反省をする弥四郎であった。 店に入ると、 「あ、お帰りなさいまし」 と若い女中が洗い桶を持ってすぐにやってきた。 「ただいまし ぞうり 草履をぬぎ、弥四郎は桶で足を洗った。中はぬるめの湯であった。つかれた足には心地がい 見れば、着いたばかりと見える旅姿の男が、女中に揉むように足を洗ってもらって、極楽を 見たような顔をしている。 「神坂さま、すぐにタ飯にしますか ? こ 「いや。外で軽く食べたから、遅くなってから、茶漬けでももらえないだろうか ? こ 末 始「はい。お酒はいかがなさいますか ? 」 「風呂の後でもらおう」 牙「かしこまりました。お風呂はいつでもどうそ」 狼「ありがとう」 群 弥四郎は、素直に頭を下げた。 侍なのに少しも偉ぶらぬこうした態度に、店の者も好感を持っている。料理に余計に一品っ おけ
122 それから四人は、顔をつきあわせるようにして、何事かを話し合っていたようである。 「いっそ」 とカ てつじ 「鉄治」 とかいう言葉が、切れ切れに漏れた。 そうして、彼らは店をでていくと、ちりちりになって、夜の町へと消えていった。 三条大橋は、京から見れば東海道の起点であり、江戸から見れば終点であった。 はたご 見送り、迎えの人も多く、橋の両側には多くの旅籠が並び、人を出迎えた。 らくちゅう 『武蔵屋』は、大橋の西 : : : つまり洛中にあり、さほど大きい旅籠ではない。 それでも、小さいながらも中庭があり、広々とした風呂もついていた。 神坂弥四郎は、京に着いて以来ずっと、この武蔵屋に泊まっている。金は、初日に、あるだ けを渡してあった。 店の者も親切で、弥四郎は武蔵屋がたいそう気に入っていた。 だが、金もやがて尽きる。 稼ぐ必要があった。だが、 ( うまい話に思わずのってしまったが、いかぬ。これからはもっと気をつけなくては ) とうかいどう
238 ぶんきゅう 年が明け、文久三年 ( 一八六一一 l) となった。 てんちゅう ひど あれからも京では、天誅があとをたたず、志士たちの横暴は、ますます酷くなるばかりであ あまのしんたろう 天野慎太郎の忙しさも目がまわるほどで、その下で働いている文七も、すっかり顔を見せな くなった。 ましらぶんきち 仲間の、猿の文吉が殺されたのも、あの閏八月である。 とさきんのう 犯人は、土佐勤王党であろう、というのが世情の評判であったが、証拠がなく、結局は誰一 人捕らえることができなかった。 きレ史っとしゅ・」しよく この八月に、京都守護職が代わっている。 ひこね あいづ まつだいらかたもり それまでの彦根藩から、会津藩に御役目が移され、時の藩主であった松平容保が守護職に任 じられた。 うっ ぶんしち
194 「それよりも、全員そろったかね ? こ 「あ、叔母さんがまだーー」 お雪が言ったとき、ようやくに道代がやってきた。取り残されたものがいないかどうか、忘 れたものはないかどうか、確かめに行っていたのである。 「よし、じゃあ避難しよう」 順栄の掛け声で、戸が開けられ、一同はそろって店の外に出た。 表の通りは、家々かられ出した人で、祗園祭の時のような混雑であ 0 た。 順栄は、 「なるべく離れないようにするのじゃ」 と店を出る前に皆に言ったが、それは無理な相談であった。 山杉屋の人々の間にも、すぐに他の人々が入り込み、押しあいへしあいになった。 だが、少し様子がおかしい。 普通であれば、鴨川を越えようと、人の流れは東へと動いているはずなのだが、それが違っ ている。 先を急ごうとする者あり、立ち止まっている者あり、戻ろうとする者あり、であった。 立ち止まっている者は、何やら不審そうに、互いに顔を見合わせたり、辺りを見回したりし ている。 かもがわ
出口側の、ついたての向こうの席から、 かわち 「河内 : ・ という言葉が、微かに聞こえてきたものである。 酔いが、さっと醒めた。その一言は、卯吉の探索に、深く関わりのある言葉であったのだ。 だが、卯吉は何事も聞こえなかったかのように、何気ない様子で店を出た。 かんじよっ 勘定をすませてしまった以上、また席につきなおすのはおかしい。 卯吉は店の左にまわると、閉じられた雨戸を慎重に動かそうとした。位置的に、ここからな ら、先刻の言葉を吐いた連中の姿が、見えるはずであった。 ( 関係ねえかも知れねえが、もしや、ということもある ) 雨戸は音を立てることなく、何とか毛筋よりは少し大きく開いた。 すきま 卯吉は、そろそろと、その隙間に顔を近づけていった。途端・ : 「がっ ! 」 凄まじい衝撃を、首筋に受けた。 ( し、しまった : : : ) どう、と卯吉は倒れた。体が動かぬ。見えるのは、土ばかりであった。 人の気配が押し包むように迫るのを感じ、卯吉は必死に動こうとしたが、果たせなかった。 こんな : ( ち、ちくしよう ! すさ かす
