入り口のほうから、若い女性が、つかっかとこちらに向かってくるのが見えた。 はで 大きく肩が露出した薄っぺらい派手なワンピースに身を包み、手には定番のプランド物 のバッグをぶらさげている。 ひど 「やっと会えた ! もうつ、酷いじゃない」 しつけ 女は岡野の前まで来ると、津川や青木がいるのもかまわず、不躾な態度で息巻いた。一一 十代前半なのだろうが、岡野の姉の麻子とそういくつも違わないのに、礼儀も何もあった ものではない。 「連絡ぐらい、ちょうだいよー 「えっ ? 君は : 突然のことに、岡野は心から驚いた表情になった。誰だって、こういきなり食ってかか るように言われては、言葉もないだろう。 りな 「君はって、失礼ね。相多よ、相多理奈 ! 相手が多いって書くのよって教えたじゃな 々 日 : いつになったら名前、覚えてくれるのよ」 の きおく 金『相多 ? 』どこかで聞いたような名前に、記憶をたぐっていた青木は、この展示会場が 入っているビルの入り口に同じ名が刻まれていたことを思い出して、なるほどと思った。 察するに、ビルのオーナ 1 の娘というところなのだろう。それにしても、相手が多いと
131 黄金の日々 思いがけず和んだせいか、いつの間にか仕事の疲れも少し取れたような気がした。 エレベーターのドアが開いたのを機に、玄関前に車を停めていた二人と別れると、青木 はひとり病院の裏手にある職員駐車場へと急いだ。津川は、いったん車を表に回してか ら、医局に上がってきていたらしい ばつんと一台だけ残った車に向かって歩きながら、青木は津川のことを考えていた。 彼は理知的に見えるが、かといって頭の中まで堅く冷たいわけではない。高校時代に、 恋愛の対象が異性とは限らないことを、隠しもしなければ恥じたこともなかった自分を、 津川はなんの偏見もなく見ていたはずだ。 のうり 青木の脳裏に、津川を笑わせていた岡野の姿が浮かんだ。
おおかたの事情はマスターからの電話で聞いて知っていたのか、麻子は、津川と青木に 気付いて軽く頭を下げると、カウンターのそばへと向かっていった。 めいわく 「すみません、ご迷惑をおかけして」 「もう落ち着いたみたいですよ」 意外にしつかりした声で、マスターが答えた。目に優しさが宿っている。 うなず 麻子は小さく頷いた後、岡野に言った。 「ごめんね。遅くなって」 岡野が顔を上げるのが見えた。 表情に少し疲れが見えたが、もう泣いてはいなかった。感情を爆発させた後に見られる ひとみ すがすが 脱力感にも似た清々しさが、一度は涙をたたえたせいで洗われたような瞳に浮かんでい 「姉さん : 々 「帰ろ。車、待たせてるの」 の 金「うん」 岡野が姉の存在をはっきり認識していることに、青木は驚きを感じた。これといって何 かをはっきりと予想していたわけではないが、単純に考えて、岡野にはもう何も理解でき やさ
やまい 「深刻な病に冒された患者さんやその家族に病状説明をしたり、死亡を告げたりするたび がんば に、僕も同じことを感じます。『手を尽くします』とか『頑張りましよう』とか『気を しつかり持ってください』って言いながら、それがいったいどれだけの役に立つんだろ : って。いざ大切な人や自分自身が不治の う、無責任なことを言ってるだけじゃないか : 病に冒されたら、真っ先にそんな言葉なんて否定してしまいそうな自分がいることも知っ てる」 「でも、やつばり言い続けたいですよ。そんなことしかできなくても、精いつばいのこと はしていきたい。なんの役にも立たないように思われることであってもね。青木さんだっ て、いつもそうしてるじゃありませんか」 「そう : ・ 日ぎこちない表情で煙草をくゆらす青木に向かって、菊地は肯定するように頷くと、ゆっ 金くりと流れていく煙を目で追いながら呟いた。 つがわ 「だけどーー津川さんたちに比べたら、僕たちはいったいどれほどお互いを知ってるんで しようね : つぶや うなず
162 青木は言った。 「いったい何があったんだ ? 」 なじ 「馴染みのバーに姉さんと出かけた先で、女の子と揉めてるらしい 「女の子 ? 」 はで 「岡野の個展で彼にしつこく言い寄っていた派手な子がいたのを覚えてるか ? 」 「あ、ああ」 すき どな 三人が店に来てすぐ、姉が電話で呼び出されて、その隙に彼女が怒鳴り込んできたらし 青木の中に、個展会場での一件が思い起こされた。女の子のことは、あまり印象はな ふおん かったが、確かにその時も不穏な感じがなかったわけでもない。 あわ 「電話で姉を呼び出したのもその子だろうな。店のマスターが慌てて携帯に電話を入れた みたいなんだが、すぐには戻れそうもないとかで、俺の所に知らせてきたんだ」 「しかし、どうしてまたそんなことに」 やさ 「基本的にあいつは優しいからな。よく、その気があると誤解されてしまう」 開けた窓の外に向かって煙を吐きながら、津川は言った。 「それに、うまくかわせないせいもあるかもしれない。あいつには無理なんだ」 けいたい こ
