母親 - みる会図書館


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1. 約束

「あら、 いいのよ」 これは特別、あなたのためだけに作ったんだから。母親はそう言って、フライバンにこびり あぶら ついた焦げ目や脂をしつこく器に流し込んだ。部屋へ染み込む甘い匂いを、桐香は胸へ吸い込 んだ。本当に久し振りだった。小さい頃、ちょっと手の込んだおやっといえばこれだった。欲 張って食べすぎるといつも、胸が焼けて気持ち悪くなった。一度昃してしまい、それきり母親 は作るのをやめた。 「懐かしいでしょ ? こ 「うん 椅子を引いてテーブルに着く。母親はエプロンを外し、点検するように台所を振り返って、 桐香の座る正面へ回る。その隣が父親の、桐香の隣が泰二の座る位置だ。 「ねえ」 気になっていたことを訊ねる。 「お兄ちゃんの分は ? 」 束ふ、と笑って母親はかぶりを振る。 「うちには、息子なんていないのよ」 約 念を押すような口調に、桐香は黙り込む。冗談でもギクリとする。困る。この家に息子がい

2. 約束

218 「どうせ帰らないのよ、誰もー 「お母さんが言ったんじゃない、今日帰るって」 「この家には父親もいないの」 「あなたと、わたしと、ふたりきり なべ カラン、と鍋が鳴って、食器がカチャカチャと運ばれてきた。丸い深血のなかに、わかめと とうふ 豆腐のスープ。テーブルの上に置いて、母親は桐香の肩を強く下へ押した。座れ、と目で言 う。椅子に座って、手を合わせなさい。 「これじゃいつもと同じね 笑い混じりのため息をつき、さあいただきましよう、と母親は両手を合わせた。桐香は足を 宙に浮かせ、テープルの下でぎこちなく擦り合わせた。父親は帰らなくて、兄はすでに存在す らせず、自分あてにかかってきた電話に母は答えた。うちには娘などおりません。 「・ : いただきます」 「はい、どうそ」 炊飯器の前で振り返り、母親はやわらかく微笑む。白いご飯を盛った茶碗を、熱いわよ、と 手渡してくれる。桐香は箸をつかみ、豚肉を口へ運んだ。茄子を挽肉と煮たやつを食べた。美 味しかった。特製ケチャップのかかった黄色いオムレツ。びりびり辛いあさりの炒めたのや、 ほほえ ひきにく から

3. 約束

哲は箸を止め、うとましげに眉をひそめた。 「洗濯機回すとこまではやるんだけどな」 「どういう意味 ? こ 濡れた布地の感触が嫌いで、触りたくない、と哲は言った。顔が本気で嫌がっている。 「あの、冷たいのか熱いのかわかんない、中途半端な感じな。濡れてんのとも乾いてんのとも 違うだろ。ぬるく湿ってんだ」 「じゃあ、いつもどうしてんの ? 」 「つまんで引っかける」 「ひっかける : ウこ 「そう、急いで」 うか茎 9 哲は頷いた。見たこともない真顔だった。 「乾燥機欲しいよ。やつば買おうかな」 離婚したんだよ、と彼は説明した。父親が浮気をし、母親は別れると言った。考え直してく 束れ、と父親はある日突然、この家を買った。母親は実家へ帰った。弟がついていった。哲には 学校とお金と友達か必要だったから、迷わずここに残った。 約 「条件で選んだの ? 」 桐香はねた。哲は目を伏せた。 まゆ

4. 約束

スープや、父親の好物であり、母親の得意料理でもあるきんびら。 「あら、よく食べるわね」 白いご飯をかきこむ。お茶を飲む。詰め込む。スー。フを飲む。額と鼻の頭に汗がにじんで、 なす 桐香は箸を持った手で乱暴に拭った。なんだか息がはあはあしてきた。豚肉、茄子、オムレッ を呑んで、きんびら。 「桐香」 「お芋がまだ、手つけてないわね」 さつま芋。黄金色の、てらてらに輝く甘ったるい芋。箸で突き刺して齧った。大きなかたま のど りのまま、喉の奥まで突っ込んだ。おかしいなあ、と思った。好物だったんだ、たくさん食べ て、すごく、たくさん、食べた あなたの大好きなお芋さんよう。甘あいわよう。美味しいわよう。お母さんまた作っちゃっ 束た。おすそ分けしようかしら、それともあなた、全部食べられる ? 「ちょっと作りすぎちゃったかしら」 約 驚いたようにテー。フルを見回し、母親は肩をすくめた。父親の席へ置いてある皿を見つめ から て、両手に取りあげる。轡でかき出す。桐香の、ようやく空になりかけた皿へ移す。 ぬぐ かじ

