244 瞳は彼を呼び、振り返った彼の前に、抱えていた紙筒をひとつだけ、差し出した。 「これ、あげる」 文化祭で展示された絵のほうだ。成田とふたりで見た、真っ赤なタ陽を描いたものだった。 「え・ : 、だって」 きレっせい 彼は言って、うかがうように瞳の顔を見上げた。狂ったような嬌声にふと目をやると、彼の 友人たちが冷やかしの声を上げながらパタバタと走り去っていくのが見えた。成田はさっと頬 を赤らめ、彼らを見送って舌を打った。瞳は黙って彼を見上げた。彼は逃げるように視線をそ らす。 : いいのか ? 」 たず 腹を立てたような口調でそう尋ねる彼に、 「うん。もらって」 と瞳は答えた。成田は手を伸ばし、紙筒を受け取った。とたんに瞳は、何かとてつもなく大 事なものを一度に失ってしまったような、哀しい気持ちになった。 「一緒に帰らない ? あの夏の日と同じことを、今度は瞳が言う。 「・ : おう」 成田はうなずき、とうに消え去った友人たちの姿を遠くに探しながら、ぎこちなく瞳の隣を ほお
ひび 声は自然に大きく、まるで悲鳴のようになってあたりに響いた。成田は肩を揺らし、誰もい ない背後を振り向いて、 「しつ」 と瞳のロを手のひらで覆う。瞳は低く吠え、彼の腕をひっかいた 「触んないでよ」 「声がでけえんだよ ! おび 腕をさすりながら、成田は怯えたような目つきでちらりと瞳の顔を見上げた。解けてきた髪 をかき上げ、瞳は前を向いて、両手で神経質そうにスカートのひだをたぐり寄せた。 「・ : じゃあ歌うたうのは、べつに嫌いじゃないんだな ? 成田が言った。瞳は顔を向けることもせず、黙ってうなずいた。 やっ 「良かった。俺、音楽好ぎだもん。でも嫌いな奴は嫌いなんだろうから、それじゃしようがね 線えなと思って」 「そんなに好きなら、今からでも戻って伴奏弾いてきたら ? ー 視 「・ : もう遅えよ。曲、始まった」 瞳は顔を上げ、体育館内の音に耳を澄ませた。。ヒアノの前奏。寺田はほぼ完璧に、成田に負 おお
102 ひとみ ちょっと、と瀬野圭子が手招きした。目が輝いている。何事だろう、と思い瞳はやりかけの 宿題を放って席を立った。三時限目の英語は自習となっていたが、皆好き勝手に騒いだり勉強 したりしていた。幸い、見張りの教師はいない。 「どうしたの」 空いている椅子に腰かけそう言うと、石井捺美がばっと机から顔を上げた。 「すごいのよ」 興奮した口調で、彼女は言った。机の上に広げてある雑誌に気づき、 「何、これ」 と瞳は圭子を振り返った。ふだんおとなしい彼女までが顔を赤くしているので、疑わしげに 捺美を見上げる。 「また、なんか変な物、持ってきたね」 第五章 せのけいこ いしいなつみ
245 視線 歩き始めた。何か言わなければいけないのに、瞳は何も一一 = ロえなかった。春からは別々なんだ、 と、改めて自分に確認してみせるかのように、瞳はまた思った。式ではなんともなかった鼻の 彼女は横を向き、言った。 あたりが、ふいに熱く、つんと痛むのがわかった。 / 「あのさ、 : ・忘れないでいようね」 成田は顔を上げ、 「何をワこ と真剣に問い返した。思わず視線をそらし、瞳は震える声でつぶやく。 「 : ・忘れないでねー 「おう・ : 成田はうつむき、前を歩く誰かの影を追いかけるように、少し早足に歩き始めた。瞳は振り 忘れないでいよう。楽しかったことも、そうじゃないこと 返り、下りてきた坂を見た。 も。黙り込んだまま隣を歩く成田を見上げながら、瞳は胸に、固く誓った。 おわり
