歌 - みる会図書館


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1. 視線

肥帰りのに歌をうたいます』って」 「・ : はあ ? 何、それー 半笑いの顔で加代子が言った。瞳は調子づき、更衣室の扉を開けながら喋り続けた。 「音楽の先生だからさ、小テストとかより、歌のほうが効果があるとか思ったんじゃない ? 歌をうたうことによりリラックスして受験にのそんで欲しいのです、とか言ってんの」 「ハカじゃないの」 「でしよう ? そう思うでしょ ? でもうちのクラスってさー、誰も文句言わないの。黙って うれ たらいつのまにか毎日歌うたうことになっちゃってさ。担任、嬉しげだし」 よしむら 月曜のことだった。朝のが始まる五分も前に吉村は現れ、ざわめいていた生徒たちを 威嚇でもするように音を立てて、教卓の上に大きなラジカセを置いた。 「家から持って来た。最新の、も聴けるやつだそ」 彼は得意げに言った。開閉ボタンを押し、ポケットからカセットテープを取り出して、そこ へ差し込む。聞き覚えのない、けれど懐かしいにおいのする歌が流れ始めた。教室はしんと静 まり返った。 「これはね、先生がちょうど高校から大学にかけて青春時代を過ごしていた頃にはやった歌な んだ。いい歌だろう ? いやあ、今聴いてもいいなあ」 うっとりと目を細めながら、吉村は言った。ああ、と瞳は思った。フォークソングというや かく

2. 視線

「あー、席について」 吉村が入ってきた。掃除のあとはだ。また、あの歌か。瞳はうんざりした表情を隠す こともせず、歌詞の書かれたプリントを引っぱり出して机の上に広げた。とりあえず歌ってい る振りでもしておかなくては。 線 「あー、朝一言うのを忘れてたんだが、明日から歌を替える。もっとたくさんいい歌があるから 視な、卒業するまでに全部覚えてもらいたいんだ」 教室は無反応だった。皆、本当はどうだっていいのだ。吉村に言われるまま、立ち上がって かよこ のぞ と教室のなかへ戻りかけ、そういえば加代子何してるかな、と瞳は隣の教室を覗き込んだ。 掃除場所が違うのか、加代子の姿はなかった。ぼんやり廊下に立ち尽くしていると、 「何やってんだよ、田辺 ! 」 と早川が怒鳴った。 「うるさい ! 」 振り返りざま短く怒鳴り返して、瞳はほうきを引きずり教室のなかへ入った。ガン、と音を 立て掃除道具入れを開けて、ほうきをなかへ突っ込む。背後で固まっている早川には、もう目 もくれなかった。 ホームルーム

3. 視線

抗して叱られたいわけでもない。 じゃま 「いぎがるのよ、 ーししが、邪魔だけはするな」 吉村はそう言い、カッカッと歩いてピアノの鍵盤に近づいた。寺田の横に立ち、 「いいか、次。テナーはこの音だ。よく聞け」 カン、と指揮棒で黒いビアノを叩く。続いて、ロを『ま』の形に開いた男子生徒数人が歌声 を出す。もう一度、と言って吉村は両手を上げる。指揮棒を握る彼の指が、瞳は、大嫌いだ。 、つぬぼ 傲慢で、自惚れていて、大勢の歌声を支配する指。彼の指が振り下ろされると歌が始まり、止 めろというふうに振り回されるだけで、歌は止まる。十本の指が軽く握り締められると、歌は よいん 一筋の余韻も残さずに終わる。人を自由に動かすことに満ち足りている指は、よく肥えて醜 なが その指の持ち主がどうだということよりも、見たまま、それが動くままを眺めるだけで、 気分が悪くなるのだった。あの指に支配されるのは嫌。表情のない顔で、瞳はそんなことを考 えていた。 「次、アルト。アルトは音程が取りにくいから、ソプラノにつられないように」 線指揮棒の合図にあわせて、まー、と瞳はロを開けた。吉村は指揮棒を振り回し、 「やめ。・ : 田辺、もうちょっと口を開けろ」 視 と瞳を指した。指で差されるより屈辱的なその仕草に、 「すみません」 ごうまん しか

