しまうことがたびたびであった。 : このようになってしまうとは : : : 狂ってしま ( もう、私はどうしようもない。このように : ったのではないのだろうか : : : ? •) としん 白宵の顔と、妬心と、自己への嫌悪の思いがどろどろと混じりあい、しかし決して溶けず、 胃の腑の底辺りに溜まって重くしこっている。 重くついた息は、酒の臭いばかりであった。 店を出た時には、五つ ( 午後八時 ) を回っていた。 呑みに呑んで、息ばかりか、汗までも酒の臭いであった。 ~ 弥四郎が出ていった後、店の女が塩を撒いた ( 嫌な客が二度と来ないようにという呪い ) 襲が、弥四郎、これには気づかなかったようだ。 田腰にはしつかりと、大小一一本の刀を差してはいるが、足元は実に頼りない。 ~ ・歩きながら、 の ( ああ、もう、私は駄目だ。どうしようもない ) 群そんなことばかりを延々と考えている、弥四郎なのである。 ふらふらといくと、町衆は逃げるように道を開けた。
弥四郎はであ 0 た。 俗に、 くさっ 「御医者様でも草津の湯でも治らぬ・ : と言われる病である。 こいわずら この男がかかっているのは、恋煩い、なのだ。 ぎおんたゆう 相手は祗園の太夫、白宵である。 弥四郎が白宵と初めて出会ったのは、今年のまだ梅雨も明けぬ頃であった。 鷹一朗に手紙を頼まれ、これを届けにいった際に、弥四郎は有名なこの太夫を見た。 まさしく、 ( 雷に打たれた : : : ) 思いであった。 そのときの笑顔、触れ合った指先の熱が、日が経つにつれて胸に迫り、毎夜、夢にまで見る ようになった。 始終、白宵のことばかりを考え、食事をするのも忘れる有様である。 山杉屋の庭を借り、真剣を何百回と振り抜いているときでも、これに少しも集中できぬ。 としん さらには、鷹一朗に対する抑えようのない妬心がむくむくと頭を持ち上げるのを、どうする こともできなかった。
あくび 欠伸が出た。 どうにも眠たい、鷹一朗であった。 ( ああ、私はこんな男だったのか : : : ) 思うのはそのことばかりである。 神坂弥四郎は、。 とこともしれぬ飯屋の入れ込み ( 簡素な座敷のような席 ) で、もう一一刻 ( 四 時間 ) も酒を飲み続けていた。 ずいぶんすさ 随分と荒んでいる。 こそではかま あか 着ている小袖と袴は少しも垢じみておらず、髷を結わぬ、後ろに撫でつけた珍しい形の総髪 も、それほどには崩れていない。顔は少し青ざめて見えるが、死人のように、というほどでも しかし、荒んで見えた。 なにより、目が濁っている。 けさがた 今朝方、鷹一朗が見かけたのは、確かにこの弥四郎であった。 あれから、どこをどう歩いたかよく憶えていなかったが、気がつくと、随分と喉が渇いてい て、水をもらおうと入った店で、ついつい酒を頼んでしまったのである。 ( 修行に修行を重ね、我が腕を磨いたのは、いったい何のためであったのだ ? .) に・」 みが のど
にがむしか く、苦虫を噛み潰したようであったのだ。 弥四郎とは、ここしばらく会っていない鷹一朗であった。 どうにも避けられているらしいことはわかっていたが、理由は思い至らぬ。 ( なにか事情があるんだろうぜ ) と思い、強いては尋ねなかった鷹一朗なのである。 しかし、弥四郎がここにいたのは、偶然であったのか : 朝も早いこのような時間に、たまたま通りかかったとは考え難し 以前は、遊女が馴染みの客に出す手紙の代筆などをしていた弥四郎ではあるが、引っ越して からは、それもやめていたはずである。 ( ひょっとして、俺を待っていたのか : ・ : ウ•) てだい そうも思ったが、それならば山杉屋の手代にでも頼み、呼び出せばよいことだ。 襲それに、昨夜からここに来ていることは、誰にも知らせてはいない。 田もし弥四郎が自分を待っていたのだとすれば、つまりは尾行けてきていたことになる。 だが、何のためにであろうか ? 牙 の ( ともかくも、近いうちに訊いてみよう。このままでいるのもいいかげん心地が悪い ) 群 五つも歳が上の男を、妙に気に入っている鷹一朗なのである。 ( : : : だがまあ、明日にしようか ) とし
や - 」 0 ( 連中が、『新撰組』・というひとっ袋の中で噛み合って殺しあおうがどうしようが、俺には関 わりのない話じゃねえか ) つもの 鷹一朗は憑き物を落とすかのように、ぶるり、と一度体を震わせた。 たち 何事か、と何人かが鷹一朗を見たが、大刀を帯に差した浪人と見ると、すぐに視線を外して そそくさといってしまった。 あくび 欠伸が出た。 ( : : : 早く帰って寝ちまおう。なにせ昨夜は死体につきあって一晩中起きていたんだからな ) 鷹一朗は足を早めて橋を渡り、しかしそこで、 ( おや ? •) と立ち止まった。 通りの先の辻を曲がった男が、見知った顔であったように思えたのだ。 かみさか ( : : : あれは、神坂さんじゃなかったか ? •) そのように見えた。 やしろう 神坂弥四郎は、いまは山杉屋の裏手に住む、浪人剣客である。 ずいぶん しかし、はっきりとそうであるといえなかったのは、その顔つきが随分と違って見えたから 神坂弥四郎は、普段は、快活で明るい顔をしていたものだが、先刻見た弥四郎の顔は、暗
