208 食べながら、 おばうえ ( これはなかなか旨い・せ。今度は、叔母上とお雪を連れてこよう ) と考えた。 それには、無事で救い出す必要がある。 食べ終わったらすぐにもまた、聞き込みを再開するつもりの鷹一朗であった。 ちょこ どんぶりの汁も残らずたいらげ、猪口に残った酒を嘗めるように飲んだ。 鷹一朗は、ふう、と満足気な息をつくと、 「さて、と」 と一一 = ロい 「隣の入れ込みにいるあんた。俺に何か用かい ? 」 と静かな声で言った。おそらくは、障子の向こうの影以外には届かぬ、そんな声である。 「先刻から、こっちの気配を探っていることは、お見通しだぜ」 「 : : : さすがであるな、狩野鷹一朗」 まゆ 名を呼ばれ、鷹一朗は眉をひそめた。 その声には、聞き憶えがあった。確か、増水した鴨川の上で、互いの乗った船を寄せて面談 した、あの時の人物の声だ。 鷹一朗は舌打ちをした。 し・つじ かもがわ
「もういいだろう、親分」 と一 = ロった。 ただの声ではなかった。静かだが気合を込めた声である。その場にいた全員が、はっと、鷹 一朗を振り向いたほど『カ』のある声であった。 「お、お助け・ : : ・」 息も絶え絶えの声でそう言ったのは、河内屋の主であった。 「親分、もういいだろう ? こ 「しかし : ・ 「卯吉さんが死んだのは、この人の罪じゃない。女房を殺され、次は娘だと言われりゃあ、金 もだそうってものさ。・ : ・ : そんなところなんだろう ? 河内屋さん」 うなず ~ 河内屋は激しく頷いた。 始「だがなあ、お前さんは、女房が殺されたとき、奴らのことを親分に話すべきだったぜ。そう おかみ 罰すりゃあ、御上にも手の打ちょうがーーこ しはんとき なきがら 「に、女房の亡骸は、店に届けられたのです ! す、すぐに、四半刻の内に金を三条大橋に置 牙 の かないと、今度は娘を殺すと文が : : : 文がいっしょに : ぎよってん 群「それで仰天して、すぐに金を置きにいった、と言うわけか」 文七が斬りつけるようにいうと、河内屋はがつくりとうなだれた。
えさ おじうえ 「叔父上たちは、餌、というわけだな」 あまのしんたろう と鷹一朗がいうと、天野慎太郎はニャリと笑ってそれを肯定した。 無論、弦衛門らも、そんなことは先刻承知である。知っていて、奉行所の願いを聞き入れた のは、早いところ事件を片付けてしまわなければ、どの店も商いに、 「大きな支障が出る」 そろぼんかんじよっ との、算盤勘定であった。 「では、はじめましようか」 いぬこく 戍の刻 ( 午後八時 ) の少し前、山杉屋弦衛門の声で、文久三年の、公家方との商いの取り引 き額を決める、会合が始まった。 ~ 「静かでござるな」 ろうか 始といった弥四郎の声は、薄暗い廊下に吸い込まれた。 鷹一朗と弥四郎の二人がいるのは、『丸水庵』の二階へ、階段を上がりきった所である。 牙二階への階段はこれひとっきりで、賊が表から侵入してきたならば、容易に迎え討っことが 狼できる。廊下には、一定の間隔で蝋燭が壁にかけられているが、やはり薄暗い 会合が行われている部屋は、すぐそこである。閉じられた襖の向こうからは、時折ぼそぼそ 1 いう声が聞こえてくるものの、内容まではわからぬ。 ろうそく ぶんきゅう ふすま
すると闇の中から、 「おい、そいつは駄目だ ! 逃げろ ! 」 と声がした。 すき 鷹一朗が、ふ、とそちらに目をやると、その隙に男たちは脱兎のごとく逃げ出したものであ 追うつもりはなかった。 向こうの辻で、声をかけたとおぼしき男が、三人を迎えるようにした。 闇に見え隠れした男の顔を、鷹一朗は知っていた。 せとや ( あいつは、瀬戸屋の次男坊じゃねえか ) ~ であった。 おうぎや 始瀬戸屋は扇屋である。京でもかなりの大店で、 「瀬戸屋の扇でなくては」 牙という客も多い 狼 ( 確か、平伍とかいったな ) 群 振り返りつつ逃げて行く男たちを見つつ、鷹一朗は名を思い出した。 あるじ 平伍と会ったのは、去年である。瀬戸屋の主が、山杉屋に扇を納めに来たときに連れていた る。 おおだな だっと
234 鷹一朗は、 ぎ ( このまま、押し斬りにしてくれる ! ) とさらに力を込めた。 「ひいっ ! 」 男の口から、悲鳴のような声が漏れた。と、 鷹一朗は刀を外し、真横に飛んだ。 立っていたところを、小刀がキラリと光って過ぎた。 ( しまった ! ) 急な動きに、体がぐらりと揺れた。達人を相手に、致命的であった。だが いぞう 「やめや、以蔵 ! 」 いままさに飛びかからんとした男の動きが、その声にびたりと止まったかと思うと、あっと さむらい いう間に飛びすさり、いつの間に現れたか知れぬ侍の側に、膝をついていた。 鷹一朗はもう、がつくりと座り込んでしまっていた。息が荒い。 「・ : : ・誰だい、あんたらー ようやく、それだけを言った。 立っている侍は、着物も上等なものを着ていて、立ち姿にも主持ちの雰囲気がある。こちら あるじ ふんいき
