55 視線 「 : ・遅刻か。ふたりして何やってたんだ ? 名簿に目を落としながら、吉村はからかうように言った。数人がクスリと笑う。 べつに何も、と言いかけ、瞳は思わず寺田の姿を探した。吉村の言葉にちいさく笑う、きち んと席についた優等生の彼女の顔が見えた。目が合ったとたんに下を向いて、彼女は瞳を避け 吉村が言った。声に溜息が混じっていた。 「またおまえか、田辺」 「・ : っ卩」 またおまえか、の言葉のあとに自分の名前が続くのを、瞳は信じられない思いで聞いてい た。『またおまえか』 卩このクラスになって初めての遅刻だ。今年はきちんと間に合うよう に、研に毎朝走 0 て来たのだ。なんで ? どうしてわたしがこんなこと言われてるわけ ? くや かな そんな思いで頭がいつばいになった。悔しいのか哀しいのか、よくわからない。こんなこと程 度で哀しいなんてことはないから、きっと悔しいのだろうと思った。でも鼻がツンと痛む。 「なんだ ? なにか言い訳でもあるのか」 吉村が言った。見ると、周囲の様子にはまったく無関心な様子で、成田はとうに自分の席に ひじ こぶし ついていた。肘をついてそっぽを向いている。瞳は思わず拳を握り締めた。なんて奴だろう。 無関係な顔しやがって。 やっ
ひび 教室には、テープの巻ぎ戻る音だけが響いた。早川はどうすればいいのかわからないらし く、しきりに吉村の顔色をうかがっている。吉村はすでに彼の存在を忘れていた。 「田辺はフォークは嫌いか ? 最近はやりのチャラチャラした歌のほうがいいか。 あの、早く返して欲しいか」 「べつに。また買えば済むことですから」 腹の底から込み上げてくる熱の塊を抑えつけ、瞳は平然と顔を上げていた。ここで泣くのだ けはいやだ。過去にも、瞳は教室のなかで教師に叱られ泣きじゃくったことがあった。でもそ れは自分が悪いのだと反省したからだった。それにあれは、小学一一年生の時のことだ。 最近はやりのチャラチャラした歌、などと言う吉村の顔を、ざまあみろ、という思いで瞳は 見上げていた。化けの皮がはがれた。なのにな・せ、みんな気づかないんだろう。 「準備はいいか ? しつかり歌えよ」 のど ガチャ、とラジカセが鳴った。ギターの前奏が始まる。瞳の喉から、絞り出したようなか細 けんめい い声が出た。瞬間、舌打ちしたい気分になった。しつかりしろ。カラオケと同じことだ。懸命 に声を張り上げたが、信じられないほど高く細い声が出ていくだけだった。マイクを通した声 線 とは違うし、自分で選んだ曲とは違う。悔しさに涙がにじみそうになった。恥ずかしさに体が 視震えた。プリントを持つ手が震えるので、瞳はそれを机の上に置いて両手でその端を押さえ た。さりげなく全身の震えを止めたつもりだった。でも声の震えだけは、どうにもならなかっ かたまり くや : どうだ、
242 黙って見上ける瞳の肩をもう一度軽く叩いて、吉村は男子生徒たちに声をかけ、写真を撮る のぞ から並ぶように、とあれこれ指図を始めた。いくぞー、と叫び、レンズを覗き込んでいる。そ ういえばさっき、彼は笑っていたのだろうか。瞳はふと、そんなことを思う。わたしの後ろ で、いったいどんな顔をして写真に写ったのだろう ? 「 : ・怒らないでよ、瞳」 隣で捺美が、瞳の腕に手をかけぐらぐらと揺さぶっている。圭子が上目づかいに、機嫌をう かがうような顔で瞳を見る。 しじゃん、一枚く 「最後だからさ、一枚、撮っといたほうがいいんじゃないかと思ったの。い、 らい。ね ? こ 「先生だってちゃんと笑ってたしさあ」 「そうだよ。ぎっと十年後にはいい思い出になるよ」 口々に言い合うふたりの声に適当にうなずきながら、瞳はカメラを構え笑う吉村をじっと見 ていた。一日も休まなかった。そうだ、確かに、瞳はこの一年、遅刻はしても、欠席すること ののし はなかった。要注意人物だと罵られようが、皆の前で歌をうたわされようが、ロのなかに指を 突っ込まれようが、合唱祭当日だろうが。むしろ、まるで戦いを挑むような気持ちで、毎日、 歯を食いしばってあの坂を登ってぎた。負けるのは悔しいから。あいつの思い通りになるの は、絶対に嫌だから。
