「声が出ないのかー ? 」 机に手をついた吉村の顔が至近距離にあったので、瞳は顔を上げることができなかった。目 を伏せて下を向いた。ロも閉じた。 「この歌が嫌いか ? 」 幼児をあやす医者のような愛想笑いを浮かべ、吉村はコッコッと指先で机を打った。瞳は黙 って首を横に振った。 「なんだ ? 中学三年にもなって口がきけないのか、おまえは」 「何がいいえだ ? 「嫌いではないですー 「目を見て一 = ロえ」 「 : : : 嫌いでは」 「小学校で習わなかったか ? 話をする時は相手の顔を見ろと言われただろう」 瞳は顔を起こし、視線だけを遠くに飛ばした。この距離で吉村の顔を見ることなど、できな かった。こいっコーヒー飲みやがったな、と彼女は思った。教師というのはなぜ職員室でコー ヒーを飲むのだろう ? 昔から疑問だった。飲むのは勝手だけどロ近づけないでよ。
「・ : っしまーす」 準備室のほうで声がした。瞳は濡れた手を拭ぎ、隣の部屋へ通じるドアを開けた。 たなべ 「あ、田辺」 またか、と瞳は顔をしかめた。その顔を見て、ダンポールを首の下まで抱え込んだ成田も嫌 な顔をした。 「何か用 ? 美術の教材が詰まったダンポールを受け取りながら、瞳は言った。 「用って、べつにおまえに会いにきたわけじゃねえよ」 くちびる 成田が言った。見ると、唇をとがらせ本気で怒っている。 「先生に頼まれたんでしよ。わかってるわよ」 「わかってんなら聞くなよ」 「うるさいわね。用が済んだら出てってよ ! 」 どな いつになく興奮して、瞳は顔を赤くしながら怒鳴った。成田は少し驚いたようだった。 「なんだよ、 : ・怒鳴りやがって」 線 視「おまえがちゃんと歌うたわねえから悪いんだろ ! 」 瞬間、。ヒシ、と廊下へ通じるドアが鳴った。成田が顔をそむけた、その一瞬後だった。彼の かか なりた
なんだ、と瞳は思った。わたし、全然、負けてないじゃん。むしろ勝ってるかも。だって歌 からは逃げた。でも吉村からは、絶対に、逃げなかった。一回だけ泣いたけど。でも翌日はち ゃんと、学校へ来た。 心配げに眉根を寄せて、圭子が瞳の顔を覗き込む。瞳は顔を上げ、 「なに ? と笑った。あまりにも得意げな笑顔なので、ふたりはふいを突かれたような表情で顔を見合 わせる。瞳はそれには構わず、 「帰ろうか」 とふたりをうながした。肩を並べ、中学の三年間を過ごした校舎を背に、門を出る。きゃあ しゃべ きゃあと声高に喋りながら、坂を下る。 「じゃあね」 「明日、試験がんばろうねー 線「うん、明日ね」 道の違うふたりと別れてひとり脇道に入った時、すぐ前を歩く学生服の影に、瞳は顔を上げ 視 た。成田だった。同じバスケ部の男子生徒数人と肩を並べ、笑いながら歩いている。 「成田」
たなべぶっちょっづら 「田辺、仏頂面しないで、笑ったらどうなんだ ? 」 カメラを成田に渡し、こちらに近づいてぎながら、吉村が言った。唇をねじ曲げ、いつもの 嫌味な笑顔を浮かべる。正月に神社で出会った時のことを、瞳は思い出す。あの時のあの顔。 普通の家族の、父親である時の彼の笑顔。信じられなかった。この男があんなにも普通に笑う ことができるなんて、瞳は今でも、正直言って信じたくなかった。だって、それじゃあどうし て、わざわざこんな顔で笑ってるわけ ? なんでわざわざ人の腹の立っことを、嫌味な一言葉を 選び出して言うわけ ? 一家の父親である彼がどうだろうと、瞳には関係のないことだった。 教師である彼のこの笑顔が、瞳はやつばり嫌いだ。