( なんだ ? ーーー確か、彼らは出会って、まだ一年にもなってなかったんじゃ : : : ) ねじ 突然グニャッと現実が捩れたような、変な感覚が青木を襲った。それは、いつだったか あさこ 岡野の個展で、姉の麻子と津川との目配せを見た時に感じた、奇妙な違和感に似ていた。 どうしていいかわからず、青木が写真を本のあいだに戻しかけた時、医局の入り口のド アが開く気配がして、津川の声が聞こえた。 「何か役に立ちそうな本はあったか ? 」 どうすることもできないまま、青木は後ろを振り返った。津川はいつもの余裕に満ちた カ青木が手にした写真に気付くと、立ち止まり、 涼しげな顔でこちらに向かっていた。、ゝ、 まゆ 眉をひそめた。 「悪い。見るつもりはなかったんだが : : : 」 さと 津川の顔から険しさが消えた。自分の不注意を悟ったのだろう。青木が写真の日付に疑 日問を持ったことにも、気がついた様子だった。 金「津川、この写真は・ー・ー」 青木がねようとした時、応接テープルの上の電話が鳴った。
126 総合病院とはいえ、そこでは終業時刻を過ぎると、医局には誰も残ってはいないのが常 だった。当直医も、ここでは早々に当直室で待機する決まりになっているらしい ひま 都心部から離れているせいで比較的暇ということもあるが、言ってみれば病院自体の体 質だろう。勤務中は熱心だが、自分のプライベートも大切。だから必要以上に他人に干 しよう ふんいき 渉はしない、という雰囲気がそこにはあった。 ししよう ただ、厳しい所になると関係者以外の入室は固く禁じているのに比べ、そこでは支障が ない限り、知り合いが医局に出入りすることにも寛大だった。 かんさん 青年と一一度目に会ったのは、そんな終業時刻を過ぎた閑散とした医局の中でのことだっ た。エレベーターの一件から、小一時間ほど後のことである。 患者だろうか ? それとも、上へ行くということは、見舞客か ? そうこう考えているうちに、エレベータ 1 が病棟を示して停まった。 いろいろと気にはなったものの、ストレッチャーと共にそこで降りると、青木は残して きた仕事へと頭を切り替えながら病室へと向かった。 かん
あおきつがわ 近くのパチンコ店の駐車場に車を停め、青木と津川が向かったのは、表通りから一本内 に入った所にある小さなバーだった。 はな 全体に華やかさには欠けているものの、優しい顔立ちのマスターから漂う物静かな感じ と、どこか隠れ家めいた居心地のよさから見て、おそらく常連の男たちが至福の時と酒を 楽しみに来るような場所なのだろう。 たが かんばんひ 看板の灯がついていなければ見過ごしてしまいそうな入り口の印象に違わず、十坪ほど つく の内部はシックで落ち着いた造りになっており、奥の棚に並んでいるのもウイスキ 1 や たぐ、 1 ポンといったものがほとんどで、女性向けのカクテルのは見当たらない。店に入っ 金てすぐ右手にあるカウンタ 1 席の許容量も、七、八人がせいぜいというところだろうか。 そびよう 素描に色づけされた三点の男の肖像画だけが、黒と濃いプラウンを基調にした店内に色 えが を添えていた。角度のせいで誰を描いたものかはわからないが、絵の感じから見て、おそ やさ
130 昼間と違って途中で停まることもなく、静かに下降していた。 「しかし、知らなかったな。津川に画家の知り合いがいるなんて。絵の趣味なんて、あっ たか ? 」 最初に彼らを見た時から、青木は一一人の組み合わせを意外に思っていた。どちらかとい えば、確かに津川は体育会系というより文化系という感じだが、青木の知る限り、彼は絵 きようみ 画に興味を持つような男ではなかったからだ。 たの 「いや、じつは彼に絵のモデルを頼まれてるんだよ」 「モデル ? 」 きかえ いちばん、想像から遠かったその返事に、青木は思わず訊き返していた。 「そうなんです。僕がぜひにつて、津川先生にお願いして」 ねっー : というほどでもないが、素早く視線を交わした一一人を呆れたように見なが ら、青木は笑って首を振った。 「まいったのはこっちだよ。絵のモデルというのは美女しかなれないもんだと思ってた が、こんな奴でもなれるとはね」 しんびがん 「失礼な男だな。画家の審美眼にかなった俺に向かって」 ほころ 言って笑った津川につられて、岡野も目元を綻ばせた。 やっ あき しゆみ
状況が状況とはいえ、岡野は硬直したまま、途方に暮れたように麻子を見つめていた。 あせ こめかみのあたりに汗が光っている。顔色もよくない。 津川もまた、険しい顔をしていた。 「何も心配ないわ。後は私に任せて、あなたはお二人を案内してさしあげて」 麻子はそう言うと、「大丈夫ですか ? ーと声をかけた青木に申し訳なさそうに小さく会 しやく 釈した後で、改めて青木と津川に向かって詫びた。 「お見苦しいところをお見せして本当にすみません」 そう答えながら、なんとなく麻子と津川を見た時だ。 無意識に麻子の視線を追っていた青木は、その先で津川が頷くのを目にして、なんとも 形容しがたい奇妙な感じに襲われた。 表面的には、麻子の謝罪に津川が頷いているだけにしか見えなかったが、二人の目の奥 日に特別な何かがあるのを感じたからだ。暗黙の了解が二人のあいだにはあって、その何も 金かもを承知したうえで彼女をカづけるような強さが、津川の目にはあった。 知り合った期間を思えば津川とは比べようもなかったが、ふと青木は、自分が蚊帳の外 そが、かん にいるような疎外感を覚えた。大切な何かが自分には見えていないような気がしたのだ。 うなず