5. 約束

212 桐香は床を踏み、母親の脇をすり抜けて廊下へ出た。洗面所へ入る。後ろ手にドアを閉め、 なべ 台所の気配をうかがう。母親は何か歌をうたっていた。鍋や冷蔵庫や食器の動き出す音が、床 や壁や天井から伝わってきた。髪の乱れた鏡のなかの自分を見た。目元と、頬の丸い線があき らかに母親似だった。鼻と柔らかい髪質は父親似だ。ロは ? と考えて、ぐいと鏡に近づいて みる。共同制作だ、たぶん。どちらでもない、でも混ざっている。 どうすればいいんだろう、と考えた。一生懸命、頭のなかでひねくりまわして考えた。私は あの人に、何をしてあげればいいんだろう ? どんな約束を ? いったい何を、言ってあげれ 。しいんだろう。 蛇口をひねって水を出す。歯ブラシを取って、にゆるりと飛び出したチュしフをこすりつけ みが る。水を止める。歯を磨く。部屋を、片づけなければと思った。母親が料理を作って、自分は ほア」り・ きれい 家中を綺麗にする。埃を吸って窓を磨いて汚れた空気を外へ追い出す。久し振りの食事なんだ そろ から、と桐香は思った。本当に久し振りの、家族が揃う日なのだから。 哲からの連絡はなく、桐香も電話をかけなかった。番号も知らなかったし、そのことに初め て気がついた。遊びに行こうとか、何やってるのとか、いつでも、働きかけてくれるのは哲の じゃぐち わき ほお

6. 約束

210 視界の隅で母親が動き、受話器を持ったまま廊下へ出ていった。壁の向こうで、話し声はま ふち だ続いていた。桐香はソフアに背を預け、剥き出しの足をテーブルの縁へかけた。 変な時間だな、と思った。仕事の最中じゃないんだろうか。それとも別の人だろうか。漏れ てきた声は確かに父親のものだったが、目を合わせない母親や、入った瞬間から室内に漂って いた空気が変だった。 「関係ない・ : 」 ロのなかでつぶやく。頭で思うのとはなんだか違う。外から聞こえてくる。まるで、誰かほ かの人が言っているみたいに。 「関係ない、死ねばいいのに」 誰が ? 私がーー ? 「聞いてリ」 廊下の明かりをつけつばなしで、片手に受話器をぶら下げた母親が立っていた。ドアが向こ ちょ う側に開いている。外へ出かけるような白いプラウスと、足首まで届くフレアスカート。 っと若作りしすぎじゃない、と桐香は思う。パ ーマの取れかかった肩までの髪が、後ろでひと くくりに結ばれて少しほっれている。 「・ : お父さんが帰ってくるのよ。今日、夕方までにはこっちに着くって。今、新幹線のなかだ って。どうする ? 外に出る ? お父さん疲れてるだろうし、久し振りだから、家で食べよう すみ

7. 約束

七歳の頃だ。週に一度通っていたエレクトーンの発表会があり、桐香は特別にステージ用の 衣装を買わなくてはならなかった。普段通りで結構ですから、と教室の先生は言ったが、母親 はひどくはりきって、桐香の手を引きデパ トへ連れていった。 家を出る前、桐香は長袖のシャツに、下は短いプリーッスカートを穿いて、その上に厚手の トレーナーと、買ったばかりの赤いハーフコートを着ていた。足には分厚いタイツを穿いて、 ブーツを履く前に靴下も履いた。両手に手袋。頭には毛糸の帽子をかぶって、ドレッサーの前 で化粧する母親のもとへ行った。 「お母さん、まだ ? こ 「もうちょっと、待ってね 兄の泰二は近所で遊んでおり、父は仕事でいなかった。母親とふたりで出かけられるなん いらいらせ て、桐香には最高の一日だった。やかましい兄もいないし、苛々と急かす父親もいない。おも ちゃ屋の前で泣き出す泰二のせいで、いらない恥をかく心配もない。もしかしたら地下のお店 でソフトクリームを買ってもらえるかも。このあいだは人形の家を買ったから、今日は洋服を そろ 束一着ねだってみようか。エレクトーンの服とお揃いにしてもらおうか。 「お母さーん、まだあ ? 」 約 「待ちなさい、落ち着きのない子ねえ」 ハコン、と口紅の蓋をして、 ふた そで

