捺美と圭子が通っている進学塾は、国道沿いの古いビルの二階にあった。ちいさなところだ が評判が良く、彼女たち以外にも生徒はたくさんいる。 「待った ? ごめん」 あせ ビルの横の駐車場にある電話ポックスのなかで、捺美と圭子は汗だくになっていた。扉を手 で押さえ開け放しにし、それでも空気がこもるせいかシャツの背中を濡らしている。 「遅いよ。もう、死ぬかと思った」 捺美は大げさな口調でそう言って、下敷きでばたばたと顔を扇いだ。圭子はポックスの外に 出て、 ( ンカチでを拭きながらしやがみ込んでいた。ビルの作る日陰はとてもちいさく、三 人のいる電話ポックス周辺はさんさんと太陽の熱を浴びていた。 かげ 「陰に入ってればいいのに」 瞳がそう言うと、 「だって、他の人に使われたら困るし」 「瞳がいっ来るかわかんないからさー」 線「さっきなんか、サラリーマンの若い兄ちゃんに睨まれちゃったよ。どうせ携帯持ってるくせ にさ」 視 捺美と圭子は口々に言って、瞳をじろりと睨みつけた。 「ほんと遅かったよ。のんびりソーメン食ってたんでしよ」 にら あお けいたい
「誰にも言うなよ」 と念押しをする。瞳は深々とうなずく。 「・ : 小学校三年かなあ。俺、自分で言うのもなんだけど、顔はかわいいわ、お勉強はできる わ、先生の言うことはよく聞くわ、っていう典型的な優等生でさ。クラス委員も二回やった な、そのころ。そんでさ、そういう生徒が大好きって教師もいるだろ。優等生を見てそれがそ の子のすべてだと思ってるようなのがさ。そん時の担任、独身でまだ子供もいなくてさ、俺の こと、すげえかわいがってくれた。行事だとか、何かあるたんびに放課後残されて、先生の手 伝いをさせられてた。それ自体はべつに、なんでもないことだったんだけどな」 成田は顔を上げ、同意を求めるような目つきで瞳を見た。瞳は黙って相槌を打った。 「だんだん、様子が違ってくるんだよ。どこがどう、って言われるとわかんねえんだけど。あ のな、普通教師ってのは生徒みんなに平等なもんだよな ? でも違うんだよ。俺、なんか・ : 早く一一一一口えばさ、えこひいきされてんだ。成田くんはお勉強もできて運動会でも大活躍で先生の 言うことはちゃんと聞いてくれて嬉しいわ、このクラスにはもう先生成田くんひとりしかいら 線ないわ、って感じなんだ。本当に、そのまんまのことを他の生徒がいる前で言うんだぜ ? 俺、すげえやられたよ、他の奴らにさ。俺より他に成績のいい奴はたくさんいるし、足の速い 視 奴も、お利口さんな奴もたくさんいるんだ。なのに先生は俺のことだけ気に入りなわけだ。当 然、えこひいきだ、ってことになるだろ ? それをみんなは先生には言わずに、俺んとこへ言 あいづち
204 幕が降りた。瞬間、ものすごい数の歓声と拍手が、体育館のなかを包んだ。包んだというよ めぐ りは、駆け巡った。瞳も思わずつられて、立ち上がって皆と一緒に拍手をした。加代子、と叫 んでみた。圭子と捺美が目に涙を浮かべ、ロをきいたこともない加代子の名前を何度も、悲鳴 のような声で呼んでいた。 こた アンコールに応えて、ふたたび幕が上がる。西洋の騎士に似た衣装を身につけた加代子が、 じぎ 一番最後に名前を呼ばれ、深くお辞儀をする。瞬間、後ろでひとつにまとめた彼女の黒い髪 が、まるで少年のそれのように軽快に飛び跳ねる。顔を上げた加代子は、舞台の下の客も、体 育館の壁も、現実のものは何ひとつ見えていないというような表情をしていた。東京へ行かな くても、特別に何かをしなくても、舞台に立っているこの瞬間、彼女は立派な女優だった。瞳 は少し、うらやましくなった。あの高いところに立っ気分はどんなだろう ? 「良かったよ、すごくー 「本当 ? 」 「格好良かった。すつごい男前ー 「 : ・ありがとう 昨日と同じ、ふたりの会話は、たったそれだけで足りた。まだ衣装を身につけたまま、額の