いま一方は、狗党に身を置いていたともいわれる、水戸浪士、芹沢鴨を中心とした一派で ある。 天狗党とは、攘夷派で知られる水戸の徳川斉昭の遺志を継ぐものであることを掲げた、過激 攘夷思想の一党である。徳川御三家のひとつである水戸藩でのそうした動きは、幕府にとって よ、 ( まことに頭の痛い ) ことではあるようだ。ことに、長州がこの八月に京を追われてからは、全国の攘夷論者が、 ( もはや頼みは、水戸藩のみ ) と支援を始めているらしい。 その天狗党にいたという芹沢鴨が、なにゆえ同じ攘夷派である長州を討つがわにまわったの ~ か : : : それは鷹一朗の知るところではない。 襲あのように殺されたからには、あの男は、 田 ( 芹沢の手下だったのだろうぜ ) とはわかる。 牙 の なればついに近藤が、新撰組を己が手中に収めるべく、動き出したのだと見ていいだろう。 狼 群 ( 阿呆らしい : ・ : ・俺には、どうでもいいことだ ) 鷹一朗は、ひとり苦笑した。 じつい とくがわなりあき
かもがわ といって、流れの痩せた賀茂川に頭から落ちて自害をした大店の主の言葉がそのまま示して いるように、男にとっては真に都合のよい極楽は、この橋で終わりとなる。 橋向こうに待っているのは、厳しい現実の日々だ。 それゆえか、暗い顔をしている者も多い その中にあって鷹一朗は、ひとり面を厳しくしていた。 思い返されるのは、新見、と沖田が呼んだ隊士のことであった。 つばら 同じ新撰組の隊士が、あのような場所で詰め腹を切らされるということは、尋常ならざる事 である。 ただ殺すだけであるなら、どこかで待ち伏せて、これを斬ればよいのだ。 そうはせず、あのような方法で新見を死に追いこんだのには、理由があると見てよいだろ ( 見せしめか : : : ) 新撰組が決して一枚岩でないことを、鷹一朗は沖田から聞いて知っていた。 局長が二人いるという事実からしても、それがわかろうというものだ。 新撰組の内部は、大きくふたつに割れているといってよい。 一方は、近藤を筆頭として、土方、沖田らを従えた、江戸は郊外の多摩に道場を構えていた 試衛館の面々。 おもて おおだな
ならづ の味噌汁、それに奈良漬けが一一切れである。 朝餉の献立としては第澱なものだ。 はんとき 鷹一朗と白宵は、これを半刻 ( 一時間 ) もかけて食べた。 「今度は、いっ ? すべてをベろりと平らげた白宵が聞いた時、鷹一朗はまだ、味噌汁を飯にかけ、これをすす り込んでいる最中であった。 「さて、いつになるかな : : : ? 」 「近いうちに : 「そうだな」 ほほえ いうと、白宵はこぼれるように微笑んでみせた。 、も、つ 撃一ぎおん 襲祗園社に詣でていくという白宵と、『あけび』の前で別れると、鷹一朗は通りを西へ歩んで っこ 0 ~ 行く人は多い。しかもみな、同じ方角を目指している。 の突き当たりは、四条大橋である。 『これにて夢の終わり』 しじよ、つおおはし
と看板に書かれた飯屋に入った。 まだ夜が明けたばかりだというのに、店の中は客でずいぶんと混雑をしている。女連れも多 ここは場所柄から、泊まりの客が家に帰る前に腹ごしらえをしようと立ち寄る者が多く、そ はんじレ史っ れゆえこのような時間から店を開けて、ずいぶんと繁盛をしているらしい 二人は奥の座敷に上がると、おまかせの朝飯を頼んだ。 「それにしても肝が太いな、白宵は」 初めにだされた熱い茶をすすって、鷹一朗は言った。 「なんのことです ? 」 「昨夜のことさ。天井から滴る血を見ても、平気な顔だったじゃねえか」 「こわかった」 「いまさら遅いぜ」 「いじわるな、鷹さん」 し、々つお 白宵の白魚の指が、鷹一朗の腿をつねった。 「いてえっ 湯呑みを置き、白宵に躍りかかろうとした時、能開いて飯が運ばれた。 あゆかんろにしろみそ 炊き立ての飯に青菜の漬け物を刻んだものをたっぷりと乗せたものと、鮎の甘露煮に白味噌 きも したた もも
と思えたのである。 しかし、いま横を歩む土方の顔は、沖田のよく知るものであった。 「何だ、総司 ? 俺の顔に血でもついているか ? 「いえ。なにもついてはいませんよ」 沖田は薄紙に張り付いたような笑顔を見せると、空を仰いだ。 「や、土方さん、月があんなに美しいですよ」 おもむき ね いなか 「多摩の田舎で見る月とは、趣も大分に違うぜ。なにやら楽の音が聞こえてきそうじゃねえ か。なあ、近藤さん」 「うむー 相変わらず無ロな男ではある。 沖田と土方は、互いに顔を見交わすと、小さく肩をすくめた。 襲京の都で入隊をした平隊士達は、近藤らにわずかに遅れて言葉を交わすこともなく黙々とっ 田いてくる。 あぜ ~ 壬生の畦は、泥のように暗い。 の 群 新見錦の遺体は、翌朝の早くに新撰組の隊士が来て引き取っていった。 ぎおん 鷹一朗はそれを見送って『山緒』を出、その足で、白宵と連れ立って祗園社側の『あけび』