーストは冷えて味がしない。 「行けばいいじゃねえか」 泰一一が言った。桐香は顔をあげ、変な無表情で見つめてくる兄を睨んだ。 「何言ってんのか全然わかんねえよ、おまえ。喋り方そっくりだな。あの女のこと嫌いなんじ ゃなかったの ? 似てるよ ? それはな、てめえがてめえのこと嫌いなだけなんだよ ! 」 「・ : 何、それ ? こ 泰二の方こそ、言っていることが全然わからなかった。何言ってんだろう、と思った。お母 さんのことが嫌いだなんて言ってない。そんなこと一言も言ってないのに。 かかんしよっ 束「逃げれば ? 俺は逃げるよ、父親は仕事にしか興味ねえ、母親は過保護の過干渉。おかしい きれい と思わねえの ? 正月や盆にだけ帰ってきて、綺麗な服着て飯でも食ってりやまともな家族な 約 のかよ ? つきあってらんねえんだよ ひざ 泰二は顔をあげた。立ち上がって、勢いでテーブルの角に膝をぶつけた。そのまま大股に歩 しゃべ にら おおまた
164 ・ほってりと熱くて湿ったものが、声とともに腕に触れた。桐香はそこを見やり、右腕の肘あ たりに、菫の指がしつかりと絡みついているのを見た。盗むように彼女の横顔を見る。 「仮装行列に出るんでしょ ? 何やるの ? 」 さりげなく腕を引っぱってみた。指は離れなかった。その感触は、桐香になぜか小学生の頃 を思い出させた。そうだ。女の子の手つて湿ってる。嫌いじゃないけれど、時々重い。 「ね、哲は何やるか知ってる ? 全然、教えてくれないんだもん。知ってたら教えてよ」 「 : ・私も知らない。でも、見ればわかるよ」 「そうだねえ。楽しみ」 「菫はやらないの ? こ 「うーん、出遅れちゃって」 癖なんだな、と思った。そういう女の子なら、同じクラスに何人かいた。 「ね、待って。置いてかないでね」 個室に入る前にそう言い残し、菫はパタン、とドアを閉めた。桐香は手を洗い、角が欠けた 女子トイレの鏡を、ぐい、と至近距離でルき込んだ。ついさ 0 き哲から目をそらした時、どん な顔をしていただろうと思った。何か醜い言葉を吐き出す時、唇はやはりゆがんでいるだろう かと思った。たとえば母親に向かって死んじまえ、と叫んだ子供は、その瞬間に鏡をつきつけ られたらどうなるだろう。死ぬかもしれない。自分の醜さへの恐怖に、耐えられなくなってき から ひじ