とちりとりを受け取った。 「ご、ごみ取りたいから。こっち」 ほうきを持った女子生徒にうながされ、教室のなかへ戻る。教室後ろの出入り口あたりに、 かが ていねいに集められたごみがちいさな山になっていた。瞳は屈み込んでちりとりを床に置い た。誰かが頭上でほうきを動かし、ごみをちりとりのなかへ掃く 「・ : 田辺さんて、成田と仲いいの ? 」 ひび せのけいこ 少し低めの、遠慮がちな声が響いた。瞳は顔を上げた。瀬野圭子というふたつ前の席の女の 子が、ほうきを動かす手を止めて瞳を見下ろしていた。まともに話すのは初めてだが、ず と、つとっ ん唐突な質問だった。 「べつに、仲なんか良くないけど」 「そう ? だってさっき・ : 」 「あいつは、わたしをからかって面白がってんの。ムカつくから殴ってやったんだけどさ、懲 りてないみたい」 ふん、と鼻を鳴らして、瞳は立ち上がった。瀬野と目が合った。 , 彼女の驚いたような目のな かには、怯えと、少なくはない好奇の色が浮かんでいた。ムカつくから殴ってやった、などと つい口をすべらせてしまったことを、瞳は激しく後悔した。案の定、瀬野は目をきらきらと輝 かせながら真顔で言った。 おもしろ
「全部食べたら、すぐにどいてちょうだいねー 「はい、すみません」 「ゴミは持って帰ってね 「わかってますう、へへへ」 なが へらへらと笑う瞳を呆れたように眺め、保健のおばさんはサンダルを引きずり、去って行っ びん のど た。瞳は首をかたむけ、ラムネの瓶に口をつけた。おばさんの気配は消えていた。喉に染みる ラムネを飲み下しながら、彼女は思い出した。目つきが悪いのも、何かと叱られがちなのも、 べつに今に始まったことではなかった。小学校四年生の時の担任。彼も三十代前半の、男性教 師だった。 いつ見ても全身をジャージで固めた、やたらに声の大きな男性教師だった。首から下げた笛 みにく を片時も離さず、ジャージの両ポケットは、あれこれいろんな物を詰め込みすぎたせいで醜く もも ふくらんでいた。その腿を揺らし、ひもの解けかけたサンダルを引きずるようにして廊下を歩 くせ くのが、なかなか直らない彼の癖だった。 廊下の向こうから彼特有の足音が聞こえてくると、生徒たちはとたんに静まり返った。彼の くしやみ一つで生徒たちの肩は震え、大声を出せば、教室全体が震えた。早く一言えば、典型的 あき
ってくるんだよな。おまえん家が金持ちだからじゃないのか、とか、かわいこぶってんじゃな いのか、とか、いろいろ言われたな。特にお利口さんだった女子の何人かはひどくてさ、俺、 がびよう シューズに画鋲入れられたんたそ卩嘘じゃねえそー 「・ : すつごオい」 「でも先生はそんなこと知らないから、相も変わらず俺んとこだけべタ誉め。やることなすこ と何でも嬉しいみたいだったな。そりゃあ先生に嫌われるよりや気に入られるほうがいいに決 まってるけど、その頃になると俺はもう、逆に先生のことを恨み始めてた。軽蔑もしてた。子 供に簡単に見抜かれるようなやり方でしか好意を表せないあいつが憎かった。もっとうまくや れよって思ったんだ。俺が今こんな嫌な目に遭ってんのは全部こいつのせいなんだ、って。そ んで俺、手つ取り早く、学校に行かなくなった。実際、朝、靴を覆いて家を出ようとすると、 腹が死にそうに痛くなるんだよな。仮病なんかじゃなくて、本当にな。それはそういう病気な おやじ しんせき んだ、って親父は言ってた。そんで、学校替わりたいって俺は言った。親父は俺を近くの親戚 いそうろう の家へ居候させることにして、すぐに転校手続き取ってくれたよ」 瞳は黙り込んで、何も言わなかった。思ったことはいろいろあったが、何を、どう言えばい いのかわからなかった。顔を見合わせ黙り込んでいると、体育館の内側で大きな拍手が湧い た。歓声やロ笛も聞こえた。瞳は壁に耳を押し当てた。 けいべっ
を上げながら、けれど結局彼の指示に従って、シ、ーズを脱ぎ、白い靴下を脱ぎ、各自机の上 に立った。そうすると一気に天井が近くなって不思議な気持ちがした。けれどそれ以上に不思 議なのは、神妙な顔でいちいち生徒たちの足の指の爪をチェックして回っている、吉村の姿だ っこ 0 正気だろうか、と最初瞳は思った。 / を 彼よそのうち、耳を下にして机に伏せるようにと命じ、 のぞ 足の爪と同じように、ひとりひとりの耳の穴を覗いて回るようになった。きちんと掃除されて いるかどうか、気になるらしい。ひょっとしてこの人、、ハ力なのかもしれないな、と瞳が思った のは、彼がその次に言ったこんなセリフを聞いた時だった。 「正直に言おう。ぼくは成績の良い生徒が好きだ。あと教師の指一小に素直に従う、聞き分けの 良い生徒も好きだ。たとえば内藤は成績もいいし掃除もさ・ほったりすることがないよな。だか たかはし らぼくは内藤をえこひいぎしようと思う。でも掃除をよくさ・ほる高橋はきっと、将来あまりい い夫にはならんだろうな。女子は高橋と結婚しようなんて思うなよ。苦労するから」 皆は笑った。瞳は笑えなかった。頬杖をついて、違う意味の薄笑いを浮かべて、彼を見てい よ、ついち た。成績も悪く身だしなみにもあまり気を遣わない高橋洋市が、放課後になると必ず、小さな 線 兄弟たちを公園で遊ばせていることを瞳は知っている。もちろん吉村も知っている。彼には幼 視い弟や妹がたくさんいて、聞いた話では、母親がいないらしかった。その彼をただ成績が良い だけのつまらない男と比べて、吉村は皆の前で笑い者にしたのだ。 しんみしっ ないとう ほおづえ つか