彼はきっとあと何年経っても瞳にとっては 教師なのだろうし、瞳も彼の生徒だった。子供を産もうが、年を取って腰が曲がろうが、それ だけは変わらない。残念なのか悔しいのか、わからないけれどそれだけは確かなのだ、と瞳は 思った。 「よし、先生はどこに立てばいいんだワこ 嬉しげに笑いながら、吉村はいつのまにか瞳の真後ろに立っていた。捺美と圭子がその両側 線に立ち、すでににつこりと顔を作っている。三人のなかで一番背の低い瞳がやや前に立ち、そ の後ろから、吉村が顔を出す格好になった。瞳は彼の顔を見上げることもせず、やつばり気分 にら 視 的に笑うことはできなくて、まるで睨みつけるようにカメラに向き直った。 「いくそー
下を向いて、瞳は黙り込んだ。顔に張りついた笑いが、剥がれて偽物に変わっていくのがわ かった。それには気がっかない顔で、 「音楽の先生で良かったよね。受験科目にないから、まだ気が楽ー と寺田が言った。とりあえずその一一 = ロ葉には同意しながら、瞳は・ほうっと考えにふけった。 「・ : 田辺さん ? こ はっとして顔を上げると、寺田が笑ってこちらを見ていた。唇をす・ほめ、照れくさそうに笑 「あのね、私のこと、有里って呼んでくれていいから」 「・ : ああ、うん」 瞳は笑った。そんなふうに改めて言われたのは初めてで、つられて顔が赤くなる。瞳にとっ ふんいき て友達とは選ぶものではなく、その場の雰囲気と相性と縁とで、なんとなくつながっていくも のだった。友達になろう、と言って友達になったことなど一度もない。だからこそ、新しいク ラスに未だに溶け込めずにいるのだった。寺田の言葉は単純に嬉しかった。 「わたしのことも、呼び捨てでいいからねー 「うん。・ : ところでさー まゆ 寺田は眉をひそめ、深刻な表情をした。 「のんびり歩いてる場合じゃないかも。けっこうヤ・ハイよ、時間」 えん くちびる にせもの
230 ねえ ? 進路変えたらしいよ』 のぞ 黙り込んでしまった瞳の顔を覗き込んで、 『心配 ? 』 と圭子が笑った。素直にうなずく瞳を見て、圭子のほうが顔を赤らめた。 『医者になるから、親が言うから、俺は絶対に高に入らなきゃいけないって言ってたの。な んでだろ ? レベル上げたのかな、上げたんならべつにいいんだけど : ・』 夏に職員室で、吉村に頭を下げていた彼の横顔を思い出した。母親に持たされた手紙を、手 を離して風に飛ばしてしまった。あいつ、受け取らなかった、と言った悔しげな表情。『誰に せつばっ も言うなよ』。切羽詰まったあの言葉を、声を、思い出した。 『 : ・瞳』 圭子が心配げに瞳の顔を覗き込む。瞳は口元をへの字にし、まだ考えこんでいる。胸に、あ る予感が湧いてくる。嫌な感じ。正月に神社で会った、吉村の顔を思い出す。 「校歌斉唱」 卒業証書授与が終わゑ皆がいっせいに立ち上がって、テープに吹き込まれた校歌の伴奏が 流れてくる。瞳はロを開ける。最後だから、声を出してきちんと歌う。これは強制じゃない。 無理矢理、歌わされているわけではない。 でもあいつのことを、まだ許したわけでもな
