168 そう声がして、仕切りの向こうから女中が顔を出した。手には、頼んでもいない酒がある。 「むこうのお侍さまからです」 と、言って、女は酒を置いた。 振り向くと、ひどく童顔の侍が会釈をしてよこした。 ちトでつしちょこ その侍は、自分の銚子と猪口をもってやってくると、 「よろしいかな ? 」 と声をかけてきた。 き 座敷に上がってもよいか、と訊いているのである。 ′」ちそう 三人は顔を見合わせたが、酒を御馳走になれる嬉しさもあり、男を座敷に上げた。 せっしゃ なかやまげんご 「拙者、長州浪人、中山源吾と申す」 女中が去ると、男はそう名乗った。 「拙者は境権丈。こっちは小沢志郎と川上鉄八と申す」 「これは御丁寧にかたじけない。さ、まずは一」 中山と名乗った浪人は、銚子を手にし、三人の猪口に酒を注いだ。 これを一口和み、 「むう」 うな と三人共が唸った。 さむらい うれ
驚くこともなく、殺到してきた。 三本の白刃が同時に打ち込まれた、と見るや、倒れたのはその三人であった。 一人は腕を肩から斬り落とされ、一人は腿を切断され、残る一人は脳天をばっくりと斬り割 られていた。 はやわざ あまりの迅業に、侍たちの動きが止まった。 すると、涼しげな顔をして立っている鷹一朗を見て、内の一人が、 「あっ」 と声を上げたものである。 鷹一朗は、顔をそちらに向け、誰であるか気が付くと、 「なんだ、てめえらか」 と言って薄く笑った。 末 ざむらい 始 いたのは、あの『こぶ侍』の一行であった。 党 そのとき、一一階の方でも悲鳴が上がり、会合の行われている部屋から、弥四郎が出てきた。 牙表からだけでなく、屋根づたいに押し込んでくる可能性を考え、弥四郎を一一階に残しておい 狼たのがあたったようであった。 群かりの 「狩野殿、こちらは片付いた。おや ? そなたたちは : : : 」 「げえっ ! 」 は′、しん
172 三人は互いに顔を見合わせ、大きく頷いた。 「よろしい」 とか言った。 「では、詳しいことは、これから打ち合わせましよう。この店を出たところで、小僧が一人、 待っております。その者が、我らが隠れ家へご案内致します。さ、先生ー 「せ、先生か・・ : : うむ。参ろう」 三人は立ち上がり、すっかり自信を取り戻した様子で、座敷を出ていった。 中村浪人は、ついたてから表をルき、小僧に頷いて見せた。 そうして、三人が小僧に連れられて行ってしまうと、大きく息をついて座り込み、げらげら と笑い出した。 心配して覗きに来た女中を、乱暴に追い払うと、中村浪人と名乗った男は、童顔の顔に凶悪 な笑みを浮かべ、 「馬鹿な爺いどもが」 とつぶやいた。 いっとき 鷹一朗は、お雪を、一刻ほども抱いていた。 あぐら 胡座をかいた鷹一朗の足の間で、いまは子供のように体を丸め、泣きっかれて眠っている。 じじ うか争・
床には、しつかりと刀を握ったままの腕が残されている。 鷹一朗は休むことなく、するすると右手の三人に近づくと、こいつらの腕を斬り落とし、そ のままくるりと身を返して、左に固まっていた二人の間に飛び込むと、その足を腿から切断せ しめた。 圧倒的であった。 てめえ 「な、なんなんだ・ : ・ : なんなんだよ手前はあー 鉄治郎はもう、泣き声であった。 そのとき、後ろでも悲隝か上がり、振り向けば仲間の一人がやはり、弥四郎に腕を肩からそ がれて、泣きわめいて転がっていた。 「わあっー ~ 自棄になった二人が、弥四郎をめがけ斬りかかっていった。 始この二人、白宵にからんでいた奴らである。 だが、たちまちにして腕と足を切断され、道場に転がる羽目にな 0 た。 「うわあっ ! 」 狼「た、たすけてくれえ ! 」 群 鉄治郎に張りつくようにしていた二人が、ついに刀を投げ出して、逃げだした。 しつぶう 鷹一朗と弥四郎は、その背中に疾風の一刀を送った。
116 「え ? ああっー てのひら 二人のうち、一人は足を払われ、もう一人は胸を掌で突かれて、尻をついた。 鷹一朗は、素早く白宵を背中に隠すように、三人の前に立った。 すぐに顔を上げた男たちの表情が、見る見るひきつった。 「あっ : : : 」 と誰かが言ったきり、言葉も出ない様子であった。 鷹一朗は七尺あまりの大男である。 それが不動明神のごとき怒りの形相をして、下からの燃える提灯の明かりに浮かび上がって 見下ろしているのだ。 恐ろしくないはずがなかった。 おび 怯えのあまりか、一人が腰の脇差しに手をかけようとした。と、 低く、轟くような声で、鷹一朗が言った。 「そいつを抜いたらしまいだ・せ」 す、と鷹一朗が右足を滑らすように連中の方へと踏み出した。 連中は、押されたように、尻をついたまま後ろに下がった。 とどろ ちょっちん