8. 約束

「友達と映画観に行くの」 目をやると、母親はフライバンを洗いながらうつむいて無言だった。桐香は食事を続けた。 前に父親が帰ってきたのは、確か去年の八月だった。地方に単身赴任していて、三年ほど前か めった ら滅多に会わない。桐香が学校をやめた頃父親は家におらず、そのことで、母親は精神的にか なり不安定だった。もともと何かと子供の世話をやく人だったけれど、それがひどくなった。 部屋に入って勝手に掃除をしたり、物を捨てたり、友達からの電話を切ってしまったり。兄は 早々に逃け、大学に入ってかあはほとんど家に寄りつかなくなった。週に一度ほど現れて、山 のような洗濯物を残し、また消える。友達のところに寝泊まりしているらしい。 「・ : ごちそうさまー トーストの耳をひとかけら残し、麦茶を飲み干して、桐香は立ち上がった。皿をつかんで流 しへ運ぶ。 「タ方には戻るから。電車で帰るし」 ドアを開けながらそう言って、桐香は廊下に出、階段を駆け上がった。用意していた服を着 そろ 束て、鞄の中身を揃え、洗面所に降りて髪を整える。ドライヤーの音が耳元で唸り、初めはちゃ んと聞こえなかった。洗面所のドアが揺れる。どんどん、と叩いている音がする。 約 「・ : なに ? 」 開けてみた。ドライヤーのスイッチをまだ入れたまま、桐香は驚いて目を見開いた。台所で

9. 約束

まぎ スに乗って街へ出た。たくさんの人の群れに紛れて、ただひたすら歩く。 信号は何度も青に変わった。桐香はそこに、立ち続けていた。顔をあげる。斜め向かいにそ びえるデ。 ハートで、電光掲示板がちかちかと瞬いているのが見えた。上から下へ、オレンジ色 の文字が流れていく。 『九月二十八日、本日の気温。十二時三十分現在、 5 度。予想最高気温、 6 鏖 もうだめだ、と思った。疲れた。面倒くさい。翌日から、桐香は家を出てそのまま街へ向か うようになった。届けのないまま欠席が続き、二週間ほど経ったところで母親に知られた。自 転車がないから、と桐香は言 0 た。指に包帯を巻き、が握れないから、と言 0 た。 から、学校に行けない。 西野が家へ来て、両親と三人で、何やら遅くまで話をしていた。桐香は自室で本を読んでい あさ きつもん た。買い漁ったをへッドホンで聴いた。母親が部屋に来て、な・せ行かないのかと詰問し た。これ以上プスにはなりたくないから。笑ったり泣いたりしたいから。 本当のことを言った。無視された。母親は桐香を病院へ連れて行き、体のどこにも異状がな けが いこと、人差し指の怪我など存在しないことを、辛抱づよく、医師とふたりで説明した。三週 間後、桐香は学校へ戻った。 おきた 目立たない生徒がいた。沖田という、休みがちな男子生徒だった。教室で、桐香はたいてい 窓の外を見ていた。そうでなければ、廊下へ出て非常階段の途中に座り込んだ。沖田は馴れ馴 またた しんぼう なな

10. 約束

か。何が食べたい ? 言ってちょうだい。なんでも言っていいのよ」 「ほんとに ? 」 母親は頷いた。 「お仕事で、急にこっちへ寄ることになったって。ねえ、泰二はどこかしら。家族全員が揃う ことなんて、ほんと久し振りなんだから」 「帰ってこないよ」 「ーー帰ってくるわよリ」 受話器を投げつけ、母親は子供のように足を踏ん張った。じゅうたんを踏む右足のストッキ ングが、すねのあたりまで上に裂けているのが見えた。桐香はもちろん、泰二のことを言った のだった。肩で息をつく母親を見ながら、ふと、自分がバイトを始め、ふたたび学校へ通い始 めてから、母親は昼間この家で何をしているんだろうと思った。朝、桐香を送り出して、夜、 遅くに電話を受けて車を出すまで。たったひとりで。 「材料は買ってあるのよ」 束体の横で両の拳を握り締め、母親は歯を剥き出しにして笑った。ロポットのような動作で向 きを変え、スリッパを引きずりながら冷蔵庫を開ける。桐香を振り返る。 約 「すぐに作るから、あなたさっさと顔洗ってらっしゃい。部屋も片づけなくちゃ。ね、夕方ま でに間に合うかしら。予約してないけど、美容院に行きたいの」 たいじ そろ