272 れいはいどう 聖ロマンド教会の礼拝堂には熱気があふれていた。 : ったく、この老いぼれに、こんな大仕事をさせよって、あのくそ坊主」 ぶつぶっと老画家がぼやいている。 「何か言いましたかな」 しさい 上機嫌の司祭が、足場の上で仕事する老画家を見上げて言った。その周りでは弟子たちが忙 しく顔料を調達したり、下地を整えたりして鰤可と奮闘していた。 「ははあ、ちょうど良いところに来た。わしはな、金や権力に物言わせて聖像画を描かすよう なまぐさうず な生臭坊主のことを言っとるんじゃ。ふん、面白くないことばかりじゃ。十年かけて育てた まなでし 愛弟子はどこかの若造にかすめ取られてしまうし」 おんじよう 「なあにを今さら言いますかな。その愛弟子に温情を、と言ったのはおまえさんでしたぞ。ど んなことでもすると」 いまいま け、と忌々しそうに舌打ちをして、老画家はまた手を動かし始めた。それを楽しそうに見上 エピロー。ク うず でし
養育院の暮らしは、確かに辛い日々の繰り返しだった。水汲みが遅いとたたかれて、彼女は ほお せんたく よく小さな頬を赤く腫らしていたし、刺繍や洗濯で、その細い指もひび割れていた。養育院の 尼僧は、正直なところ、子どもの才能を育ててやろうという深慮があって老画家のもとに彼女 を連れてきたわけではなかった。や りくりの大変な養育院では、ひとりでもくいぶちをらさ なくてはならなかったのだ。 「あたし、エーヴァさまを描きたい。どうしても忘れないうちに描きたいの」 少女は老画家をくいいるように見つめた。 老画家は少し表情を動かした。 「忘れないうちに、じゃと ? まるでエーヴァ神を見たような口振りじゃ」 「あたし、見たわ ! ほんとうに見たもの。だからどうしても描きたいの」 尼僧は眉間を曇らせて少女を見た。妄想のあるような娘など、いくら同情をひいてみたと すで ころであずかってはもらえないだろうと、既にあきらめかけていた。 「あたし、エーヴァさまを描くためなら、なんでもします。なにもいらない。なんでもささげ られるわ」 「なんでも、と言うが、おまえさんが何を持っているのじゃ ? 」 れいこくこわね 老師が冷酷な声音でそう言うのは、うしろだてのない娘を相手にしたくないからなのか、別 の理由があるのか、それは誰にもわからなかった。
「あたしを弟子にしてください」 エーヴァ神を描き続ける老いた画家の前に、少女はひざまずいた。 こうをう 石造りの北向きの工房では数人の弟子が忙しく働いていた。南から射す光は一日の変化が激 かいが しすぎて、絵画を照らすのにふさわしくないのだ。 「簡単なことではない」 さと はくはっ 白髪の老画家は諭すように言った。 しゅぎよう せいじゃ 「聖者と同じほどの厳しい修行が必要じゃ。幼いおまえさんには無理じやろう」 ろうし 娘は緑色の大きな瞳を見開いて、とても美しい声で老師に訴えた。 「なんでもします」 にそう そういずきん そして彼女のかたわらにいた尼僧は、灰色の僧衣と頭巾に身を包んで静かな声で言った。 ししゅう じようず 「この娘は、ーーー捨てられてまだひと月ばかりしかたっておりませんが、刺繍が大変上手でご 夜 せいぞうが もしゃ そびよう いざいます。素描を描かせてみましたら、このように器用に聖像画を模写いたしました」 ようひし はし そして彼女は端の丸まった羊皮紙を手で広げて見せた。老画家は一瞬それに目を留めた。し レかしその素描は彼の心を動かさなかったのであろうか。 カ 「絵を描くだけならよいが、神の姿をカン・ハスに写そうなどとは思わぬほうが良い。おおか ス マ た、刺繍や水汲みがいやになって抜けだしたい一心なのであろう」 「ちがいます。あたし、ここでも水汲みをやるわ。どんなことでもする ! 」 か きび お うった つつ さ
「いや : 、ゆっくり考えてみるよ」 「考えるな、考えるな。おまえもう少し遊んだほうがいいぜ。カシュメリアナ殿のところへ一 緒に行こう。上級学生がどれほどのものかって挑戦状をたたきつけられているんだぜ、ぎやふ んと言わせてやろう」 フォルカは友人が自分を傷つけまいと気をつかっているのがわかって、苦笑した。 「それは遠慮する。 : それよりさっき、聖ふたりの花嫁、と言 0 た 0 け」 「ああ、 : そうだった。おまえは聖なる花嫁のほうが気にかかるんだな。エーヴァ神の末裔 らしいや」 「神の末裔だなんて」 あくえき びだん 「悪疫騒ぎのおまえの行動が美談となって、周りの連中が言ってるんだ。気にするな。 の聖なる花嫁は、聖像画家をめざして、十年近くもその弟子入りの日を待っているんだ」 ふしど セルフィオンは、フォルカの臥所の脇の長椅子に腰をおろして足を組んだ。 「十年も ! どうしてまた : 「頑固な老画家に弟子入りを志願したが、断られた。五才のガキがだぜ。決意の強さを示すた ささ めに、エーヴァ神に何かを捧げようと思ったが、彼女には何もなかった。それで」 「それで何を ? 」 フォルカはカシュメリアナの話の時よりもはるかに感じ入った様子で、セルフィオンの話に しがん ようす まっえい
