庭の木に留まった蝉の声が、うるさいくらいであった。 ひざもと 文七の膝元では、茶が湯気を立てている。それには手をつけず、文七は鷹一朗をじっと見つ めていた。 さば 売れ残りを捌く、風鈴売りの声がどこからか聞こえていた。 「さて」 ゅのみ ややあって、湯呑を置き、鷹一朗は言った。 「親分は、昨夜の事を聞きに来たのだね ? こ 「そのとおりですー 「そうか」 「 : : : 他の事なら、私も何も聞きません。だが、昨夜の事は、川島さま殺しが絡んでおりま おかみ ~ す。御上の御用を与かる以上、放っておくわけには参りません。 : : : 坊っちゃん、あれはいっ 始たいどこの誰です ? 」 罰鷹一朗は腕を袖に入れて組むと、目をすうと細めた。 ~ 「坊っちゃん」 の「知らねえんだよ」 群「ーーー坊っちゃん ! 」 「親分、本当の事なのだ」 そで せみ かわしま
息巻いているんでございますよ。卯吉はそいつらにやられたので」 「やった奴はわかっているのかい ? 」 「さ、それが、見たことのない顔だと。こっちも、手があいていれば、、卯吉にあちこち面通し をさせにいかせるんですが、なにぶん、手が足りねえくらいなので、今回は目をつぶらせまし た」 「そいつは災難だったなあ、卯吉さん。いったい原因は何だい ? こ だんな ′」よう 「それが、わからないんで、旦那。蕎麦を売りながら、親分の御用の手伝いしておりやした いんねん ら、急に因縁をつけられたんで。酔っているようにも見えなかったし、か何をしたってわけ でもねえ。どうなっているんだか : : : 」 あへん 「阿片でもやっていたものか・ : : ・」 にお 「いえ。それなら臭いでわかりますぜ。だが、奴らからは、そんな臭いは、しませんでした 「ふうむ : : : しかしまあ、用心したほうがいい」 がき 「へい、気をつけます。まったく、危うく骨を折られるところでした・せ。近頃の餓鬼は、加減 てものを知らねえ」 「危ない危ない。腕を折られたら、蕎麦が打てなくなっちまう。おまえさんの打っ蕎麦は、香 りも腰も違うと、お雪がいたく気に入りでね。それが食えなくなったりしたら、かお雪に泣
てんちゅう 『天誅』と称する暗殺事件が頻発する江戸 かたやからろうぜき 末期。維新志士を騙る輩が狼籍を尽くす京 の町に、正義感れる一人の若侍がいた。名 を、、「郎。彼は御用聞きの文七ととも に、とある暗殺事件を探っていた。そんな或 る日、叔父乢杉衛門の所に『天罸党』を名 きんす 乗る脅迫状が届いた。金子五百両を用意しな ければ天罰を下すというものである。混心極 める幕末に忽と現れた天罰党の正体とは ? しん 恋気分いっぱいの夢豊小説誌 朝 t 1 3 月、 5 7 9 1 1 月の 8 日発売 隔月刊ですので、お求しにともあります あらかしめ書店にこ予約をおすすめします。 集英社
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末 始「まことにもって、面目ない」 こうべた 罰 そう言って深々と頭を垂れる伊東順栄に、山杉屋弦衛門はこれも深々と頭を下げ、 天 牙「とんでもございません。悪いのは、さらったやつらで、先生ではありませぬ。どうかお顔を 狼お上げください」 群 と一一 = ロ - ったものである。 だが、その顔には血の気がなく、心なしかも深くな 0 たように見えた。 「どうした、鷹一朗 ? こ 慎太郎がそう訊いたとき、御用聞きの一人が息せききって店に飛び込んできて、 「た、大変です、天野さまー と一 = ロった。 「おい、何があったー 「み、店の : : : ここにいる大店の身内が、さ、さらわれたのでございます ! 」 「な、何だって ! ーーあ、鷹一朗 ! 慎太郎の声を無視し、鷹一朗は『丸水庵』を飛び出すと、夜の通りを韋駄天のごとく走っ おおだな ′」ようき だてん
「ま、考えるだけは考えておくぜ」 月に雲がかかり、再び晴れたときには、武市瑞山と、以蔵と呼ばれた剣士の姿は、すでにな かった。 「首を、持っていかれちまったなあー たんそく 鷹一朗は、嘆息した。 翌日、宇郷重国の首が、河原に晒された。 べっとほうしゅう 鷹一朗のもとには、あの御簾むこうの公家から使いが来て、別途報酬として五十両が届けら れた。 鷹一朗は、無論、受け取らなかった。 これは、宇郷を斬ったのは自分ではない、と言っているようなものだが、そんな事は向こう は先刻承知であろう。 なにしろ、 ( 連中の探索カってのは、閻魔さまが持っているって話の、『真実を映す鏡』もかくやってく すげ らい凄えからな ) であった。 えんま さら
