は、たとえにしても下品なものだ。 「聞いてるの ? 」 「ごめん」 「ごめんじゃないわよ。どうして電話くれないの ? 個展の初日に約束して、もう一一週間 もたつのよ」 「初日に ? 」 「忘れてたっていうの ? 信じられなーい。なんで約束なんかしたのよ ? 責めるように問い詰める理奈に、先ほどとは打って変わって、岡野は生気のない表情 つぶや で、もう一度、ごめんと呟いた。 いっしょ 「パパと一緒にお花持ってきた時、こんどお食事しましようって誘ったら、 O>< してくれ たじゃない。 いつって訊いたら、個展が終わるまでには とか一一 = ロうから連絡待ってたの に。用があるならあるって、電話ぐらいくれたってーーー」 「ごめんなさいね、相多さん。私のせいなのよ」 「あっ : : えっ ? 」 いつの間に戻ってきたのか、すまなそうに声をかけた麻子を見て、理奈の表情がわずか こわ 3 に強張った。対極に位置するちゃらちゃらしたタイプの理奈にとっては、ガードの堅い麻
154 後で、理奈は待ってましたとばかりに口を開いた。 「電話くらい欲しかったわ。そしたらあたしだって、こんなとこまで来たりしなかったの に。ねえ、じゃあ、いつなら 「相多さん。ここにはほかのお客様もいらっしやるわ」 すかさず麻子が理奈を制した。 「こんな所じゃなんだから、後日改めて、ということでいいかしら ? ていねい 言葉は丁寧だが、を感じさせる物腰に、さすがの理奈も自分の旗色の悪さを感じ 取ったらしい 「そ、そうね。じゃ、連絡ちょうだい」 「ええ、必ず 「待ってるから。じゃあね、亨 ! 岡野に代わって返事をした麻子に、ムッとした表情でわざとそう答えると、理奈はよう やく立ち去った。 「姉さん : : : 」 ホッとした青木の傍らで、そう呟いたのは岡野だった。 かたわ つぶや はたいろ
なければ、考えても答えが見つかるとは思えなかったが、本の中にコクトーのこの一一 = ロ葉を ばくぜん 見つけた時、青木は漠然とだが、菊地のことを思い浮かべたのだった。 岡野も言うように、人はそれぞれ固有の何かに惹かれていくものなのだろう。 そしてたぶん、それを見つけることができただけでも、幸福なのかもしれない。 津川を待っ三、四十分が、青木にはひどく短く感じられた。 岡野もそう思ってくれているかどうかはわからなかったが、二人とも退屈からは免れて いるような気がした。 かん すでに青木は、缶コーヒーを煙草に変えていた。岡野もまた、空の缶をテープルに置い て、すっかりくつろいでいる。 「津川と出会って、どれくらい ? 「半年に : : : なるかならないかってとこかな」 々 「えっ ? まだそれくらい ? 」 の 金青木には意外だった。そんなに浅い付き合いには思えなかったからだ。 「てつきり、もう何年にもなるのかと思ってた」 「自分でも不思議です。ずっと昔から知っていたような気もするんですよね。落ち着くと たいくっ まぬか
199 あとがき こんにちは、紅です。 今回も私たちの本を手にとっていただき、ありがとうございました。 前回に引き続き、再び予告から遅れた発行になり、待っていてくださった皆さんには本 当に申し訳ありません。 なんとか前作から一年後にならずにすみましたが、それでも十か月という遅筆。 うれ 楽しんでいただけたら嬉しいのですが、いかがでしたか ? 今ひとつ、うまく消化できなかった感じもありますが、今回の話はいっか書きたいと ずっと思っていたものでした。 きっかけは、昔テレビで見たドキュメンタリーです。 外国の作品で、本書で菊地が話していたような内容に加え、たくさんの実例が紹介され ていたのですが、とりわけ印象に残ったのが記に関することだったのです。 きようみぶか 興味深いというより、最初に感じたのは、親近感でした。 自分にも、過去の一部分が白紙に戻ることがあったからです。 きようれつ かかわった人たちに言わせると、とても強烈な出来事のはずなのに、記憶の中から完 全に消失しているというか : : : 正確には脳のどこかには残っているのでしようが、まるで
160 コール音から、それが外線だということは青木にもわかった。受付から回されてきたら しい。電話を取ったのは津川だった。事務的な応対の後、そのまま会話している様子から みると、どうやら宛のものだったようだ。 とおる 「亨が ? 聞くともなしに話が終わるのを待っていた青木は、ふいに覚えのある名前を耳にして津 川を見た。それに気付いたのか、津川もまた青木のほうへと視線を向けた。表情は硬く、 ぎこちない。 「彼がどうかしたのか ? 電話がすむのを待って、青木は声をかけた。 「ちょっと、トラブルがあったようだ」 いっしゅん 一瞬ためらった後で津川が答えた。隠しておいても仕方がないと思ったのだろう。 「トラブル ? 」 青木が手にした写真に目をやり、もう一度、視線を青木に戻すと、津川は諦めたように あきら
