うそ 終わるまで待って、と言って、哲は実際には、お腹が痛い、などというちゃちな嘘をついて 早退してきたのだった。店の外で彼を待ちながら、桐香たちは・ほそ・ほそと他愛もない話をし やと た。崇が隣に座って、この店が哲の叔父の持ち物であること、十五歳の少年を正式に雇えるわ もら こづか けはないから、哲は小遣い程度の金しか貰っていないこと、を教えてくれた。 やがて哲が出てきて、ぞろそろと皆で通りを歩いた。二十四時間営業のカラオケポックスに 入り、大きめの部屋へ通されて、三時間ほど歌った。桐香もマイクを渡されて、絢子と一緒に まぎ おだ 一曲だけ歌った。円香は酒を飲み、穏やかに笑っていた。どさくさに紛れてビールを注文する ちゃちゃ 者がいれば、白井の歌に茶々を入れたり、服を脱ぎ出す者もいた。 哲は向かいに座っていた。スナック菓子を・ほりぼり食べ、オレンジ色のカクテルを飲みなが ら、崇と頬をくつつけ合って何やら楽しそうに喋っていた。仕事から解放されると、彼は当た り前の、十五歳の少年だった。 店を出た。すでに夜中の三時を回っていた。酒に酔ってまっすぐに歩けない者もいて、白井 の命令でタクシーに乗せられた。桐香も少しだけ飲んだが、酔うほどではなく、絢子と一緒に 立っていた。誰かが、暗い道端に座り込んでいた。細長い影が伸びる。崇が走り寄って、何事 か言いながら背中をさすっている。 約「 : ・哲か」 白井がため息をつく。その場に残っているのは、彼と円香と、哲と崇と、アキと、絢子と桐 ほお しゃべ たあい
102 「おう、わかったー、後でなー」 「伊藤くん、・ : ちょっとうるさいですよ」 「あああん ? あー、それはだから、後でって言ってんだろー」 「静かにしてくれませんか」 「何言ってんだてめー、 : ・上がって来い、おら、やんのかこら」 「ーー伊藤くん」 水野は桐香のすぐ目の前まで来ると、哲のシャツの背中を思い切りつかんだ。上に引っぱ られ、哲はビクッと首を震わせ振り返った。水野の顔を見て、腕を背中に回す。 「ちょっ、離してよせんせー」 「やかましい。話がしたいなら君が下に降りなさい」 「えー ? 授業中だ・せー ? 」 「構わないよ」 「いいの ? 」 じゃま 「うん、邪魔だから」 「 : ・なんだよー」 哲は猫のように腕を繰り出したが、シャツをつかむ水野の手は離れなかった。そのままぐ いぐい持ちあげられ、ついに腰が浮いてしまう。
220 「食べられるでしよう ? あなた、今日ものすごい食欲だものね」 「ん、なあに ? こ 「いらない」 ひざ 桐香はつぶやいた。嫌な予感がどんどんせり上がってきて、背中と膝の裏とがいっせいに冷 つぶ と・はん たい汗で濡れた。粒になって流れ落ちる。鳥肌が立つ。寒い。息ができない。 「・ : いらない。こんなにたくさん、いらない。食べられない。お父さんの分まで ? ーーー食べ られるわけないじゃないリ」 のど ぐう、と喉の奥が鳴った。桐香は口元を覆い、椅子を降りて床へ膝をついた。ーー流れ。跳 ねのけて、押し戻す体の流れ。床一面に広がった。嫌な臭いがした。変な色をしていた。とて きれい も、たくさん出てきた。綺麗に、残らず出て行った。食べられると思ったのに。幼い自分の声 が響く。好きなんだもん、全部食べられると思ったのに ! お母さんが作ってくれたから、次 ばか にいっ作ってくれるかわからないから、全部食べたかったのに。出しちゃうなんて。馬鹿みた 馬鹿みたい " 「あんたなんか大っ嫌い : ・」 腹を押さえる。胃がまだ引きつっている。母親はテー。フルを回り、桐香の背中を擦るように 撫でる。強く、まるで叩くように撫でる。 おお にお こす
しわがれた低い声。息を吸った。哲は光に近づいて、身を屈めながら校舎の屋根へと入り込 むところだった。 「待って、ーー待って " 足を踏み出し、思い切り腕を伸ばして追いかける。傘が煽られて飛ばされそうになった。哲 は止まらない。追いついて、 e シャツの裾をつかんだ。拳の形に絡めた桐香の指から、彼は体 を三角に曲げて、前屈みにぐいぐい逃げ切ろうとしていた。ひどい、と胸の底で思った。呼ん でいるのに、話がしたいと言っているのに。直後、同じことを自分がやったのだと気づいて、 e シャツの裾を強く、両手でつかみ直す。傘がバランスを崩し、肩で跳ねて地面に転がった。 とたん、桐香の上にも雨が落ちてくる。 「お願い待って、聞いてリ」 「逃げないで、お願いだから」 束哲は振り向かなかった。両腕に缶を抱え、背中をうつむかせながら、ひたすら足を前へ動か す。桐香は両足を広げ、地面に踏ん張ってシャツの裾をたぐり寄せた。生地が破れそうなほ あらわ 約 ど伸びる。雨で滑って、哲の背中が半分ほども露になったところでシャツが逃げていった。桐 香の手からするりと離れた。空をつかむ。手のひらで雨が跳ねて、重さのない手応えに、胸が すそ あお