「代わりに、少し待っていてください。なに、すぐ済みます」 文七は、戻っていた手下を呼ぶと、その男に、これから向かう場所へ、すぐに捕り方をよこ してくれるように、天野への伝言を頼んだ。 男はすぐに走り去った。と、 「鷹一朗さま」 なかなか戻らぬ三人を案じてか、弦衛門が店の外へと出てきた。 「なにか、あったのですか : おじうえ 「ひょっとすると、何かわかるかも知れないのです叔父上。ああ、心配はいりませんから、店 の中に入って、我らが戻るまで、決して外に出ないでください」 「ああ、言うとおりにしますよ」 ~ 「さ、参りましよう」 始文七が促し、三人は夕刻の道を走り出した。 らくがい めざすは洛外、東九条である。 牙 狼この頃の東九条の辺りというのは、一面の畑であった。 みずな 群ねぎ 葱やくわい、水菜などが採れ、 「京の野菜は、江戸とは比べものにならぬほど旨い」
170 そこで境は、 「ああ、あれか」 と頷いて見せた。ほかの二人もすぐに、境の胸の内がわかった様子で、 「まさに」 とか、 「あの時か」 などと言いあった。 「思い出されましたか ? 」 「うむ。まったく、近頃はああした、けしからぬ者が多い」 境は胸を反って、そう言った。 いてき 「これから夷狄と、命を賭して戦おうという我らに、金出すことを惜しむとは、実に許せぬ」 「そのとおり」 「さすがは、境さんだ」 と二人が境を持ち上げると、境はますます胸を反らして、鼻息を荒くした。 「さすが、ご立派です」 中村浪人は、深く頭を下げた。 「そこで、御三人を見込んで、お話があるのですが : うた争・
陽も落ちて、あたりは静かだった。 時々茄子をつまみながら、酒を注いでは呑み、呑んでは注ぎ、を繰り返していると、騒がし ろうか く廊下を来る足音と、 「お待ちを。お待ちください」 と声をひそめて言う、女中の声が聞こえてきた。 弥四郎は早くも、大刀を左腰にひきつけていた。 しつじ 足音がやんで、次の瞬間には、障子が引き開けられていた。 侍が三人、恐ろしい形相で立っていた。 例の、こぶ侍である。 すいか まさに、鷹一朗が西瓜を投げつけて懲らしめた、あの侍たちであった。 ~ 弥四郎は、うろたえている女中に頷いて見せた。 始下がれ、と無言で言ったのである。 女中は心配そうにしながらも、弥四郎にあとを任せた。 牙三人は部屋に入ると、後ろ手に障子をびたりと閉めた。 狼どの顔にも怒りが浮いている。 まね 群 「お主、あれはなんの真似だ ! 」 さかい 立ったまま、こぶ侍ーー撞か言った。右手がひくひくと動いている。いつにでも、刀を抜い うナ手・
214 と評判の京野菜の産地である。 無論、人家はほとんどないから、夜ともなれば真っ暗な闇となり、伏見と京をつなぐ街道 ひとけ も、人気は途絶える。 あぜみち やってきた鷹一朗たちは、目指す家から少し離れた場所の畦道に立つ、地蔵を祀る社の陰 に、寄り添うようにして身をひそめていた。 「こいつは何とも見張り難い」 と文七が言ったように、辺りは畑のため、身を隠す場所がなかった。いまは夜が隠してくれ ているが、昼間であれば、三人は目立っことこの上ない。特に鷹一朗は、七尺余りの大男であ る。 はいおく 三人が見ている家は、以前はこの辺りの者に剣術を教えていた道場で、いまは廃屋となって いるそうだ。 ぶぎよう いまの洛外、洛中にはこうした家が結構あって、それが移り賭場になっていることは、奉行 所の方でも承知している。 ここも、そうした場所のひとつであったが、いま賭場は別の場所で開かれているはずであっ とも だが、家には明かりが灯っている。厳重に戸締まりをしているつもりでも、まったくの闇の わず 中では、僅かな明かりでも目立つものだ。 ふしみ まつやしろ
境内から聞こえてくる蝉の声が、いまだ耳を聾せんばかりであった。 なか もはや八月も半ばを過ぎたというのに、蒸れた風がべたべたと肌にまとわりついて、まこと に暑し すれ違う人々は、 「暑いですなあ」 「ほんとうに。今年はいつになく、暑さがきついですなあ」 あいさっ などと挨拶を交わし合っている。 昼日中だけあって、通りには人も多い さむらい ぶつこうじ そこを三人の侍が、仏光寺を左手に見ながらいかにも威張って歩いていた。 たてじま もめんこそではかま いずれも縦縞の木綿の小袖に袴という格好で、腰には一一本の刀を差している。月代も綺麗に そ 剃っているし、着物も新しい けいゼい 序 せみ ろう さかやききれい