セルフィオンの言葉にはいつもの茶化したような響きが感じられなくて、フォルカは不思議 に田 5 った。 セルフィオンは何かを思いだそうとしているのか、遠くを見る目つきで答えた。 すぐ 「優れもののフィドルを知ってる。おれには詳しいことはわからんが、 : 。ハレの山奥で作ら もんがいふしゆっ ルたっていう、門外不出の製法の」 記憶をたどるようにセルフィオンは言い、フォルカはそれをもどかしく聞いた。 「。ハレの ! 本物なのか ? 」 突然語気を強めたのにセルフィオンが驚いてフォルカを見た。 「気になるか ? 明日にでもそれを見せたっていいぜ」 まろし 「明日ったって。そんなに近いところに ? 幻の名品なのに」 セルフィオンはじらすように言った。 夜 い「所領を断ぐ身に音楽は無用と言わなかったか ? 驚くほど近いところにそれはあるんだぜ」 の フォルカはからかわれているのではないかと、セルフィオンをじっと見つめた。セルフィオ 一ンは真顔で言った。 カ 「明日の夜迎えに行く。もしそれを見せてもらえそうだったらな。 ス ・ : 行く先は細かくきかな ぶんぼう マ いでくれ。まあ、文法教授の自宅だと言っとこう」 セルフィオンのいつになく真面目な表情に、フォルカはそれ以上きけなかった。 くわ
くであろうフォルカをはらはらして見ていた。 学頭のグループは、ホールの後ろの長椅子にかけて、監視体勢にはいっていた。 ( ま、いいさ。聖ロマンドの役なんてどうでも ) せんりつかな フォルカはなかばやけくそで、故郷でよく弾いていた祈りの旋律を奏でようと決めた。 そうしよく かんそ きようめい 教師から借りたそのフィドルは、装飾もたいしてなく、見かけは簡素だったが、共鳴を第一 せいこう に考えて精巧に作られていた。 ふめんだい 用意された譜面台には何も置いていなかった。四線の楽譜などないほうがましだった。 とうめいねいろ 体が覚えているといった感じで、指が自然に動いて、張りのある透明な音色を導き出した。 フォルカ自身、予想もしなかった美しい音に、一瞬たじろぐ。教室にいた友人たちがいぶかし げな顔をしたので、フォルカの弾いている曲はやはり見当違いだったのだと察した。しかし教 師は止めなかった。 ろうろう 祈りの歌が朗々と響いて信者の心に荘厳さと安らぎを与えるようにーー教会のホールはもと もとそんなふうにできていた。 はげ すぐ その音響と、優れた楽器に励まされて、フォルカは演奏を続けた。目を閉じて音色を確かめ てみる。 幼い頃、彼はフィドルの教師に、 りよう びしゅう 「フォルカぼっちゃまは音色の美醜に大変敏感でいらっしやる」と言われたことがあった。領 そうごん
「カシュメリアナ・ : : ・殿 : : : ? 」 フォルカの聞いたことのない名前だった。 えつけん 「すごいだろう ? 何度もお願いして、よくやく謁見かなうんだ」 セルフィオンはどこを見るというふうでもなくうっとりした視線を宙に漂わせた。 しとせいじゃ 「聞いたことないなあ : 、 : : 新しく使徒聖者に名を連ねられた聖女とか・ しようてん セルフィオンはその友人の言葉に、夢からさめたように焦点を定めた。 しようふ 「カシュメリアナ殿も知らねえのか ! 信じられん。彼女は高級娼婦だ。リプサリアは二人の せいぞく 花嫁を隠し持っていると言われている。聖俗の花嫁だ。カシュメリアナ殿はそのひとりだ」 「リプサリアの花嫁 ? 」 フォルカはまたかという顔でセルフィオンを見つめた。 彼がつけたあだ名らしいじゃないかと。 夜 い「そうだ。たまにはっきあわねえか ? 何度通っても声しか聞くことのできないリプサリアの 花嫁をおとしたいんだ」 一「おとす ? 娼婦 : ・・ : を ? 」 けげん あわ カ フォルカが怪訝な顔をしたので、セルフィオンは慌ててつけ足した。 ス マ 「娼婦なんて言うな。おれは今度という今度は本当に惚れちまった。フォルカ風に言うと、 いど すうこう 崇高で清らかな愛だ。みんなが彼女の心を射止めたいと挑んでいるのだが、誰もおとした学生 ただよ