192 じんじよっ 明らかに尋常ではない気配が、ひたひたとこの『丸水庵』へ迫りつつあるのを、鍛え抜かれ た剣士としての蹙見が、捉えたのだ。 「・ : ・ : 神坂さん」 「うん」 教えるまでもなかった。弥四郎も気がついていたようだ。 一一人はそれそれに刀を手にすると、立ち上がって腰に差した。 すでに分担は決めてある。 鷹一朗は、音を立てずに階段を下りた。 表の戸が蹴られたのは、まさにその時であ 0 た。 「火事だあ ! 火事だそう ! 」 という声と、狂ったように打ち鳴らされた半鐘に、それぞれの部屋で息を殺すようにしてじ っとしていた山杉屋の人々は、飛び上がらんばかりに驚いた。 店の裏手から、 「火がそこまで迫っているそお ! 」 という声がしたのを聞いた道代は、店の者にすぐに避難の準備をさせた。 夫の弦衛門や鷹一朗からは、決して店から出ないようにと言われていたが、火が迫っている はんしつ
庭の木に留まった蝉の声が、うるさいくらいであった。 ひざもと 文七の膝元では、茶が湯気を立てている。それには手をつけず、文七は鷹一朗をじっと見つ めていた。 さば 売れ残りを捌く、風鈴売りの声がどこからか聞こえていた。 「さて」 ゅのみ ややあって、湯呑を置き、鷹一朗は言った。 「親分は、昨夜の事を聞きに来たのだね ? こ 「そのとおりですー 「そうか」 「 : : : 他の事なら、私も何も聞きません。だが、昨夜の事は、川島さま殺しが絡んでおりま おかみ ~ す。御上の御用を与かる以上、放っておくわけには参りません。 : : : 坊っちゃん、あれはいっ 始たいどこの誰です ? 」 罰鷹一朗は腕を袖に入れて組むと、目をすうと細めた。 ~ 「坊っちゃん」 の「知らねえんだよ」 群「ーーー坊っちゃん ! 」 「親分、本当の事なのだ」 そで せみ かわしま
畦の辻に、誰かがうずくまっている。 膝と手を地面について、苦しそうであった。 遠目にも、腰の刀はわかった。 鷹一朗は駆けて行くと、 声をかけた。あたりにが散らば 0 ている。 「大丈夫か ? 」 「はい : : : 大丈夫、です」 と苦しげな息の下で言った声が、若衆のように高かった。 きやしゃ 華奢な若者である。うつむいた後ろ姿からも、体があまり丈夫でないことは、見てとれた。 ~ それにしても、なんという肌の白さであろうか。 のぞ こそではかま 始着ている小袖と袴は、ずいぶんとくたびれて汚れてもいるが、襟から覗くうなじの白さは、 罰白粉を塗ったよりもさらに白い そうはっ 牙総髪を引き絞って髓を結っていて、ほっれた毛が幾筋か、うなじから首筋に流れていた。 狼小さな肩が、ときおり震えるのは、第のためのようだ。 群 やがて、落ち着いたのか、若者は何とか立ち上がると、くるり、と後ろを振り返り、 「御心配をいただき、ありがとうございますー つじ えり
「馬鹿が ! ぶち殺せ ! 」 てんばっとう 鉄治郎の掛け声一下、天罰党の面々はいっせいに刀を抜き払った。 勝手口を叩く音に気づいた見張りの男は、何事かとそちらへ寄り、 「なんだよ ? 」 と訊いた。 「あ、あけてくれ。大変なんだ」 れた声でそう答えが返 0 てくると、見張りはただならぬ気配を察したのか、すぐに心張り を外し、戸を開けた。 途端、風のように跳び込んできた黒い影に、男はいきなり顔面を殴りつけられ、鼻と前歯を こんとう ~ 全て折って昏倒した。 始「あっ、神坂さま ! 」 影の正体に気づいた道代が、思わず声を出したのと、障子が引き開けられたのは同時であっ ろうか 狼何事かと顔を出した廊下の見張りは、迫りくる弥四郎に気がつくと、刀を半ば引き抜いたが 群 果たせなかった。 「ぎゃあっ ! 」 しトつじ なぐ
168 そう声がして、仕切りの向こうから女中が顔を出した。手には、頼んでもいない酒がある。 「むこうのお侍さまからです」 と、言って、女は酒を置いた。 振り向くと、ひどく童顔の侍が会釈をしてよこした。 ちトでつしちょこ その侍は、自分の銚子と猪口をもってやってくると、 「よろしいかな ? 」 と声をかけてきた。 き 座敷に上がってもよいか、と訊いているのである。 ′」ちそう 三人は顔を見合わせたが、酒を御馳走になれる嬉しさもあり、男を座敷に上げた。 せっしゃ なかやまげんご 「拙者、長州浪人、中山源吾と申す」 女中が去ると、男はそう名乗った。 「拙者は境権丈。こっちは小沢志郎と川上鉄八と申す」 「これは御丁寧にかたじけない。さ、まずは一」 中山と名乗った浪人は、銚子を手にし、三人の猪口に酒を注いだ。 これを一口和み、 「むう」 うな と三人共が唸った。 さむらい うれ