ノーマはその罪深さに怯えたように青ざめていた。 司祭は憐れむように首を振って言った。 「いったいなぜ : 素描など、あと少しでできるところだったではないか。長い十年のう ちの、 : あとたった一カ月で ! 」 その時、押し殺すようなすすり泣きが聞こえた。 「わしが、悪かった」 で・し それはノーマの弟子入りを待っていた老いた聖像画家だった。 きた 「銀筆も羊皮紙も与えず、贅沢も許さなかった。それも精神を鍛えるためと思って厳しくして きたのだ。もっと早く弟子入りを許していれば : : : 」 ひざ 老人は、自分を責めるようにがつくりと膝を折っていた。 おんじよう かくとう 夜「司祭様、学頭様、・ : : どうか、この娘をお許しください ! 温情をかけてやってください」 長「銀筆 : : : 」 の フォルカがつぶやいた。 レ フォルカの銀の留め具が銀筆の代わりになり、素描への欲求を堪えがたいものにしてしまっ カ スたのだろうか マ ノーマは自分のために顔色を失っている師匠を悲しそうに見つめていたが、再び顔を上げ て、言葉を紡いだ。 あわ つむ おび ぜいたく お ししよう きび
170 「ばか、フォルカ ! 死んだっていいのか ? おれはあきらめねえからな ! おまえが無実だ ってことを証明してみせる ! 」 「よけいなことは : : : しないでくれ」 フォルカには、セルフィオンの心が泣けるほど嬉しかった。セルフィオンをだましているよ きじよう うで気がとがめたが、彼の厚意を受け取るわけにはいかなかった。フォルカは努めて気丈に振 る舞おうとした。 ね 「ぼくは大丈夫だ。ウリキナに負けられない。同じ拷問にあって、無実のぼくが先に音を上げ るわけにはいかない」 ちんつうおも フォルカがそう言った時、セルフィオンは唇をかんで、今までにもまして沈痛な面もちにな っ ( 。 しやくはう 「 : : : 聞いてねえんだなーーフォルカ。ウリキナは釈放された」 ウリキナは釈放された のうり フォルカの脳裏をその言葉は記号のように何度も通り抜けたが、その意味を理解するのには 時間がかかったように思う。 「つまり、おまえだけが、疑われているんだ、フォルカ。本当のことを言うべきだ。おまえの きゅうちおとしい 小さな嘘はどんどん膨らむ。膨らんでどうしようもなく複雑な形になって、おまえを窮地に陥 れるぞ ! ノーマがおまえの無実を証明できるし、おまえがノーマの無実も証明できるんだ。 ふく
不規則な呼吸音が、石の壁に反響した。 にら みす 瞳だけはきつく前方を見据え、僧の皮をかぶった悪魔たちに睨みをきかせていた。 「上げろ」 ざんこく 再び残酷な声がした。 うら 自分の体の重みをこれほど恨めしく思ったことはなかった。 天井に吊り上げられるまでのわずかの時間を、これほど長く感じたことはなかった。 フォルカの右肩の骨が、筋肉が、声にならない叫びを上げていた。 汗がその頬をつたい、床に落ちた。 フォルカはがくりと頭を垂れた。 「明日は左腕だ」 という声がした。 縄が緩められ、フォルカの体は冷えた石の床に下ろされた。 そして彼はまた独房に戻った。 だらりとぶら下がった右腕。 ようしゃ かわ びっしよりとかいた汗も乾かないうちに、夜の冷気は容赦なくやってきた。 ゆる
うのだった。 セルフィオンが、溜息のような叫び声を上げた。 フォルカがフィドルと弓を下ろして視線を上げると、垂れ幕の下に美しい女が立っていた。 むなもと きぬ きんばっ 胸元まであらわになった絹のドレスをまとい、あでやかな金髪を腰まで垂らした女が、笑み を浮かべていた。そしてその胸には無数の光を放っ首飾りが輝いていた。 さえぎ 奥の部屋と、フォルカたちのいる部屋を遮っていた垂れ幕を引き寄せ、しどけない姿で柱に もたれるようにして女はフォルカを見ていた。 「 : : : 本当にエーヴァ神のようなお方。天上の国への鍵はお持ちなのかしら ? 」 女は、鼻にかかった甘い声で言った。セルフィオンがひざまずいた。 あや フォルカは軽く目礼はしてみたものの、教授の妻というものがそのような妖しい姿で学生の 夜 あっけ い前にあらわれるという神経がわからなくて呆気にとられていた。そして非難の意味をこめてこ . のう答えた。 いたくこば 「天上への鍵というものは、灰色の僧衣に身を固め、全ての快楽と贅沢を拒んだ尼僧が持つも レ スのです」 しんがくていよう マ それは先日読み通した『神学提要』の中の一節だ。 せいしやく 水晶玉のような静寂がその部屋を満たした。 そうい にそう