「よく聞かせてくれないか ? 」 「ちゃんと歌ってると言うならその証拠を見せてくれ。クラスがまとまってやってることにひ とりだけ参加しようとしない人間がいるとな、全員に迷惑がかかるんだよ。 : ・何か、思い上が ってるんじゃないのか ? どうしておまえだけいつも反抗的なんだ」 いつも ? を持ってきたこととただ一度遅刻したこと、それだけでどうして『いつも』 などと言われているのか、瞳のほうこそわからなかった。どうしてこの男が今、『おまえのこ となど何もかもお見通しだ』という顔で自分を上から見下ろしているのか、瞳にはまったくわ からなかった。頭おかしいんじゃないの。ーー、最初に嫌いになったのはどっちだろう ? 自分 が彼を嫌ったのが先か、彼が自分を嫌ったのが先か。考えてみたが、わからなかった。 「歌え。おまえひとりだけのためにテープを流してやる。指揮もしてやる。 : ・おい、全員、席 につけ。田辺はその場で立って待て」 吉村は手を打ってそう言いながら、教卓に戻ってラジカセのスイッチを押した。巻き戻しを 始める。早川が、 「先生、・ほくが指揮するんですか」 と不服げに言った。瞳とその彼と吉村だけを残して、クラスの全員がそれそれの席につい
捺美と圭子が通っている進学塾は、国道沿いの古いビルの二階にあった。ちいさなところだ が評判が良く、彼女たち以外にも生徒はたくさんいる。 「待った ? ごめん」 あせ ビルの横の駐車場にある電話ポックスのなかで、捺美と圭子は汗だくになっていた。扉を手 で押さえ開け放しにし、それでも空気がこもるせいかシャツの背中を濡らしている。 「遅いよ。もう、死ぬかと思った」 捺美は大げさな口調でそう言って、下敷きでばたばたと顔を扇いだ。圭子はポックスの外に 出て、 ( ンカチでを拭きながらしやがみ込んでいた。ビルの作る日陰はとてもちいさく、三 人のいる電話ポックス周辺はさんさんと太陽の熱を浴びていた。 かげ 「陰に入ってればいいのに」 瞳がそう言うと、 「だって、他の人に使われたら困るし」 「瞳がいっ来るかわかんないからさー」 線「さっきなんか、サラリーマンの若い兄ちゃんに睨まれちゃったよ。どうせ携帯持ってるくせ にさ」 視 捺美と圭子は口々に言って、瞳をじろりと睨みつけた。 「ほんと遅かったよ。のんびりソーメン食ってたんでしよ」 にら あお けいたい
「誰にも言うなよ」 と念押しをする。瞳は深々とうなずく。 「・ : 小学校三年かなあ。俺、自分で言うのもなんだけど、顔はかわいいわ、お勉強はできる わ、先生の言うことはよく聞くわ、っていう典型的な優等生でさ。クラス委員も二回やった な、そのころ。そんでさ、そういう生徒が大好きって教師もいるだろ。優等生を見てそれがそ の子のすべてだと思ってるようなのがさ。そん時の担任、独身でまだ子供もいなくてさ、俺の こと、すげえかわいがってくれた。行事だとか、何かあるたんびに放課後残されて、先生の手 伝いをさせられてた。それ自体はべつに、なんでもないことだったんだけどな」 成田は顔を上げ、同意を求めるような目つきで瞳を見た。瞳は黙って相槌を打った。 「だんだん、様子が違ってくるんだよ。どこがどう、って言われるとわかんねえんだけど。あ のな、普通教師ってのは生徒みんなに平等なもんだよな ? でも違うんだよ。俺、なんか・ : 早く一一一一口えばさ、えこひいきされてんだ。成田くんはお勉強もできて運動会でも大活躍で先生の 言うことはちゃんと聞いてくれて嬉しいわ、このクラスにはもう先生成田くんひとりしかいら 線ないわ、って感じなんだ。本当に、そのまんまのことを他の生徒がいる前で言うんだぜ ? 俺、すげえやられたよ、他の奴らにさ。俺より他に成績のいい奴はたくさんいるし、足の速い 視 奴も、お利口さんな奴もたくさんいるんだ。なのに先生は俺のことだけ気に入りなわけだ。当 然、えこひいきだ、ってことになるだろ ? それをみんなは先生には言わずに、俺んとこへ言 あいづち