4. 視線

210 き、言葉を続けた。 「あの先生、いんちきだよね ? たず 念を押すように尋ねると、 「・ : おう と成田は唇をとがらせた。 「それはみんな、わかってることだよね ? こ 「・ : そうだな」 「なのに誰も、何にも言わない。あいつがやれって言ったらやるし、やるなって言ったらやら 歌をうたえって言われれば歌う。心んなかで面倒くさいなあって思ってんのがバレバレ でもね。吉村もそれをわかってる。でもやらせてる。 : ・変じゃない ? みんな内心では嫌だと り」、つ 思ってることを実際にはきちんとやって、パッと見にはお利口さんで、でも本当はそうじゃな いってことを先生も知ってる。なのにやめさせない。ねえわたしそんなの、小学校のあいだだ がまん けだと思ってたよ。だから我慢できたんだよ、今までは。教師の権限ってどこまで ? 放課後 の時間を歌の練習のために使わせてもいいくらい ? 指揮棒で生徒の頭小突いてもいいくら い ? いっ洗ったかもわかんない指を口のなかにこじ入れても許されるくらい ? そんなの、 わたしが許したってわたしの親が許さないわよ ? どっからどこまでよ卩どっからどこまで 我慢してやればいいわけ卩」

5. 視線

こ 0 テープが止まった。 「どうした、しつかりしろ。・ : やり直し」 キュルルルとテープを巻き戻し、吉村は再生ボタンを押した。また前奏が始まる。瞳は顔を ぎよっし 上げ、黒板を凝視したまま口を開いた。顎がぎこちなく動いた。声が出ない。 「だめだめ。もう一回ー つば キュルルレ . : 。 テープが巻き戻る。瞳は唾を飲んだ。喉がごくんと鳴った。手のひらを握る あせ と、伸びた爪が肉に食い込んだ。いつのまにか汗をかいている。 「はいもう一回。やりなおーし」 まばた つば うたった。たいした技術のいらない、簡単な旋律だった。何度も唾を飲んだ。瞬きも忘れて 黒板を見つめた。歌が流れる。歌詞は覚えていた。でも声が出ない。出ない。出ないー 「泣けば済むと思ってるのか ? 「泣いてません」 瞳は顔を上げた。涙どころか、目を潤ませもしなかった。歌がうまくうたえないことより、 それは重要なことだった。 いじ 「まるで先生が苛めてるみたいだなあ。なんでおまえがそこまで強情なのか、先生にはわから うる

6. 視線

前奏を待つ。 この歌も最後か。そう思うと嬉しかったが、明日にはまた別の歌をうたわされるのだから同 じことだった。瞳はどこかのアイドルグループのように唇だけでうたった。息継ぎらしい息継 ぎもない、その歌い方が吉村にばれるのは、時間の問題だった。彼は音楽教師だ。そのことは ちゃんとわかっていた。それなのに、彼と目が合おうと、探るような目で見つめられようと、 瞳は強情に声を出さなかった。ほとんど意地だった。自分以外の四十人が事もなくやってのけ るそれと同じことが、瞳にはどうしてもできない。それは彼女の意地と、プライドの問題だっ 「・ : 田辺ー 胸が鳴った。吉村はまっすぐにこちらを見つめ、そのまま歩いてきた。指揮者に顔を向け、 テープを止めるようにと指示する。 「田辺よ」 机に手をつき、瞳の顔を覗き込むようにしながら、吉村は言った。その言い方に誰かが笑っ 。が、彼の顔つきや声からにしみ出る迫力に気づいた者は、息をひそめてじっと動かなかっ た。テー。フが止まり、かわりに廊下からの騒音が教室を覆う。 「うたえないのか ? こ おお

7. 視線

47 視線 つもりなんだろう、とまた思った。吉村は生徒たちの好感を得ようと必死なのだ。そしてそれ に成功している。そこまで考えて、瞳はやはり顔をしかめた。一人前の大人なら、もっと賢い やり方をすればいいのに。そう思った。 / 彼を素直に良い先生だと思えない、自分だけが取り残 された気分だった。 「じゃあ、さっそく歌ってみよう」 巻き戻しの終わったテープを確認し、吉村は教室を見渡した。皆、それそれに配られたプリ ントに目をやった。 / 彼の手書きで書かれた詞の内容を、瞳はじっと目で追った。恋愛の歌なの か、ただ思わせぶりな一言葉が並べてあるだけなのか、よくわからない歌詞だった。 再生ボタンが押され、吉村は大声でその歌をうたい始めた。皆はおずおずとそれに続く。瞳 ひあせ は冷や汗をかいた。素早く視線を飛ばし、教室を見回す。誰ひとり不服を言わないというの は、いったいどういうことなんだろう ? 王様の耳はロバの耳。そういう話を思い出したが、 くちびる なぜなのかはわからなかった。流れ続ける音楽に合わせて、とりあえず歌詞を唇だけで追うこ とにした。声は出ない。

