ひま 「前橋さんの、お知り合いですよね ? こ 「おう」 背を向けてフライ。ハンを操りながら、前橋は頭を頷かせた。男の方が彼の知り合いらしく、 みずか 暇な時にはシェフ自ら皿を運んでいくこともある。 「男の人の方、すごく無ロでしょ 柚子が笑う。桐香は頷く。 「代わりに女の人が喋るんです」 「結婚してるのかしら ? 坂田が首をかしげた。声が大きすぎるので、柚子が鼻にを寄せ小刻みに首を振る。坂田は ささや ハッと前橋を振り返り、囁くように言う。 「指輪してた ? なんとなく、同棲つぼいと思うんだけど : ・」 どうだっけ、と柚子がフロアを見やる。 「川上さん、見た ? こ 「見てません、そんなとこまで」 だめ 「駄目じゃない、気がきかないわねえ」 とぎ その声は大きく店内に響いた。坂田は目を見開き、遅れて両手で口元を覆う。有線が途切 れ、一瞬、妙な間があく。 しゃべ どうせい おお
と声を張りあげる。すぐに表情が変わる。 けんさく 「健作 ? ー 彼氏だ。名前を聞くまでもなく、緩み切った顔を見ればわかる。歳はふたつ上で、浪人生ら 「あー、今、外だよ。・ : そう」 頷きながら目だけこちらへ向けて、絢子は持っていたマイクを差し出した。歌はすでに二番 に入っており、桐香は迷わず受け取って、代わりに歌い始めた。ソフアの上で体をちいさくし う′玉 9 て、絢子は聞こえてくる声に、何やらしきりに頷いていた。桐香は最後まで歌い切り、リモコ ンを取って演奏を止めた。おもちゃのようなミラーポ 1 ルが動きを止め、室内が急に明るくな 0 て、絢子の声が大きく壁に鏘しオ しいけど、会えないって言ったのそっちの方じゃん」 桐香はマイクを握り、次に歌う曲の出だしを待った。画面を見つめる。 「だからー、今ポックスにいるんだってば」 いらいら 動物のように縮めていた体を起こし、絢子は苛々と長い足を組んだ。相手の声に聞き入り ながら、上目づかいに天井を睨む。 「・ : 何言ってんのー ? 」 「あたしだって忙しいよ」 にら ゆる
入るように見つめてきながら、それでも彼女の口元は笑っていて、行こうよ、楽しいよ、と盛 んに誘惑しているようにも見えた。 「ーーあ、そうか明日バイトだっけ ? こ 「ううん、休み」 「じゃあどうする ? 「行くっ ? 」 「うん」 うか 9 力強く頷いた。深く考えたわけではなくて、ただ、気分に乗っただけだった。家には電話し ておけばい、。今日は迎えに来なくていい、と。朝までには帰るから、心配しないで 「よし、じゃあ、みんなに紹介するね」 言って、絢子が腕を引いた。引きずられるまま、桐香はまだ知らないたくさんの顔の群れに 近づいて、意味もなく笑ってみた。客と同じ、客と同じ。笑顔が一番良かったんだ。初日に言 ってくれた前橋の言葉を、無理矢理思い出してみた。暗がりの下で、近づいていく彼らのざわ まぼろし ひび めきが耳に遠く、まるで幻のように響いた。
「注射針、もらったの ? こ ゆず はい、と桐香は頷いた。彼女が一「三個自分のために持ち出していたのを、ひとっ譲っても らったのだ。 なな 「先が斜めになってて、スッて簡単にあくんですー 「それって、売ってる ? ー 「 : ・針ですか ? こ 「もらってきてよ、一本」 うな うーん、と桐香は思わず唸った。 だめ 「駄目かな ? 「やつばり、病院のものだし : ・」 「あたしもさー、あけたいんだけど、この歳で今さらって言うのもあるしねえ」 柚子は勢いよく立ち上がった。後ろでまとめていた髪をほどき、指で集めて結び直す。 「この歳って、柚子さんおいくつなんですか ? 遅れ毛を。ヒンで止めながら、柚子はしかめ面をした。上目づかいに桐香を見やる。 「川上さん、十・ハだっけ ? 」 「はい、来月で十七です」 「柚子さんはねえ、もう一一十二になるんだよ」 うオ玉 9 どし つら
の裏に焼きつけた。朝焼けが赤いのを知らなかった。初めて見る光景だった。アキは終始黙っ て運転を続け、白井はあくびをこらえながら、桐香の話し相手になってくれた。 朝になって、哲がやっと目を覚まし、よく寝た、とつぶやいて桐香を振り返った。電話番号 教えて、とまるで夢の続きのように彼は言った。白井が聞こえない振りでそっぽを向いた。ア うか キはあからさまに 、バックミラー越しに見ていた。桐香は頷いて、鞄から手帳を出し、番号を 書きつけて哲のシャツの胸ポケットに入れた。電話してね、と言った。哲は頷いて、おやす み、と手をあげ、そのままシートに寝転がってしまった。 かわかみ 「川上さん ! ゅうこ 柚子が叫んだ。 「次、運んで。早く、・ほうっとしない ! 」 目の覚めるような声だった。顔をあげる。ざわめきと掛け声とレジの開く音。扉の開く音。 気がつくと桐香は、ランチタイム真 0 ただ中の店にいた。ててカウンターに飛びつく。前橋 さかた が盛りつけた皿を、坂田が次々とカウンターに乗せていく。伝票をつかんで、料理を確認し、 両手にひとつずつ乗せて運ぶ。 注文を取り、料理を運び、会計を済ませ、テープルを片づける。客の声に耳をそば立て、店 しやっし