21 視線 「よし。じゃあ、今日はここまで」 時計の短い針が数字の 2 を回る五分前、吉村はようやくそう言った。瞬間、教室のあちこち から溜息が漏れた。他のクラスはとうに解散になっていて、帰っていく生徒たちの気配で廊下 かばん は騒々しかった。瞳は立ち上がり、鞄を持って机と机の間をすり抜けた。すでに半分以上の生 徒たちが、教室を飛び出して行った後だった。 「田辺ー 机と椅子の迷路を抜けて、ドアに走り寄ろうとした時だった。吉村が彼女を呼んだ。瞳は振 り返り、まだいたのか、という思いに軽く目を見開いた。 「はい、なんですか ? 「じゃあ田辺さんと、成田くん」 それそれの名前を、飯田が黒板に書く。瞳は手を下ろし、じっと成り行きを見守る。 「ほかにはいませんか ? 黒板消し係をやりたい人。 : いないようなんで、決定します」 決定。その印に、飯田はふたりの名前の上に。ヒンクの花丸を書いた。 : ・早まったかな。瞳は 早くも後悔しながら、恨めしげに花丸を見上げた。 、つら
204 幕が降りた。瞬間、ものすごい数の歓声と拍手が、体育館のなかを包んだ。包んだというよ めぐ りは、駆け巡った。瞳も思わずつられて、立ち上がって皆と一緒に拍手をした。加代子、と叫 んでみた。圭子と捺美が目に涙を浮かべ、ロをきいたこともない加代子の名前を何度も、悲鳴 のような声で呼んでいた。 こた アンコールに応えて、ふたたび幕が上がる。西洋の騎士に似た衣装を身につけた加代子が、 じぎ 一番最後に名前を呼ばれ、深くお辞儀をする。瞬間、後ろでひとつにまとめた彼女の黒い髪 が、まるで少年のそれのように軽快に飛び跳ねる。顔を上げた加代子は、舞台の下の客も、体 育館の壁も、現実のものは何ひとつ見えていないというような表情をしていた。東京へ行かな くても、特別に何かをしなくても、舞台に立っているこの瞬間、彼女は立派な女優だった。瞳 は少し、うらやましくなった。あの高いところに立っ気分はどんなだろう ? 「良かったよ、すごくー 「本当 ? 」 「格好良かった。すつごい男前ー 「 : ・ありがとう 昨日と同じ、ふたりの会話は、たったそれだけで足りた。まだ衣装を身につけたまま、額の
とちりとりを受け取った。 「ご、ごみ取りたいから。こっち」 ほうきを持った女子生徒にうながされ、教室のなかへ戻る。教室後ろの出入り口あたりに、 かが ていねいに集められたごみがちいさな山になっていた。瞳は屈み込んでちりとりを床に置い た。誰かが頭上でほうきを動かし、ごみをちりとりのなかへ掃く 「・ : 田辺さんて、成田と仲いいの ? 」 ひび せのけいこ 少し低めの、遠慮がちな声が響いた。瞳は顔を上げた。瀬野圭子というふたつ前の席の女の 子が、ほうきを動かす手を止めて瞳を見下ろしていた。まともに話すのは初めてだが、ず と、つとっ ん唐突な質問だった。 「べつに、仲なんか良くないけど」 「そう ? だってさっき・ : 」 「あいつは、わたしをからかって面白がってんの。ムカつくから殴ってやったんだけどさ、懲 りてないみたい」 ふん、と鼻を鳴らして、瞳は立ち上がった。瀬野と目が合った。 , 彼女の驚いたような目のな かには、怯えと、少なくはない好奇の色が浮かんでいた。ムカつくから殴ってやった、などと つい口をすべらせてしまったことを、瞳は激しく後悔した。案の定、瀬野は目をきらきらと輝 かせながら真顔で言った。 おもしろ
「全部食べたら、すぐにどいてちょうだいねー 「はい、すみません」 「ゴミは持って帰ってね 「わかってますう、へへへ」 なが へらへらと笑う瞳を呆れたように眺め、保健のおばさんはサンダルを引きずり、去って行っ びん のど た。瞳は首をかたむけ、ラムネの瓶に口をつけた。おばさんの気配は消えていた。喉に染みる ラムネを飲み下しながら、彼女は思い出した。目つきが悪いのも、何かと叱られがちなのも、 べつに今に始まったことではなかった。小学校四年生の時の担任。彼も三十代前半の、男性教 師だった。 いつ見ても全身をジャージで固めた、やたらに声の大きな男性教師だった。首から下げた笛 みにく を片時も離さず、ジャージの両ポケットは、あれこれいろんな物を詰め込みすぎたせいで醜く もも ふくらんでいた。その腿を揺らし、ひもの解けかけたサンダルを引きずるようにして廊下を歩 くせ くのが、なかなか直らない彼の癖だった。 廊下の向こうから彼特有の足音が聞こえてくると、生徒たちはとたんに静まり返った。彼の くしやみ一つで生徒たちの肩は震え、大声を出せば、教室全体が震えた。早く一言えば、典型的 あき