「沖田さん」 振り向いた総司は、まるで夢から覚めたように破顔した。 このとき鷹一朗は初めて、総司のこうした笑みが、 ( つくり笑顔だ ) とわかった。 「あ、狩野殿 : : : 」 「見物かい ? こ 「ええ、まあー 「俺はこれから、そこの料理屋で飯を食うところなんだが、一緒にどうだい ? 「ありがとうございます。でも、すぐに帰らないと 「ひどく濡れているぜ。せめて着物を乾かして、傘を借りていったらどうだい ? 」 政「いえ、ほんとうに : : だいじようぶです」 の 「 : : : そうかい。まあ、無理にとは言わねえが、あまり体を冷やさないほうがいいと思うぜ」 たなかさはち ありがとうございます。 : : : あ、そうだ。狩野殿、田中佐八は訪ねていきました 牙 の か ? こ 群「田中・・・・・・ ? いや」 「おかしいなあ。狩野殿にお会いしたいから、住まいを教えてほしい、って言われたので、教 かさ
156 生首であった。 昨日、火群茜の後ろに控えていた、綾乃とかいう女の、その首であった。 斬られた傷口は肉がきゅうとちちこまり、血はすでに乾いていた。 みやげ 「土産じゃ、狩野ー 鷹一朗は、綾乃のを撫でると、それを静かに脇に置いた。 「狩野。主は御命じじゃ。火群には関わるな。関われば、次はお雪とかいう女の首を届けよう 途端、風を巻いて鷹一朗はひととびに庭に飛び出し、童子を目掛け、雷光のごとき一刀を叩 きつけた。 斬り殺すつもりの、鷹一朗の本気の一刀である。かわせるものではない。 だが、斬ったのはタ闇ばかりであった。 童子は、その時にはすでに後ろに一間 ( 約 1 ・ ooE ) も飛んで、間合いを外していた。 「狩野、火群には関わるな。関わるなよ」 にさわる笑い声を残し、屋根を乗り越え、童子は何処か〈と消えた。 気配すら残ってはいない。 ( くそったれめ )
216 「見ましたか、土方さん」 「ああ、見た」 「狩野さん、帰ってきていたんですね。 : : : それにしても、狩野さんの相手、あれは田中新八 でしたよ。田嶋某、と名乗りを上げていましたけど 「名前なんぞどうでもいいさ。それよりも、あの腕だ。わざと斬り込ませておいて、ぎりぎり のところで避けて斬る : : : ふふ、 しいぜ。楽しいじゃないか。おい、総司。あの男は、斬り合 よろこ いが楽しいんだぜ。あいつは、白刃の前にたっことに、悦びを憶える種類の人間だ。間違いな 俺にはわかる」 「それは土方さんでしよう ? 僕は、狩野さんのあれは、迷いだと思いますけど」 「何を迷う ? ー 「田中さんを斬るかどうか」 土方は鼻で笑った。 「はかばかしい、そんなことがあるか。いいか総司。あいつは間違いなく、俺と同じ種類の人 ちくしよう・ きんのうしし 間だ。 : : : 畜生 ! なんであいつは、勤王志士じゃねえんだ ! そうなら存分に闘えるのにな 「声が大きいですよ、土方さん。ほら、周りの人達か驚いているじゃありませんか」 とんしょ 「構うものか ! よし総司、屯所に帰ったら、稽古だ。稽古をしよう」 なにがし
うら 連中の中には、豪農の息子も多かった。出来の悪い子ほどかわいいというが、その怨みで鷹 一朗を付け狙うということは、十分に考えられた。 ( どちらにしても ) わ * 、しな 右手が、す、と脇差を撫でた。 ( 次に姿を見せたときには、引っ捕らえて正体を見定めてくれる ) と心に決めた、鷹一朗であった。 やますぎや ぶつこうじ 仏光寺通りの丸や町に、材木商『山杉屋』がある。 アんえもん あるじ かりの 主の山杉屋張衛門は、元は侍で、名を狩野弦衛門といった。 この男、鷹一朗の叔父にあたる。 しんばちろう しせき ~ 狩野の家を鷹一朗の父、狩野新八郎が継ぐことが決まったとき、弦衛門はあっさりと士籍を ほ、つ」、つ 政捨て、山杉屋に奉公に上がった。 の 犠どして、一生を肩身の狭い暮らしで終えるより、自らの才覚がものをいう暮らしを選ん だのである。 牙 のそれは賭けであったが、弦衛門は商才があったようで、たちまち頭角を現し、先代に気に入 群られ、やがて婿に入り、山杉屋の主となった。 弦衛門の代になって、店はますます大きくなっている。 むこ - さむらい
てぬぐ 手拭いで軽く擦られると、総司の肌は簡単に赤くなった。 「また痩せたのか、総司」 「そんなことありませんよ」 「骨が」 ろっこっ 土方の指が、総司の肋骨をなそった。 「あ 「随分と浮いているぜ」 「 : : : 旅のせいですよ。すぐにまた戻ります」 ふふ、と総司は笑う。 ~ 総司の背中は小さい。土方の手では、すぐに済んでしまった。 政「土方さん、今度は僕の番ですよ」 の 土方に後ろを向かせ、総司はその広い背中を代わって擦った。 禁 ( なめし皮を張った岩みたいだ ) のであった。 群「そういえば土方さん、近いうち、狩野殿がここを訪ねてくるかも知れませんよ」 「狩野・ : ・ : 誰だ ? こ こす