を出し、あとは、 「おやすみなさい」 と頭を下げて、部屋に戻った。 余計なことを聞かぬ、お雪の心遣いが、鷹一朗にはありがたかった。 やますぎや せつかく『山杉屋』の養女となったのだから、 ちなまぐさ ( 血生臭いこの世の闇とは、無縁でいた方がいいのだ ) そう思っている。 この夜、鷹一朗が眠ったのは、明け方近くであった。 お雪が下がったあと、刀の手入れをしていたためである。 ′、さ ちあぶら 鞘に水が入った上に、刀の血脂をそのままにしておけば、刀は錆び、鞘は腐ってしまう。 早い手入れが必要だったのだ。 それにしても : ・ ( これくらいのことで邪を引くとは : : ・・俺も弱くな 0 たものだ ) 鷹一朗は苦笑した。 寝乱れた着流しの上に羽織を着て勝手にいくと、小鍋の中に鯉節でとった出汁が張られてい て、脇におひっと、卵が二つおいてあった。 ひめし 鷹一朗は鍋を竈にかけると冷や飯を入れ、軽く煮立ったところで卵を入れてかき混ぜ、雑炊 さや かま はおり かつおぶし だし ぞうすい
鷹一朗が、そんなことを一人煩悶していると、 「坊っちゃん」 文七が、緊張した声で呼んだ。 「何か起きたようですぜ」 ちょうしゅう たかせがわ その頃、高瀬川沿いの長州屋敷側の居酒屋で、沈痛な顔つきで酒を呑む、三人の侍の姿があ 例の、こぶ侍たちである。 奥の座敷で、互いに口をききあうこともなく、彼らはただ、酒を飲み続けていた。 きんのうしし さかいごんじよっ こぶ侍ーー境権丈は、京に来てからはずっと、勤王志士を名乗り、さまざまに悪いこともし やしろうこなみじん ~ て、自分にも自信がついてきたところであったのだが、それを、鷹一朗と弥四郎に粉微塵に砕 ししっちん 始かれ、すっかり消沈していた。 おわり おざわしろうかわかみてつばち 罰仲間の一一人、小沢志郎と川上鉄八も同様であった。尾張城下にいた頃から、境について悪さ しつきん 牙をした仲であり、境には一目おいていたのだが、西瓜を頭で受けて気絶し、みつともなく失禁 狼した姿を見せられては、それも揺らぐというものだった。 群 だからといって、いまさら境のもとを離れて、何かができるとも思えぬ、両名なのである。 「失礼いたします」 はんもん の さむらい
白玉売りの声に混じ 0 て、味の音が聞こえている。 じゃっもんじ あめやじようたろう 蛸薬師通りに面した十文字町の、『飴屋丈太郎』宅脇の木戸をくぐったお雪は、それを聞い まゆ て形のいい眉をしかめた。 すそ 花模様をあしらった、裾に向かうにしたがい色が濃くなる薄緑色の小袖の着流しが、十七の えり 体によく似合っている。襟からのそく肌が、名のごとく白く、まぶしい。 にかいや わず 三味線の音は、すぐそこの家から聞こえていた。一一階家で、猫の額よりは僅かに広いであろ こじゃれ う庭がついている、ちょっと見にも小洒落た造りの家である。 お雪は庭と小道を区切る仕切りを押して、その小さな庭に入ると、縁側から家に上がり、 「兄ちゃん」 と呼んだ。 三味線がびたりとやんで、家の奥から現れたのは、狩野鷹一朗である。 たこやくし かりのよういちろう えんがわ こそで ゆき
146 鷹一朗の家の、庭に面した雨戸が、めらめらと燃えていたのである。 「火事だあ ! 火事だあ ! はおり 叫びながら、雲斎は庭に駆け込み、着ていた羽織をぬいで、それで火を消そうとした。 ておけ まわりの家からもそくそくと人が出て、汲み置きの水を手桶に汲んで駆けつけ、これを次々 にかけた。 ふくろど 幸い、発見が早かったおかげで、雨戸の袋戸を焼いただけですんだ。 「よ、よかったあ・ : : ・」 雲斎は、その場にくたくたと座り込んでしまってから、あちこち焦げ、すっかりすすけた羽 織に気づいて、 「あーあ」 太いため息をつくと、 だんな 「これは、狩野の旦那に、新しいのを買ってもらわなくては、割りにあいませんねえ」 とつぶやいたものである。 ( 手が足りん ) という思いが、鷹一朗の胸を占めていた。 文七は留守であり、山杉屋に戻ると、信介は帰ってはいなかった。