ウリキナはどうした ? 」 「・・ : : ウリキナだな : 「知らない。気の弱い男だわ、後になって恐ろしくなって姿を消してしまった」 フォルカは凍りついたように立ち尽くしていた。 フォルカがちょっかい出さなきや、こんなことにはならなかったのにな そうだ。おまえが殺したんだ。あいつも本望さ ふいに浮かんだセルフィオンの言葉が追い打ちをかけた。 あしもと カシュメリアナはフォルカの足下に身をすり寄せて言った。 「それでもこの苦しさは消えない : フォルカが後ずさった。 「触るな : 夜「いや。わたくしは苦しいの」 長「近づいたらきっと : : : あんたを殺してしまう」 の : いいわ。そうなさい」 レカシュメリアナが白い手を伸ばしてフォルカの腕をとり、自分ののどにあてがった。 ス「あなたはもっと苦しまなければいけないわ。もっと多くのものを失って、自分の手をも汚し ぶじよく マ て、どこまでも堕ちていくの。そして聖なる花嫁を愛し、わたくしを侮辱した罪を悔いてあが したしやじせい なわなくてはだめ。そのためにはわたくしを慕う写字生がどうなろうとかまわない。わたくし こお ほんもう
そう言い終わらないうちに、泥棒もそこへ人るような効率の悪い仕事はしないのだろうと思 っこ。 彼は知らなかった。 夜の間に多くの子どもが捨てられるのだということを。そのためにいつでもその門は開かれ ていたのだということを。 フォルカは中庭に人って行った。 ノーマに会いたかった。 きっと、今ノーマは他の子どもたちと一緒に狭い臥所で眠っているのだろう。 ちょうこくふんすいとう 赤子の彫刻の噴水塔から水が弱々しく流れ落ちていた。ノーマもここで水をくみ、重い水差 しを運ぶのだろうか。 リプサリアの花嫁・ 彼女が本当にそうなのだろうか。 カシュメリアナは確かにそう言った。 ちんもく リプサリアのもうひとりの花嫁、沈黙のノーマと。 そしてセルフィオンもまた、養育院で、くだらない無駄話をやめて質素に暮らす娘だと言っ ていた。あの時は、それが完全な沈黙を意味していたとはフォルカにはわからなった。 ただの偶然だろうか。 ふしど こうりつ しっそ
じゃねえよ。おまえたちも、もう養育院へ戻りな」 セルフィオンに追い払われて後ずさる子どもたちに、フォルカは言った。 「明日また礼拝室へおいで ! きっとだ」 そしてセルフィオンに背を押されてフォルカはようやくその聖堂を後にした。 二月一日。 たいまっ 春を待ちわびて一足先に祝うかのように、人々はこの日、町中を松明や鑞燭で照らし、歌い いやあんそくび 踊る。それは三日三晩続いて、心地よい疲れを癒す安息日を過ごした後、それぞれの仕事と日 常に戻っていくのだった。 若い聖ロマンドはこの祝祭に似つかわしい。 ばんとう 夜辻の聖堂にも、早咲きの花が色とりどりに飾られて、光に満ちた晩冬のリプサリアは一気に 長花が開いたという感じになる。 のが の どんな小さなきっかけも逃さずお祭り騷ぎにしてしまう学生たちも相変わらず、奔放で自由 せいぞうが せいどう しこうしん ス教会は「至高神の審判」を記念して、聖堂に新しいエーヴァ神の聖像画をまつると発表し た。大聖堂や修道院からの依頼を決して受けなかった老画家からその約束をとりつけたと、 しさいじまん 司祭は自慢げにふれまわった。 ひとあし ほんぼう
「よっ、フォルカ。遅いじゃねえか」 「ああ、セラか」 セルフィオン、というべきだが彼はその友人を親しみをこめてセラと呼んでいた。彼はフォ ルカと同じ十七歳だが、もっと大人びた顔つきをしていた。 「財布をどうかしたのか ? 」 フォルカがマントの切れ目から、持て余した。ハンをねじ込んだのに目を留めてセルフィオン が言った。 「いや、なんていうかその : : : 」 きまり悪そうにフォルカが言葉を濁した。 「へつ、わかった。すられたんだろ ? 」 ほそおもて いくぶん狡猾そうな浅黒い細面のセルフィオンが、薄い唇を歪めて笑った。フォルカはこの 町に下宿を移してから間もないというのに、財布を取られたり金を抜き取られるということが ほうもっこ 何度もあって、その度にセルフィオンに「隙だらけの宝物庫」なんていうあだ名をつけられて からかわれていたのだ。 「うるさいな。すられたならここにあるかよ。ほっといてくれ」 フォルカは話をそらしたくてまた足を速めた。セルフィオンは一度もそんな目にあったこと こうかっ ゆが