118 トレイの上にふたっ載せる。 「お願いします」 うか争・ はい、と松下が頷いて、柚子と入れ違いにフロアへ出ていく。 「あの、すいません」 ひどく控えめな声が聞こえてきた。女の声だ。奥のテーブルで常連のカップルが席を立ち、 伝票を手にレジへ近づいていくのが見えた。来るたびにハヤシライスとシーフード。ヒラフを頼 んで、週に一度は親密そうにテーブルを挟んでいる客だ。 「ありがとうございました」 まし ありがとうございました、と前橋の声が重なった。厨房から顔だけ出し、男の客と目を合わ えしやく せ軽く会釈する。 「・ : 千五百五十円になります 男が頷き、千円札を一一枚差し出した。五十円玉ない、と横に目をやる。女は財布のなかから 五百円玉と五十円玉を出した。札を一枚取りあげ、その上に硬貨をそっと置く。 「千五百五十円、ちょうどいただきます。ありがとうございました。またお越しくださいま 流れるように言って一礼した。レジを閉め、伝票にざっと目を通して顔をあげる。 「会計、間違えなかった ? こ さいふ
242 一人の女の人だと思った。この人が自分の母親だと言える理由はなんだろうと考えた。手のひ らが離れて、指が銀色に光る体温計をつかむ。口を開けなさい、と言う。 ぶどう 「葡萄、食べられそう ? こ 「・ : うん。お腹空いてるみたい」 「皮、剥いてあげようか ? 」 体温計をくわえ、桐香は首を横に振った。母親は頷いて、べッドの端に手をつき、立ち上が 「お皿、あとで取りに来るから」 「うん」 「寒くない ? 」 「大丈夫ー 頷いてみせると、母親は部屋を出て、そっとドアを閉めた。足音が階段を降りていく。 桐香は天井を見あげた。母は結局、どうするんだろうと思った。結婚して子供まで産んだ男 と、別れるんだろうか。嫌いじゃないけど愛してない、と言った。どういう意味だろう。桐香 は、母親を好きじゃないけれど愛していると思った。好きだと思ったりものすごく嫌いだと思 うことはあるけれど、愛していない、と思う時はない。どう違うんだろう、と思った。どちら がより複雑なんだろう。 っこ 0 うた争・
て手を伸ばし、同時にシャツの胸から煙草を取り出す。 「失礼します」 「 : ・失礼します」 顔だけ笑って振り返りながら、柚子は肩で桐香の体を押すようにした。びくりとしながら見 あげると、笑っていた。 「ちゃんと覚えてたんだ」 「でもね、両手で差し出さないと駄目ー うか争・ 素直に頷いてみせると、柚子は声もなくにやついた。カウンターへ手をかけ、厨房のなかに いる坂田へ声をかける。 「ねえ、見ました ? 」 「見たわよう、仲直りしたのねえ」 束「でもあの男、相変わらず愛想ないですね」 「そこがいし 、って人もいるのよ、きっと 約 「あはは」 「うふふ」 だめ
「会いたかねえか、俺になんか」 試すように目を覗ぎ込まれて、桐香は反射的に顎を引いた。どういう意味なんだろう、と思 った。哲の目は笑っていて、桐香の鼻先にどうそ、と何かぎらきら輝くものを差し出してい た。どうそ。受け取って。でもそれには見えない糸がついていて、桐香が手を伸ばし引き寄せ ても、根元は永遠に哲が握っている。彼が取り戻そうとすれば、いつでもそうすることができ る。 みけん 黙り込んでただ見つめ返す桐香に、哲は微かに眉間を寄せた。あのさ、とつぶやき、つなが った手をやや乱暴に握り直す。 「俺とっきあって」 「ーーうん」 桐香は頷いた。体のなかが突然、ざわざわと騒々しくなったような気がした。同時に頭がか きれい らつぼになった。何かがたくさん入り込んできた。暖かくて、綺麗で、眩しすぎて直視できな いもの。決して不快ではなく、汚れてもおらず、けれど同時に奪ってもいくもの。 束「ほんと ? 」 かす 哲の声が掠れていた。桐香は目をあげ、頷いた。彼は笑って、緊張した、とつぶやいた。 約 家に帰ったのは結局、十二時過ぎだった。母親に電話することを、桐香はすっかり忘れてい た。楽しいことばかり考えていた。最終ぎりぎりの電車に乗って、ホームで手を振る哲を見て かす あ′」
あせ 汗をかく前に替えておくのだ。 「ねえ」 ハン、と勢いよくドアを開け洗面所に向かうと、さっきのふたりがまだ、口紅ゃあぶらとり じゃぐち 紙を手に立っていた。桐香を振り返り、体を寄せて蛇ロひとつぶんのスペースを開けてくれ る。 「英語の授業で一緒だよね ? 」 プルーのジーンズにシャツの腕をまく 0 た髪の短い方が、に薄いべらべらのシートを押し つけながら言った。 「・ : あ、うん」 そうだったのか、と内心思いながら、桐香は両手を洗い、水気を払って蛇口を閉めた。 「あたしは家庭科で一緒ー 化粧ポーチに手を突っ込んでうつむいたまま、右端の女の子も言った。顔はよく見えない が、螺にのような回転がかか 0 た茶色い髪の毛には、見覚えがあ 0 た。 「いつも一番前に座ってる : 「そうそう」 約顔をあげ、ポーチのなかからマスカラを取り出して、彼女はそのまま鏡に向かった。桐香は ハンカチを鞄に入れ、