「なんか、盛り上がってんな」 成田が言った。三年四組の発表が終わったらしい。瞳はうなずき、ようやく言葉を見つけ出 して、 「結局、その先生、気づいたの ? 」 と尋ねた。自分のせいで成田が苛められていること、そのことに彼女は気づいたのか、と。 成田はうなずき、すぐに、まるで思い直したようにまた首を横に振った。 「・ : 気づいた、と思う。全部じゃないだろうけど。俺が転校手続き取りに親父と学校へ行った かな 時、あいつ、すげえ哀しそうな顔で俺に、どうして、って言ったんだ。クラスのみんなに苛め られてるの ? ってな。だから俺、あんたのせいだ、って言った。顔上げて、はっきり言って やった。・ : あいつ、ちゃんとわかってたかな : ・」 成田はうつむき、キュッと眉根を寄せた。しばらくは何も言わず、考えこんでいるようだっ た。やがて顔を上げると、 「かわいがってもらったんだ。それは確かだ。でもあれは正当な行為じゃなかった。教師とし 線てはな」 と、ひとつひとつの言葉を慎重に、確かめるように言った。彼は顔を上げて瞳を見た。 視 「だからおまえの気持ちは、わかるんだ。なんとなく、わかると、思う。だって吉村の態度 は、あれは、あれも、正当な行為じゃないだろ ? どっちが悪かったとか、そういうことは俺 しんちしっ
159 視線 かんちが 赤く染めた。それを見てようやく、瞳は彼の勘違いに気づいた。彼は間違えてしまった。そし おろ て、何かにつけて瞳の存在を過敏に意識してしまう自分の弱さを、生徒たちの前で、愚かにも さらけだしてしまったのだった。 吉村の沈黙。瞳の沈黙。そして、そのふたつを取り囲む巨大な、教室という名の沈黙がそこ にはあった。成田は顔も上げず、ひたすらシャーベンを走らせている。捺美はもどかしげに膝 と膝をこすり合わせ、圭子はあからさまに顔を上げて吉村の顔を凝視していた。 瞳は、確かな憎しみがその胸に芽生えるのを、それが育ちゃがて種を蒔くであろうことを、 目を伏せて、静かに予感していた。
「わたしの鞄、返してよ ! 」 瞳はそう言い、堤防に立てかけてあった自分の荷物を奪い返した。かわりに成田の鞄を地面 に放る。 「おまえ、乱暴にすんなよー から 「ふん、どうせ空っぽのくせに」 「そんなことないそ」 上目づかいに瞳を睨み据え、成田は鞄のなかに手を突っ込んだ。ごそごそと音をさせ、すぐ たてなが に白い縦長の封筒を取り出す。 「これ、なーんだ ? 「知らない。吉村に差し上げる賄賂か何か ? 」 返ってきた沈黙に少しだけ後悔し、瞳はおそるおそる成田の顔をうかがった。彼は、特にこ れといった表情のない顔をしていた。 線「そうかもな」 その顔でぼつりと呟くと、封筒の中身を取り出して瞳のほうへ投げてよこす。 視 「・ : 何よ ? 」 つぶや わいろ
128 るさくても、腹んなかで考えてることまで見つけてウダウダ言う権利はねえんだから」 しゃべ 笑顔さえ浮かべて、成田は得意げに喋った。瞳はうなずきながら、少し体が寒くなった。こ いつの本当の顔はいったいどれだろう ? 中学生男子らしくふざけて笑っている彼と、シャー あぶらあせ ペンを握り締め緊張に脂汗を浮かべる彼と、気に入らない人間を頭のなかで抹殺する彼。誰で もひとつやふたつの顔は持っている。けれど成田の本当の顔がどれなのか、瞳にはまるで見当 がっかなかった。めまいさえ感じて、貧血を起こした時のように額が冷たくなった。 だめ 「わたしは : ・駄目だな。頭に来るとすぐに顔に出ちゃう。あんたは、ポーカーフェイスが得意 みたいだけど」 声に少しだけ刺を含ませて、瞳は成田の横顔を見た。目が合うと彼は待っていたように笑っ てみせた。 「おまえさ、小学校ん時の給食って好きだったワこ めんく 彼は唐突に話題を変えた。瞳は少し面喰らいながら、あわててうなずいた。 「好きじゃないけど、べつに嫌いでもなかったよ」 「ビーマンとか食べられる ? 」 「うん。あの苦味がおいしいんじゃない」 「でも子供用の味じゃないだろ」 とうとっ まっさっ