8. 視線

237 視線 「・ : おう。がんばってこい」 と片手を上げた。下ろした手を頭にやり、くしやりと前髪をかき上げる。去っていく彼の生 徒はもう、振り返らなかった。 秋に行われた合唱祭で、三年四組は望み通り、最優秀賞を獲った。吉村は大喜びだった。合 唱祭が終わって一月経っころになっても、まだそのことを口にするほどだった。相変わらず朝 ホームルーム タのに歌をうたわせたがる吉村と、いよいよ受験勉強の追い込みにかかろうとしていた 生徒たちとは、当然のごとく、次第にずれていった。もう噛み合わなかった。 吉村は気づかなかった。けれど、生徒たちは気づいていた。自分たちの担任教師が決して、 受験の際に役に立っ種類の教師ではないということ。歌をうたうこと、勉強よりもむしろ、そ れ以外のことに目を向けさせようとしている教師であるということ。小学生の時なら、今年が 受験の年でなければ、彼はもっと支持されたかもしれない。けれど、合唱祭で思い通りの成果 彼よもう役に立たな を出すまで、そこまでが、生徒たちが彼についていける精一杯だった。 , を ほんの少しだけ、それは胸の痛くなる光景だった。けれど、ざまあみろ、という気持ちも、 もちろん、すっかりなくなってしまったわけではない。特に名残もなく、あっさりと手を振り とんな気持ちなのだろう ? 自分のもとを去っていく教え子たちを見送って、吉村はいったい、。 「瞳 ! な。こり

9. 視線

「あ、そうだ。あたし紙持ってるよ。あと鉛筆とー、 : ・圭子、十円持ってる ? 」 ガタガタと音を立て、捺美は机をふたっ、向かい合わせにくつつけた。圭子は財布を取り出 みが すそ し、十円玉を一枚つまみあげて、制服の裾で軽く磨いた。鉛筆を取り出し、 けず 「ねえ瞳、鉛筆削りどこ ? こ まばた と声を上げゑ瞳は瞬きひとっせず、画用紙に向かい合っている。圭子は溜息をつき、隣の 美術準備室をのそいて、ようやく電動の鉛筆削りを見つける。 「紙これで大丈夫かなあ ? 吉村の刷った歌のプリント」 「いいんじゃない ? どうせ捨てるんでしよ」 「こんなのわざわざ刷るなって感じー」 「やたらはりきるよねえ、あの先生ー 「歌はいいから、もうちょっと受験のこと考えて欲しいよね」 ロは忙しく喋りながら、捺美は紙いつばいに五十音順のひらがなを書いた。準備が整うと、 一応顔を上げて瞳を誘う。 線「ねえ瞳、こっくりさんやらない ? 」 視 返ってきた予想通りの沈黙に、ふたりは顔を見合わせて溜息をついた。紙の上に十円玉を置 き、軽く深呼吸する。

10. 視線

十一月初めに行われるこの学校の文化祭は、全部で三日間ある。一日目は各クラスの出し物 と展示、二日目は文化系クラブの舞台発表、そして三日目に、三学年の全クラスが参加する、 合唱祭が催されることになっている。課題曲と自由曲、この二曲で、一学年にたった一クラス きそ おく だけに贈られる最優秀賞を競うのだ。 さまざま 熱の入り具合は各クラス様々で、担任が熱心なところもあれば、生徒たちのチームワークが 悪く、まとまらないところもある。吉村のロ振りからすると、今年は本格的に練習に取り組む はめになりそうだった。瞳はやつばり歌が嫌いだ。カラオケは好きだが、望んでもいないの に、他人と声を合わせて歌うということにあまり関心が持てなかった。楽しくなれない歌なん てうたう意味がない。 それよりも、彼女には文化祭までにやっておきたいことがあった。美術部の展示に間に合わ 線せて、絵を一枚描ぎたいのだ。何を描こうか。それを考えると胸がドキドキして、合唱のこと やまかわうな などどうでもいいような気さえした。顧問の山川を唸らせてやる。それ以上に、体のなかに何 うずま 視 か『描きたいもの』が渦巻いていて、それが画用紙の上に現れるのを待っている、そういう感 じなのだった。 もよお