118 のだ。 ほそおもて フォルカが写字生の横を通り過ぎる時、写字生のひとりが顔を上げた。細面で色が白く、顔 かくし」 - っ ぞうさく ひか の造作の全てが控えめな感じの青年だ。彼は学頭ルキダ・エルの専属の写字生、ウリキナであ きちょうめん る。儿張面で実直な性格、そしてとびぬけて器用な手先とねばり強さで美しい写本をつくり出 す彼は写本の魔術師と呼ばれていた。ウリキナは斜めに角度をつけた写字台に長い羊皮紙をの げんぼん せていた。原本はその左側の書見台にのせられていた。 ・ : ? ルキダ・エル様が ) ( 神学・ : ・・提要 : いわかん フォルカは何気なく目をやり、その原本の書名に違和感を覚えた。難解な書物ではあるが、 学頭なら既に持っていて、おそらく一字一句もその記憶から漏らさないほど読み返しているは ずだ おとな こわだか フォルカはその時痛いほどの視線を感じた。ウリキナがこちらを見ていた。大人しく、声高 に話しているのを見たこともないウリキナの視線は、生命感が薄くて、どこか蛇の目に似てい いつもなら誰が通ろうと、わざわざ仕事の手を止めて顔を上げるようなことはしない。 行く先々でフォルカは奇妙な視線を感じた。首をひねりながら文書庫に入る。 おさ あめいろ 飴色の書棚が並び、そこには見事な装飾を施した手書き写本が収められていた。 しゅうじがく 人り口付近には文法や修辞学の写本をはじめとした自由七科の教書が並び、奥まったところ
174 フォルカは追いつめられていた。 もう僧たちのどんな質問にも答えなかった。 フォルカは何をされようと何を言われようと、ただ無言で、心の中で祈るように叫んでい いっそ、殺してくれ : が鳴った。 さいな 激痛が四肢を苛む。 ふじよう ゆっくりと彼は浮上する。 囚人は今まで以上に清らかな表情で、天を仰いだ。 フォルカの頬を何かが流れた。 涙なのか汗なのかわからない。 ぎし、ぎし、と縄が悲鳴をあげた。 僧たちがどよめきの声を上げた。 おか 拷問が続くと、どんなに立派な態度を貫いていた囚人も、最後には犯していない罪を犯 あお つらぬ
ようしゃ 縄はまだ容赦なくフォルカの脇にくい込み、彼自身の体重によりさらに大きな苦痛を与えて いた。 「上げろ」 れいてつ と、冷徹な声がした。 「汝は世にも恐ろしく邪悪な禁書を盗み、エーヴァ神を冒漬した : : : 」 フォルカは呼吸を整えるのがやっとで、それを聞き届けることはできなかった。しかし彼は 同じ答えを繰り返せば良いのだった。 ぞ ノーマを巻き添えにしない それだけが支えだった。 そしてただ、 夜「ぼくは知らない」 長と答えるたびに、滑車が音をたてた。 の 三度目に、不気味な音がした。 レ 息がとまるのではないかというほどの激痛に、フォルカは歯をくいしばった。 カ ひたいあぶらあせ ス フォルカの額に脂汗が浮き出した。 マ は 吐き気がした。 くちびる かわいた唇は死人のように青ざめていた。
よみがえ つきりと蘇った。 待ってくれ おび ああ、怯えないで もう何もしないから 迷惑なら声もかけないから。また来てくれ ノーマはあらがうのをやめてフォルカを見つめた。 あの時、終課の鐘の音が鳴り響いて、そしてフォルカはノーマをつかまえていた手をそっと 離したのだった。 けつばく ノーマがフォルカの潔白を証明できる。 フォルカは顔を上げて、それを言おうと思った。しかし、次の瞬間、その考えは砕けてしま った。 ごらん 「彼は答えられないようですな。ルキダ・エル様。大変重要なものを御覧いただかねばなりま せん」 しよくだい しさい 司祭はそう言いながら、何かを包んであるらしい白い布を燭台の近くに置いて、それを広げ こ 0 くだ
194 正面切っては決して見ない。 関わりをもってはいけないからだ。 三つ目が鳴った。 こうさい フォルカはしつかりと闇の虹彩を前方に見据えて顔を上げた。 ししよう 芸術家らしい老人がぼんやりと見えた。もしかしたらノーマの師匠かもしれない。エーヴァ 神に似ているなんて噂をきいて見に来たのだろうか、こんな雪の中に立って、体を冷やさなき ゃいいが : : とフォルカは田 5 った。 四つ目。 司祭に目をやると、その横にルキダ・エルが立っていた。 そして五つ目の鐘が鳴った。 あざ ぐんしゅう 。かいとう 群衆のはずれに、鮮やかな赤い外套をまとった女が見えた。 カシュメリアナ : 顔までわからないが、フォルカにはそう思えた。 そして彼女は笑っているのだろう、と思った。 しさい
フォルカは戸惑いの表情を浮かべた。 「じゃあ、これはーー ? 」 「ーーノーマ姉ちゃんの燭だ ! 」 少年が叫んだ。 「きみたちが持って来たんじゃないのか」 「誰だってできるじゃねえか。そんな燭のひとっ祭壇に上げるくらいのことは。おおかた養 あま 育院の尼さんだろう」 ようす 追いついて様子を見ていたセルフィオンが口をはさんだ。 「ちがうよ ! これはノーマ姉ちゃんのに違いないよ」 「お姉ちゃん、どこかにいる ! 」 子どもたちが口々に言い立てた。セルフィオンは顔をしかめたまま、怒鳴った。 「ち、ここにも同じようなのがいたのか、世話しきれねえよ、全く」 フォルカがそれを見て、困 0 たような顔をしていた。だがその双眸には今までのりはな く、かすかな予感を秘めた明るさが戻っていた。 ノーマはどこかにいる ! フォルカは叫びたかった。 「さあ、もう気がすんだんだろ ? 帰るぞ、フォルカ。せつかくよくなったのに、無理するん