170 「ばか、フォルカ ! 死んだっていいのか ? おれはあきらめねえからな ! おまえが無実だ ってことを証明してみせる ! 」 「よけいなことは : : : しないでくれ」 フォルカには、セルフィオンの心が泣けるほど嬉しかった。セルフィオンをだましているよ きじよう うで気がとがめたが、彼の厚意を受け取るわけにはいかなかった。フォルカは努めて気丈に振 る舞おうとした。 ね 「ぼくは大丈夫だ。ウリキナに負けられない。同じ拷問にあって、無実のぼくが先に音を上げ るわけにはいかない」 ちんつうおも フォルカがそう言った時、セルフィオンは唇をかんで、今までにもまして沈痛な面もちにな っ ( 。 しやくはう 「 : : : 聞いてねえんだなーーフォルカ。ウリキナは釈放された」 ウリキナは釈放された のうり フォルカの脳裏をその言葉は記号のように何度も通り抜けたが、その意味を理解するのには 時間がかかったように思う。 「つまり、おまえだけが、疑われているんだ、フォルカ。本当のことを言うべきだ。おまえの きゅうちおとしい 小さな嘘はどんどん膨らむ。膨らんでどうしようもなく複雑な形になって、おまえを窮地に陥 れるぞ ! ノーマがおまえの無実を証明できるし、おまえがノーマの無実も証明できるんだ。 ふく
教師は何かを手元の羊皮紙に書きとめ、それから次には別の学生に演奏を求めた。 「いったいどうしたんだよ ? いつもとは別人のようだったぜ。音楽が嫌いだと : : : 」 しんろう ホールから身廊への階段を降りながらセルフィオンが言った。 「嫌いだとは言わなかったさ。四線譜が苦手なだけだ」 フォルカが答えた。 「ルキダ・エル様はしつかりとおまえを覚えたな。フォルカが取りまきにでもなれたら、おれ もそのおこぼれにあずかるよ」 「まさか。でたらめな曲を弾いて大恥をかいただけだ」 ふうが 「しかし : 、おまえにそんな風雅な趣味があったとはほんとにびつくりだぜ。フィドルは昔 から ? 」 かくし 「まあ、そう。家にはいつも楽士がいて、小さい頃からしごかれた。物心ついてからは、 しよりようつ ふうりゅう 所領を継ぐ身だからと、武芸に力を入れて風流はなおざりにしていた。・でもーーあのフィドル いっぴん は逸品だった。あんないい音が出なけりや、すぐに演奏をやめていたのに」 しんみよう セルフィオンは神妙な顔でフォルカを見て、ためらうように言った。 「 : : : 出来のいいフィドルにつられた ? 」 「ああ : そうかもな。なぜ ? 」
ちんもく 「聖なる花嫁、沈黙のノーマ。ーー彼女がなぜきみのところの礼拝堂に ? 」 フォルカはありのままを話した。 こご 「路地の聖堂で祈っておりましたから、凍えるのではないかと思い、礼拝堂で祈るようにと言 いました」 ルキダ・エルは徴笑んで言った。 ほどこ 「なるほど : : : 。噂では何を施しても受け取らないと聞いている。見上げたものだ。くだんの がんこ : そうだ、願いがかなったあかっきには、 頑固な老芸術家も折れないわけにはいくまいね。 もよお 町を上げての祝祭を催すのがいい」 ルキダ・エルはすっかりその心づもりができたらしく、楽しげに続けた。 「その時にはきみも、フィドルで祝ってやりたまえ、フォルカ・アスカリナ。実は聖ロマンド おおやけ 夜役にきみを推そうと思っている。まだ公にはできないけれど」 長予期せぬ光栄な話にフォルカはどう答えてよいかわからなかった。 むじやき の ルキダ・エルは無邪気といえるくらいに陽気に、その後、王家の宝物をひとつひとっ説明し レてフォルカを驚かせたのだった。 カ スそして最後に、さらりと言った。 しんしんぼうしゃ けんか ふうう 「喧嘩も学生の楽しみだが、きみの風貌に派手な傷をつけるのはエーヴァ神信奉者をがっかり させると思うね。ほどほどにしたまえ」