126 前から知ってたんだ、と成田は笑いながら言った。瞳は適当にうなずいた。 「おまえ、スチュワーデスかなんかになるの ? とが 尖った石をコンクリートに叩きつけながら、成田は瞳を見上げて言った。瞳は少し考え、首 を横に振った。 「ならない。英語は、いざという時の備えだからー 「・ : へえ ? こ 成田はうなるように言って、また下を向いた。瞳は子供のような彼の遊びをじっと見てい 彼は顔を上げ、思いついたように言った。 「おまえ、何部だっけ ? 「美術部」 「あ、そうか。スポーツは苦手だって言ってたな」 「・ : 誰が ? 」 「谷山」 何なの、こいつ。目の前の横顔をじっと見つめながら、瞳は今ここで彼とこうしていること ふく が不思議で仕方がなかった。耳の横に汗粒が浮かんでいる。見ているうちにそれは膨れ上が り、流れ落ちてコンクリート の上に黒い染みを作った。どちらもなかなか話し出そうとしない ので、息詰まるような沈黙はしばらく続いた。
238 群れの近くで捺美が呼んだ。 「ごめんね、じゃあ」 瞳は手を振って、美術部の後輩たちに手を振った。近づいていくと、捺美は瞳の腕をすばや くつかみ、 「先生、次、あたしたち撮ってー とカメラを構えた吉村に叫んだ。瞳は思わず顔をしかめ、身を引いて捺美の腕を振り払おう とした。 「・ : ちょっ、待ってよ、やだわたし、ちょっと捺美 ? 」 小声と身振りとで必死に抵抗していると、圭子がやってきて反対側の腕を取られた。瞳はあ わてて胸のなかの卒業証書と絵の筒を抱え直す。 「冗談でしょ ? やめてよ」 などと小声で言っているうちに、ふたり分の力には勝てず、瞳はカメラの前へ押し出されて しまった。いやいや前を向くと、カメラを構えている吉村の後ろで、成田がこちらを見ている のがわかった。かすかに笑み、片方の眉を上げている。 「先生、次は入ってください」 一枚撮り終えると、捺美がそう言って吉村の顔を見上げた。腕を突き出し、瞳を彼の前に押 し出す。
なりたかっゆき 「 : ・成田克之です。部活はバスケ、趣味はべつにありません。よろしく」 瞳は顔を上げた。聞き覚えのある名前だった。ガタン、と音を立て椅子に腰かけた横顔は、 少し陽に灼けて浅黒い。すねたようなへの字のロもと。目玉の黒い部分が、普通より少し足り つね ないようだった。整っているといえば整っているその顔のなかで、常に上目づかいをしている けんか ようなその大きな目玉だけが、まるで見るものすべてに喧嘩を売っているかのようにギラギラ ぎ・っし していた。 / を 彼よその目で、何も置かれてはいない机の表面をじっと凝視していた。 のざわしげる 「野沢茂です、趣味はーー」 すぐ後ろの男子生徒が立って、少し頬を赤らめながら、まだ、話している最中だった。吉村 は組んでいた腕をほどき、彼の声を遮った。それは少し無遠慮な、暴力的なやり方だった。 「ちょっと待て、成田。趣味がひとつもないってことはないだろう。ん ? テレビを観るので も、音楽を聴くのでもいし べつにないって言うのはだめだ。何かあるはずだろう ? 」 吉村はまっすぐに成田だけを見つめ、成田はうとましげにそんな彼を見上げた。その後ろで 棒立ちになっている野沢茂には、ふたりとも気づかない。 「・ : 趣味は食って寝ること。以上、おわり 成田は立ち上がり、それだけ言うとまたすぐに座った。吉村の表情をうかがうこともせず、 椅子に深く座り直す。吉村は笑い 「そうか。それも趣味だな」 さ。」
った。おみくじを買ってくる、と言ってひとりで駆け出そうとする捺美を止め、 「はぐれちゃうよ」 はで と瞳は言った。派手な着物や家族連れや浮き足立ったカップルの群れで、まだ神社のなかへ も入れない状態なのだ。 「一緒に行こう」 圭子がそう言って、捺美が背中に負った、リュックのベルトをつかんだ。瞳はうなずき、反 対側から捺美の腕を取る。もし万が一はぐれたら鳥居の下、と決め合い、人ごみに押されなが ら、三人はおみくじ売り場へと移動し始めた。寒いはずなのにうっすらと汗をかく。 ぐら、と突然よろめいた人波に押されて、瞳は一瞬だけ捺美の腕を離す。