170 絢子が叫んで、舐めるように全身を見た。桐香は顔をそらしながら、ふくらんだ袖をしきり に撫でた。 「マルコじゃなくて良かったねえ」 「・ : 大した違いある ? 「だって、まゆけが」 ほおべに 頬紅を出し、はけを渡して塗ってもらう。絢子はワンビースを着て、あげて、と背中のジッ ーを見せた。振り返り、 「ねえ ? こ と声色を変える。 「哲は ? こ 「・ : さあ」 「さっきまでいたのにね ? 」 「出るのやめたのかな」 「えー ? でもあれは、わりとひとりではりきってる顔だったわよ」 最後にかつらをかぶり、髪を引っぱって内巻きに見えるようにした。互いに全身をチェック おか し、可笑しいような、ちょっと虚しいような気分になる。 「おい」 ぬ むな
116 「こわっ と笑 0 て懾てて離す。 「暴力ふるった : ・ やさ 「なによう、優しくつかんだだけでしょ 「つかんだ、ほっぺたっかんだ」 「違うって、ちょっと触っただけじゃん」 じんじん痛む頬をさすり、桐香はロの横に手を当てた。声をあげる。 「柚子さーん、松下さんが」 カウンターにへばりついた柚子が、なに、と振り返った。松下は桐香の肩に手を回し、 「なんでもないですう」 と気持ち悪い笑顔を浮かべた。 「私に暴力をーー 「いやん、桐ちゃーん」 ガッ、と背中を小突かれ、桐香はロを閉じた。柚子は肩越しにふたりを見比べ、 「こら と鼻にを寄せた。 「川上さんで遊んじゃ駄目よ、松下さん」 ゅうこ だめ
哲が働いているという居酒屋へ、皆で道路沿いに歩いた。その名前には聞きおぼえがあっ た。顔は浮かんでこなかった。誰かが、菫は先に行ってる、と言うのを聞いて、初めて思い出 大きな道路沿いに、七、八人の集団になって歩いた。こっち、と肘で知らない男の子に押し きりか 退けられて、桐香はムッとしながら顔をあげた。彼は前を歩く男の背中を叩いた。 「ほら、道路側行けよ」 夜になっても往来の激しい道路から、女の子を守ろうとしてくれたらしい。桐香は顔をあ げ、大柄な彼の耳ぶたあたりをじっと見つめた。彼は気づいて、 「え、なに ? 約と愛想良く笑った。 ますこ 「益子くん」 てつ 第三章 すみれ ひじ
枕元の電話が鳴った。桐香は腕を伸ばし、手探りで受話器を探ろうとして、背中の筋を吊っ た。うめきながら、うつぶせになって顔をあげる。午前七時。今日は日曜だから、最低でも十 時までは寝られるはずだった。久し振りに、目覚ましもセットしなかった。 「・ : もしもし ? ・ 束寝起きそのままの声だ。しわがれた自分の声を聞いて、哲かもしれない、と一瞬思った。 てて第択いする。 きじま 約 「もしもし木島ですけど、桐香さんいらっしゃいますか ? しばうな 桐香は首を横に振った。肘を抱き、内側のふくらんだ脂肪を撫でる。こんなんでいいの、と 思った。こんなことでいいなら。こんなぶよぶよしたところにきっと神経なんて通っていない から。何したって平気。そう思った。 「慰めてくれたから」 哲は笑った。 「お返しー なぐさ
「おえ」 背中を向けてジ は大声をあげた。 「アキ ! 」 そのままの格好で振り返る彼を指差し、ふたりは同時に顔をそむけた。アキは首を曲げ、び くっとなって懾てて尻を壁に向けた。 「ーーーてつめー、早く言えよ」 のど ひいひいと笑い、ようやく喉の震えが収まって、桐香は持ってきた衣装を取り出した。赤い ンヤン。、 ースカートと、ちょうちんそでのブラウス。爪先の丸い靴。頬紅。絢子の家にあっ ぞうきん た、羊のような雑巾のような縫いぐるみも持ってきた。 「車椅子がねー 未練たらしく絢子がつぶやく。ワンビースとエプロンとかつらは揃ったのだが、クララが座 束る車椅子は無理だった。 「あれがないとハイジが、『さあ立つのよ、クララ ! 』って一 = ロえないじゃないねえ ? 」 約 「あっても言わないよ 「なんでよ。あたしはよろよろ歩くわよ」 ひつじ ーパンを脱ぐ後ろ姿が、よくよく見るとアキだった。桐香は吹き出し、絢子 そろ ほおべに
148 椅子に背をもたれ、絢子は両の足を前へ投げ出した。廊下へ目をやり、笑う。 「哲はねえ、あれで寂しがりゃなの」 「試してるの、ひとを。知ってるでしょ ? 「・ : うん」 ためらうような、熱い感触だった。 / 彼の手はいつもそうだった。痛いくらいに強く握って、 ささや 相手の反応を待つ。会いたいんだと囁いて、会いたいのか、と問う。 うそ 「だから嘘ついちゃだめだよ、傷つくよ」 絢子の指が桐香の肘に触れ、の先を深く食い込ませていた。桐香は顔をあげた。ど 0 ち が ? と思った。胸の底がずしんと重くなって、どこかもう二度と届かない、体の深いところ へ落ちていった。絢子の指がまるで鉄の輪のようで、桐香は動けなくなった。 「どうしたのよ ? 絢子はなだめるように首をかしげた。 「 : ・大丈夫だってば」 ため息を吐くようにつぶやき、桐香の背中を何度も叩く。大丈夫だから。そう一言って、絢子 は困った顔で笑っている。 さび