152 ぶえ 笛に喰らいつくだけの気概があるかね」 「で、俺は何を得る ? 」 「都の平安をー 「おい、なんだそりゃあ」 いくさ 「長州の企みがどういうものにせよ、それが御上に関わりのあることであれば、この京で戦が まちしゅう ひつじさっ 起こるは必定。町中で大砲が撃たれ、町屋は燃え、焼け野原になりましよう。町衆は殺され、 焼かれ、踏みにじられるでありましよう。狩野さん、それをお望みか ? こ うな 鷹一朗は唸った。 ( そんなもの、望むわけがねえ。か引き受けず、この京が丸焼けになったら、俺のせいだっ ていいたいのか ? 冗談じゃねえせ ) 「お引き受け願えましようね」 おう 鷹一朗は答えなかった。裔とも、応とも。 庭からの風に、強く血が臭った。 「狩野さんーー 「あんた、俺のことをどうして知った ? きがい
「畳と床柱のある間には、似合わねえってことさー 男はそれを聞くと、楽しそうに笑ったものである。 「おまえもそう思うか。いや実は儂もそう思っておったのじゃ」 「変な奴だな」 「狩野殿、まあ座ってくれたまえ。 : ワインはだいじようぶかね ? 」 「和んだことがねえからわからねえな」 「正直な男じゃな。ま、呑んでみるがよい」 男は自分が呑んでいた硝子杯を、腰掛けた鷹一朗に渡した。 一口呑んだ鷹一朗は、 「異国の酒も悪くないな」 と一一 = ロった。 政「麟太郎、この男の名はワこ の 「狩野鷹一朗、君です」 ~ 「本人が目の前にいるんだぜ。直に訊けばいいだろう」 の「儂は、人見知りをするのじゃ 群「よくいう・せ」 鷹一朗は鼻を鳴らし、 たたみとこばしら じかき
た方が楽しいからな」 かご 駕籠の中から声はなかった。 おひつづ 「ま、せいぜい気をつけて帰ることだぜ。また、首の御櫃詰めなんそもらうのは、まっぴら御 免だからな。 ・ : じゃあな」 鷹一朗は駕籠を離れ、歩きだした。振り返ることはなかったが、・ とこからか担ぎ手が現れ て、駕籠を運んでいく気配はわかった。 そうして鷹一朗は、いま一つの気配にも気がついていた。 並行して屋根を走る気配に、である。 「賢明である。賢明であるそ、狩野鷹一朗」 あの童子の声だ。気配と同じ方角からである。 「我が主の名を聞かぬとは、さすがは狩野。賢明であるそー 「やかましい」 鷹一朗は撃つ手も見せず、懐の小羈 ( ナイフのような細身の小刀 ) を投げつけたが、これは あたらなかったようである。 だが、気配は消えた。 ひと 鷹一朗は、夜にまた独りとなった。
「八年ぶり、でございましよう 「老けたな」 「若は大人になられた。さ、このような所で、雨に打たれて話でもない。小屋へ参りましょ 「あれが小屋なら、俺の家は御殿だぜ」 「若、さらにロが悪くなられましたな。この喜八に、またをつねられたいのですかな ? えんりよ もち 「遠慮しておくぜ、面の皮が餅みてえに伸びちまう」 喜八は笑った。 それは、鷹「朗が天狗の笑いと勘いをした、昔の笑いそのままであ 0 た。 ~ 喜八の家は、そこからすぐの、山の斜面をほんの少し切り開いた場所に、変わらずあった。 政実は、家出をしてからの二年間は、ここで剣の修業をしていた鷹一朗なのである。 りゅうのしん この喜八という男、先々代の狩野の当主、鷹一朗の祖父にあたる、狩野竜之信の高弟であ 狼父、新八郎にも剣を教え、その息子である鷹一朗にも手ほどきをすることになったのは、ま 群 こと、 「奇妙な縁でございますー つら
てメまっとう 去年の天罰党の事件絡みで、どうしても情報がほしかった時、それを条件に一度だけ依頼を 受けたことがある。 う′」、つし・け′、こ その依頼とは、宇郷重という男の暗殺であった。 おかだいぞう だがこれは、岡田以蔵の手によってなされ、鷹一朗が手を下すまでもなかった。 以来、その公家から、連絡はなかった。 他に公家の知り合いなどおらず、加えてこの異様な状況の訪問である。 ( またか ) と考えて当然であろう。 だが、違うという。わからぬという。 と・ほけているのか、それとも本当に知らぬのか、鷹一朗には判断がっきかねた。 つきかねたが、結論は同じである。 変 政「とにかく、帰ってもらおうか」 であった。 ←「せめて話をお聞きくださりませ、狩野殿」 狼「聞きたくないね。公家衆と狩野家の繋がりは、先代で切れたのだ。あんたが何者でも、俺に ぶつこうじ 群 はもう関係ない。さ、帰ってもらおうか。夜が明けたら、仏光寺の親分を呼んできて、この死 体を片付けなきゃならねえんだ。眠っておきてえんだよ」 つな