198 人混みをかきわけてやってきた老人が怒鳴った。 , 「あとわずかで、おまえの願いがかなうのじゃ、 ・無茶なことをしてはいかん」 がんりよう 白い衣に、顔料のしみがついていた。それが、ノーマが弟子入りするであろう聖像画家だと さっ フォルカは察した。 せいひん 「十年の沈黙と清貧の苦行を無駄にするでない、さあ来なさい」 ずきん 老人はノーマの頭巾をつかんで引っ立てるようにした。 げんちょう ノーマはもがき、そして次の瞬間、フォルカはさっきの叫びが幻聴ではなかったことを知っ ノーマの唇がゆがんだ。 ためいき 溜息しか漏らすことのなかったノーマの唇が、気の遠くなるような静寂を破ったのだ。 「わたし : : : です : : : ! 」 あたりが静まり返った。 信じられないものを見たように。 みけん フォルカは眉間にしわを寄せた。 聞いてはいけないもの、しかしいとおしいもの エーヴァ神には心で祈り、誰のためにも、何があっても声をあげないと誓ったノーマ の捨て身の証言。 こ 0 せいじゃくやぶ
その日は朝から雪が降り続いていた。 しゅうどうそう どうやらフォルカの介護の担当になったらしい若いそばかすの修道僧の話によると、フォル くもん ぞくせ むか 力が苦悶の日々を過ごしているうちに俗世は新年を迎えていたのだった。 くぎよう せいぞうがか あとひと月で、ノーマは長い苦行を終えて聖像画家の卵になるのだと、フォルカは改めてそ れを確認した。 それは二月一日。春の陽射しも間近い聖ロマンドの祝日。あどけない若い聖人を祭るにふさ わしい季節だ。 しら 町をあげてノーマを祝う日に、フォルカは美しいフィドルの調べでそれを祝福してやれない のがほんの少し心残りだ。 教会前の立て札に、処刑の予告文が書かれた。近くに住む者たちはそれを見届けなければな らなかった。 第六章証言 かいど ひざ せいじん
家の後ろ姿を追った。 「お金があってもエーヴァさまはよろこばないとおもうわ」 画家は振り向いた。 「あたしは、この声をエーヴァさまにあげる」 少女の言葉は、工房でそれを聞いていた誰をも驚かせた。 「何じゃと : 「エーヴァさまには心で祈るわ。これからあたしは、だれのためにも、なにがあってもしゃべ らない。この声をエーヴァさまにあげるの」 にうぜん 老人は呆然と少女を見た。 ささ 透き通った愛らしい声で、少女はそれを捧げると言う。 「なにも持っていないと言うが、おまえさんは若さという宝物を持っているではないか。エー ヴァ神の花嫁になろうなどと考えるのはやめなさい」 しかし、既に自分の思いっきを実行にうっしていた少女は、固く口をつぐんだまま、返事も しなかった。 「これ、くだらないことはおやめなさい」 こわね くしん 尼僧はうろたえ、しかし声音をたかぶらせないようにと苦心しながら言った。少女は瞳だけ を動かして尼僧を見たけれど、黙ったままだ。 すで
学都リプサリアで、至高の神を描く聖像画家 を目指し、十年の沈黙の行を続ける少女ノー マ。弟子入りを許されるまであと二カ月足ら ずとなったある日 1 ノーマ。は、」一神に似た容姿。 を持った学生、フォルカ・アスカリナと出逢 ) フ。その日以来、神に声を捧げた少女の心は 少しすっ揺らぎ始めた。一方フォルカも、ノ ノーマと ーマの祈る姿に心魅かれていき : フォルカの聖なる愛を描く、中世ロマンー 恋気分いっぱいの夢 0 小説誌 朝 t 1 3 月、 5 7 9 1 1 月の 8 日発売 隔月刊ですの蕉お求め t< いこともあります 大らかしめ書店にこ予約をおすすめします。 集英社
学都リプサリアで、至高の神を描く聖像画家 を目指し、十年の沈黙の行を続ける少女ノー マ。弟子入りを許されるまであと二カ月足ら ずとなったある日 1 ノーマ。は、」一神に似た容姿。 を持った学生、フォルカ・アスカリナと出逢 ) フ。その日以来、神に声を捧げた少女の心は 少しすっ揺らぎ始めた。一方フォルカも、ノ ノーマと ーマの祈る姿に心魅かれていき : フォルカの聖なる愛を描く、中世ロマンー 恋気分いっぱいの夢 0 小説誌 朝 t 1 3 月、 5 7 9 1 1 月の 8 日発売 隔月刊ですの蕉お求め t< いこともあります 大らかしめ書店にこ予約をおすすめします。 集英社
ルキダ・エルはその娘を知っていた。 かたず ようす 観衆は、固唾をのんでその様子を見守っていた。 むごんぎよう ちんもく 「この娘は、聖像画家を目指して十年近い無言の行を続けている、沈黙のノーマです」 とルキダ・エルが言った。 ざわめきが起こった。 おにめ 「命乞いをしても助けることはかないません。エーヴァ神の思し召しです」 しず 司祭が騒ぎを鎮めるように大声で言った。 ノーマは、泣きはらしたような目で、すがるように司祭を見上げた。そしてしわくちゃにな った羊皮紙を司祭に差し出した。 司祭はそれを伸ばして読んだ。 しよめい セルフィオンが書いて、ノーマが署名したフォルカの無実の証明だった。 「だめだ、これはすべておまえの書いたものではないのだから」 そして、松明を持った執行人に処刑を促した。 フォルカもそう願いたい気分だった。 あしもと 執行人が再び松明の火を囚人の足下に寄せた。 薪に火が移った。 煙を上げて、炎は薪をなめるように広がった。 ようひし