まま自宅へ帰ってしまったこともある。彼がいないというので、学校中が大騒ぎになった。そ ういえばそんなことがあった。 / 冫 彼こ関する噂は主に女子生徒のロを借りて、次から次へと流れ てくるのだった。 にら 下唇を突き出し、上目づかいに睨んでくる彼の目に少しおびえながら、瞳は負けじと目を見 けんか 開いた。視線をそらせない。喧噬売ってんのか、こいつ。つられて下唇を出しながら、瞳は一 瞬たりとも彼から目を離さなかった。初対面の男に、こんな目で睨まれる覚えはない。けれど まばた 一回だけ、瞬きをした。ふたたびまぶたを開いた時、彼はすでに、何事もなかったかのように くや 頬杖をついてそっぽを向いていた。瞳は猛烈に悔しくなった。 「黒板消し係をやりたい人、手を挙げてください。誰でもやれる仕事ですから。ああ、あと、 クラス全員に必ず何らかの係をやってもらうようになってるんで、嫌な仕事が回ってこないう ちに、自分から手を挙げたほうがいいと思います。残りはあと、中庭で飼ってるウサギの飼育 係と、清掃係、それからーーー」 てきばきと議事を進める早川の言葉に、瞳はびくりと顔を上げた。飼育係も、清掃係もいや 。こっこ 0 ノ / 「はい 黒板消し係やります」 そう言って手を挙げた彼女の声に、低い、男子生徒の声が重なった。瞳は驚いて声の主を見 た。彼も、ロを開けて瞳を振り返った。 うわさ
ひび 教室には、テープの巻ぎ戻る音だけが響いた。早川はどうすればいいのかわからないらし く、しきりに吉村の顔色をうかがっている。吉村はすでに彼の存在を忘れていた。 「田辺はフォークは嫌いか ? 最近はやりのチャラチャラした歌のほうがいいか。 あの、早く返して欲しいか」 「べつに。また買えば済むことですから」 腹の底から込み上げてくる熱の塊を抑えつけ、瞳は平然と顔を上げていた。ここで泣くのだ けはいやだ。過去にも、瞳は教室のなかで教師に叱られ泣きじゃくったことがあった。でもそ れは自分が悪いのだと反省したからだった。それにあれは、小学一一年生の時のことだ。 最近はやりのチャラチャラした歌、などと言う吉村の顔を、ざまあみろ、という思いで瞳は 見上げていた。化けの皮がはがれた。なのにな・せ、みんな気づかないんだろう。 「準備はいいか ? しつかり歌えよ」 のど ガチャ、とラジカセが鳴った。ギターの前奏が始まる。瞳の喉から、絞り出したようなか細 けんめい い声が出た。瞬間、舌打ちしたい気分になった。しつかりしろ。カラオケと同じことだ。懸命 に声を張り上げたが、信じられないほど高く細い声が出ていくだけだった。マイクを通した声 線 とは違うし、自分で選んだ曲とは違う。悔しさに涙がにじみそうになった。恥ずかしさに体が 視震えた。プリントを持つ手が震えるので、瞳はそれを机の上に置いて両手でその端を押さえ た。さりげなく全身の震えを止めたつもりだった。でも声の震えだけは、どうにもならなかっ かたまり くや : どうだ、
「うそ、鳴ってる ! 」 「あんたのせいよ ! 」 「なによ、人のせいにしないでよ ! 「・ : うるさい。もう話しかけないで」 「なんですってえ卩」 「仲間だと思われたくない」 「こ : ・」 こいつ、と瞳は走りながら加代子を睨みつけた。バン、とドアを開けて更衣室に入り、死に 物狂いで着替えを済ませるまで、ふたりは互いに一言も口をきかなかった。瞳が頭にハチマキ を巻こうと四苦八苦しているあいだ、加代子はすでに完璧な姿でその横に立ち、じっと待って いた。ようやくハチマキを巻き終え顔を上げると、加代子はひとこと、 「グラウンド三周。いや五周かな。あんたのせいでさー と言った。じゃあなんで待ってるんだろう、と瞳は思ったが、言わなかった。 「はい並んでー、一列、背の低い人から順番にね」 両手を叩きながら体育教師が言った。少し。ハサついた長い髪を紫のゴムでひとまとめにし むらさき