あっ、と思った時 にはすでに彼女の姿はなく、圭子が驚いたように振り返りながら、人波に消えていくところだ った。瞳は呆然と波に押されていた。揉まれながら、おみくじ売り場を通りすぎ、神社の本堂 へ向かう波に流される。頭上に巨大なロープと鈴。あれ、と思うと目の前に賽銭箱があった。 「ちょっ、どいてよちょっと、あんた ! 」 ふりそで 線ビンクの振袖を着た化粧の濃い女が、瞳の右肩のあたりで悲鳴を上げた。自分が波を遮って いることに気づき、瞳はあわてて左へ避けた。と、 視 「ああっ、お母さん、痛い、この人が、このお姉ちゃんがっ と足元で声がした。四、五歳の男の子が、涙目で瞳を見上げている。見ると足を踏んでい とりい さいせんばこ
ひび 教室には、テープの巻ぎ戻る音だけが響いた。早川はどうすればいいのかわからないらし く、しきりに吉村の顔色をうかがっている。吉村はすでに彼の存在を忘れていた。 「田辺はフォークは嫌いか ? 最近はやりのチャラチャラした歌のほうがいいか。 あの、早く返して欲しいか」 「べつに。また買えば済むことですから」 腹の底から込み上げてくる熱の塊を抑えつけ、瞳は平然と顔を上げていた。ここで泣くのだ けはいやだ。過去にも、瞳は教室のなかで教師に叱られ泣きじゃくったことがあった。でもそ れは自分が悪いのだと反省したからだった。それにあれは、小学一一年生の時のことだ。 最近はやりのチャラチャラした歌、などと言う吉村の顔を、ざまあみろ、という思いで瞳は 見上げていた。化けの皮がはがれた。なのにな・せ、みんな気づかないんだろう。 「準備はいいか ? しつかり歌えよ」 のど ガチャ、とラジカセが鳴った。ギターの前奏が始まる。瞳の喉から、絞り出したようなか細 けんめい い声が出た。瞬間、舌打ちしたい気分になった。しつかりしろ。カラオケと同じことだ。懸命 に声を張り上げたが、信じられないほど高く細い声が出ていくだけだった。マイクを通した声 線 とは違うし、自分で選んだ曲とは違う。悔しさに涙がにじみそうになった。恥ずかしさに体が 視震えた。プリントを持つ手が震えるので、瞳はそれを机の上に置いて両手でその端を押さえ た。さりげなく全身の震えを止めたつもりだった。でも声の震えだけは、どうにもならなかっ かたまり くや : どうだ、
かが るところだった。足にからみつくその枯れ葉を、ゆっくりと屈み込んで指で払いのける。顔を 上げてあたりを見回してみたが、早朝の坂道はしんと静まり返って、自分以外には誰の姿もな かった。そっと見上げた坂の上の校舎から、かすかに、人の気配がする。でも秒読みの声はも ゆっくりと坂を登り始めながら、瞳は次第に音高くなっていく心臓の音を聞いていた。ほ ら、やつばり、と彼女は思った。遅刻なんて、本当は全然、大したことではないのだ。そうじ ゃないかと思っていた。とうに始業のチャイムが鳴り終わったこの時間に、自分はまだこの坂 かな つら の途中にいる。でもべつにどこが痛いわけでもないし、哀しく辛いわけでも、何か大きな不都 合があるわけでもない。ただ人より少し遅れて教室へ入り、名簿に『遅刻』と記されて、少々 の説教をされるだけ。それだけだった。 にら つば 頭上に見え始めた校舎の角をひと睨みして、瞳はごくんと唾を飲んだ。急にお腹が空いてき た。このままどこか屋上へでも行って、ひとりでこっそり弁当を広げようか。今すぐ方向転換 をして、海を見に行くのでもいい。ひとりで。たったひとりで、今のわたしは、何だってでき たん、と坂を登り切って、瞳は思わずにやついてしまう頬を懸命に引き締めた。昨夜眠れな 視 かったことや、今朝食事が喉を通らなかったことが、心底。ハカ・ハ力しく思えてきて、今にも笑 1 い出しそうだった。八つ当たりしてごめん、と弟に謝りたくなった。教師に怒られようが、同 けんめい