と斬りつけるように言った。 「 : : : 貴殿、悪い奴だそうだな」 そうはっ ぬ、と闇の中から現れたのは、黒の小袖に袴の、総髪の浪人であった。歳は鷹一朗と同じく らいに見えるから、実際は五つ六つ上だろう。刀を正眼に構え、いささかも揺るがぬ。 あるじ 「妹を売り払い、その体を思うままにしているその店の主から、口止め料として、相当な金を 強請り取っているそうではないか」 鷹一朗は舌打ちをし、脇差しを片手にて下段半身に構えた。 提灯は燃えっきつつある。 「言っておくが、そいつは言いがかりってもんだ。 ・ : といっても、どうせ、言い訳だ、と思 っているのだろう ? こ 闇の中で、浪人は薄く笑ったようだ。 始提灯が、燃え尽きた。 罰互いの姿は、闇に呑まれて、完全に見えなくなった。 ーー途端、 牙 の「やあっ ! 」 群「たあっ ! 」 激しい気合声が夜に響いて、一瞬、白い火花が二人の顔を映し出し、消えた。 こそではかま
残された男は仲間と浪人を交互に見つつ、どうすればよいかを決めあぐねた。 「 : : : もう、投げるもんはねえ。今度は斬るぜ」 その一言で決まった。 なぐ うめ 男はそれでも感心に、堺を殴るようにして起こし、痛みに呻く男を引きずるようにして逃げ 去った。 町衆の間から歓声が起きたのは言うまでもない。 ′」ようき そこへようやっと、この辺りを任されている御用聞きがやってきて、浪人を見ると、 「や、坊っちゃん : ・ と驚いた顔をした。 「遅かったね、親分。もう逃げてしまったよ。捕まえてもよかったんだが、余計な仕事を増や しても、と思ってね」 「これはどうも・・・・ : 」 四十に手が届くのではないか、というこの男は文七といし たく 託なく頭を下げた。 しんしし 「また、維新志士ですかい ? 「そう名乗ってはいたが、・ とうせ、どこかの喰い詰め浪人だろう。今の御時世、志士を名乗れ ば金になる」 ぶんしち さむらい 、二十は年が下の侍に向かって屈 くっ
あるじも だが、どこかちぐはぐであった。とうてい主持ちには見えず、どこか、無頼の臭いを漂わせ ている。 先頭を行く男が不快に堪えぬと言った顔で、 「えい、暑い。暑くてかなわぬ」 と文句を言いながら、ぎろりぎろり、とすれ違う町人を睨みつければ、 残りの二人も、 「いや、まったく」 「苛々する」 まゆ などと答えては、同じように人々に凶悪な視線を投げる。と、町衆は眉をひそめ、そそくさ と道を開ける。 それがまた心地よいと見え、男たちはますます胸をそびやかせ、ときおり鞘を叩いて見せて 末は笑いあう。 党 : まことに下品であった。 罰 ~ 近頃はこうした男たちが日に日に増えている。目が合ってしまい、白昼にもかかわらず、さ なぐ のんざん撲りつけられ、金を奪われた者も少なくない。 群 を行所 ( 今で言う警察署 ) も取り締まってはいるのだが、いかにも手が足りず、治安は悪く なる一方だった。 にら さや にお
夜の庭に、子供が一人、立っていた。 かりぎぬたかえぼし 狩衣に高烏帽子という姿である。顔は、月のせいか気味が悪いくらいに白く、なんの表情も 古き時代の幽霊とも見えた。だが、 「 : : : なんだ、あんたか」 鷹一朗は平然と言って、縁側に腰を下ろした。 あマし 「狩野鷹一朗。我が主がお召しじゃ、来るがよい」 そう、子供が言った。 おおぎよっかたまゆ だが、鷹一朗は答えず、大仰に片眉を上げて見せただけであった。 「狩野。我について参れ。主がお待ちじゃ」 ~ 「断る・せ」 党 天「いいかげんにしてもらいてえな。狩野の当主というだけで、か手前らのいうことを、はい はい、聞くと思ったら大間違いだぜ、とは何度もいったはずだ」 狼「狩野。我にーー」 群からくり 「唐繰人形じゃあるまいし、毎度毎度同じ口上を言い立てやがって。大概にしねえと、その 首、叩き落とすぜ」
「とにかく、いましばらくは、俺の好きにさせて貰います。なに、叔父上はいつものとおりに していてくださればいい」 「まことに申し訳ない」 そう言ってまた、弦衛門は深々と頭を下げた。 と、 だんな 「旦那さまー けいたろう ろうか 廊下より、圭太郎の呼ぶ声がした。 「なんだ ? いま、鷹一朗さまが来ておられるのだそ」 しんすけ 「申し訳ございません。ただ、信介がもどらないのでございます」 「な、なに ? 」 ~ 弦衛門と鷹一朗は、顔を見合わせた。 始信介は一昨年に山杉屋に入ったばかりの、丁稚である。十一だったが、よく働き、故郷に姉 天かいるからか、お雪には特になついていた。 牙「まさか : : : 」 狼「叔父上、信介はどこへ ? 」 群 鷹一朗はもう、立ち上がっていた。 ひらの ひがしほんがんじ 「今日は、東本願寺の西の、平野町にある煙管屋に私の頼んでおいた煙管を取りに : : : まさ きせるや でっち もら