これを・ : 待ってたのか : : : 俺は あ : ・あ : ・
おまえたちが出会った後に起こったんだろう ? 」 「そう言われてはいるが、ケースパイケースみたいだな」 苦笑いを浮かべながら、津川は言った。 「いったい頭の中で何を基準に振り分けが行われるのかわからないが、姉や絵のことは きおく ちゃんと記憶にあるのに、彼は俺のことは覚えてはいなかった。一時的に覚えはしても、 記憶はされない 「そんな : : : でも、前に彼と話した時、彼はおまえが理想像だったと : ・ 「それは本当さ。さっきも言ったように、俺たちはあいつが話したとおりの出会い方をし た。彼の中で俺に関する記憶があるとすれば、彼の描きたかった人物に俺がそっくりだっ たということぐらいだ。ほかのどんなことを忘れても、それだけは決して記憶から消えな いらしい 『我々の目は、いつでも一つの定まったタイプに執着するもので、こうして無意識に一つ せんたく 日のタイプを探し求めることが、我々の選択を支配する』ーーー青木はかって岡野に話したコ 金クト 1 の言葉を思い浮かべていた。 津川との日々は記憶から消えても、無意識に彼を求める気持ちだけは岡野を支配し続け ているのかもしれない。
ないような気がしていたのだ。 席を立ち、麻子についてカウンタ 1 を離れようとしたところで、青木たちを目にした岡 野が突然立ち止まった。 「ちょっと、待って」 きれい まばた 綺麗な目が、驚いたように瞬きを繰り返した。 「すみませんーー」 麻子のし力。 ) ゝナには答えず、岡野はまっすぐ津川のほうへ来ると声をかけた。 津川の顔には、医者が患者に向ける穏やかな笑みのようなものが浮かんではいたが、彼 からだ がわずかに身体を硬直させるのが青木にはわかった。 「あの : : : 突然で申し訳ありませんが、ここへはよくいらっしやるんですか ? 青木は自分の耳を疑った。 「ーーああ、時々。それが何か ? 」 「どうしたの ? 」 「姉さん、この人ほら、僕の絵の中の ! 」 岡野は振り返って麻子にそう言うと、津川に向き直り、信じられないといった表情で呟 つぶや
おおかたの事情はマスターからの電話で聞いて知っていたのか、麻子は、津川と青木に 気付いて軽く頭を下げると、カウンターのそばへと向かっていった。 めいわく 「すみません、ご迷惑をおかけして」 「もう落ち着いたみたいですよ」 意外にしつかりした声で、マスターが答えた。目に優しさが宿っている。 うなず 麻子は小さく頷いた後、岡野に言った。 「ごめんね。遅くなって」 岡野が顔を上げるのが見えた。 表情に少し疲れが見えたが、もう泣いてはいなかった。感情を爆発させた後に見られる ひとみ すがすが 脱力感にも似た清々しさが、一度は涙をたたえたせいで洗われたような瞳に浮かんでい 「姉さん : 々 「帰ろ。車、待たせてるの」 の 金「うん」 岡野が姉の存在をはっきり認識していることに、青木は驚きを感じた。これといって何 かをはっきりと予想していたわけではないが、単純に考えて、岡野にはもう何も理解でき やさ
166 きおく ても、エピソ 1 ド記憶といって、買い物に行ったこと自体の記憶が、すぐに失われてしま うのである。 「まあ、似たようなもんだ」 がくぜん 青木は愕然とした。 知識として知ってはいても、これほど身近にそれを感じたことは初めてだったからだ。 しかも、完治する可能性はとても低い いっしょ 「最初は俺にも信じられなかった。しばらく一緒にいれば、そのうち思い出してくれるん じゃないかとも思ってた。だって、何も変わらなかったんだぜ ? ある程度の期間のこと なら、ちゃんと覚えることだってできてたんだからな」 津川は苦い表情でそう言うと、信号が変わるのを待って静かに車を発進させた。 「でも、そのうち俺にもわかった。十数分と数か月の違いがあっただけで、彼の記憶のメ カニズムは、やはりもう正常ではなかったんだ」 「記憶障害か : き 青木は声を落とした後、ためらいながら訊いた。 「しかし、その手の障害なら、事故以前の記憶は残っているもんじゃないのか ? 事故は