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検索対象: 黄金の日々月夜の珈琲館
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1. 黄金の日々月夜の珈琲館

128 「どうも初めまして、岡野です」 軽快に言って、ペこりと頭を下げた岡野を前に、ふざけた津川にチラリと目をやった後 えしやく で、青木もまた軽く会釈した。 高校時代はそれほど話をした仲でもなかったせいか、津川に対して、青木は知的な印象 あらわ しかなかった。頭は切れるが、あまり感情を露にすることはなく、いつも淡々としていた ふ , つぼ、つ からだ。クールでスマートな風貌に反して、意外と感情表現が豊かなことに気付いたの は、職場を共にするようになってからである。 「まだ、仕事だったのか ? 少しだけ真顔に戻って、津川がねてきた。 「外来から呼び出されたりして、遅くなった。おまえも今帰りか ? 」 つら 「ああ、手術の後始末だ。ペーベーは辛いよなあ」 ふにん わかぞう 一年早く赴任してるとはいえ、医者としては津川も青木も、まだまだ若造と呼ばれても 仕方のない立場だった。病棟だ外来だと青木が使い回されていたあいだ、津川もまた手術 ほう′」う 患者の縫合でもさせられていたのだろう。 「そういえば、さっきの話の続きだけど、ちょうどおまえの話をしていたとこだったん

2. 黄金の日々月夜の珈琲館

子のような女性は、おそらくいちばん苦手な部類に違いない 「お、お姉さまの ? 」 めった 「岡野は滅多に顔を出さないでしよう ? それが久しぶりに出てきたものだから、連日付 き合いが忙しくて、断ることもできず大変だったの。相多さんにも事情を説明して承知し ていただけるよう、岡野からも頼まれていたのですけど、私のほうでもちょっとトラブル があったりして、なかなか時間が取れなくて : : : 本当にごめんなさいね」 しいえ。そんなことなら、べつにあたし : : : 」 真偽のほどは定かではなかったが、麻子のもっともらしい説明に言葉をみ込んだもの うら うわめづか の、理奈は恨みがましい表情のまま、上目遣いに岡野を睨んだ。 女性に限らず、こういう人間は苦手だと青木は思った。どんなことでも思いどおりにな , しり・レ小 きげん らないと気がすまず、自分の機嫌の悪さを表に出すことになんの配慮もない。そのくせ、 びんかん 自分が傷つくことだけには、異常なくらい敏感ときている。 々 日 どのような経緯で岡野が彼女と親しくなったのかは知らないが、一方的に言い寄られて の 金いるにせよ、悪い相手とかかわってしまった。 「ほんとにごめん。直接、自分で電話の一本も入れてたらよかった。悪かったよ」 引き下がりそうもない彼女に向かって岡野が謝ると、当然のように「そうよ」と言った たの にら

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130 昼間と違って途中で停まることもなく、静かに下降していた。 「しかし、知らなかったな。津川に画家の知り合いがいるなんて。絵の趣味なんて、あっ たか ? 」 最初に彼らを見た時から、青木は一一人の組み合わせを意外に思っていた。どちらかとい えば、確かに津川は体育会系というより文化系という感じだが、青木の知る限り、彼は絵 きようみ 画に興味を持つような男ではなかったからだ。 たの 「いや、じつは彼に絵のモデルを頼まれてるんだよ」 「モデル ? 」 きかえ いちばん、想像から遠かったその返事に、青木は思わず訊き返していた。 「そうなんです。僕がぜひにつて、津川先生にお願いして」 ねっー : というほどでもないが、素早く視線を交わした一一人を呆れたように見なが ら、青木は笑って首を振った。 「まいったのはこっちだよ。絵のモデルというのは美女しかなれないもんだと思ってた が、こんな奴でもなれるとはね」 しんびがん 「失礼な男だな。画家の審美眼にかなった俺に向かって」 ほころ 言って笑った津川につられて、岡野も目元を綻ばせた。 やっ あき しゆみ

4. 黄金の日々月夜の珈琲館

「無理って : ・ いったいなんの話なんだとねようとして、青木は質問を変えた。先ほど医局で見た写 のうり 真のことが脳裏に浮かんだからだ。 「彼らとずいぶん立ち入った仲なんだな」 「おまえの知りたいことはわかるよ」 前を向いたままなので表情まではわからなかったが、津川が身じろぐ気配があった。 「写真、見たんだろ ? そのままさ。俺たちの付き合いは、もう五年近くになる」 うそ 「五年 ? まさか : : : 嘘だろ ? とてもそんなふうには・・ーー」 「見えないだろうな。彼の意識の中じゃ、まだ出会って一年にもなってないんだから」 「どういう意味なんだ ? 」 コ = ロ葉のままだよ」 津川の答えに、青木は顔をしかめた。 日道が混みあってきた。週末の夕方ということもあるのかもしれない。そのせいかどうか いらだ 金はわからなかったが、津川の声にはわずかに苛立ちが感じられた。 「人の誣腰なんて、いもんだな」 信号を前に、スピードを落としながら津川がばんやりと呟いた。 こ つぶや

5. 黄金の日々月夜の珈琲館

うもうぶとん アイボリーの羽毛布団の中で気持ちよさそうに思いきり伸びをすると、菊地は上半身を まくらもと わずかに起こし、少し癖のある髪をかき上げながら、枕元のプラインドを操作した。プ やさ すがすが ライバシーを守りながら、朝の清々しい光が部屋じゅうに優しく射し込む。菊地は重たい 目を眩しそうに細めて、枕元の目覚ましを見た。 八時四十分。 普段ならとっくに病院にいる時刻だ。 休みの日でさえあまり遅く起きる習慣がないせいか、この時間にべッドの中にいること が奇妙でもあり、新鮮でもある。 みんな、もう仕事してるんだろうな : ・ いくら連休の振り替えとはいえ、今日が平日の金曜だと思うと、菊地は自分が社会から 離脱してしまったような罪悪感を覚えた。明日の土曜も、その翌日の日曜も休み。連休中 も仕事というのは珍しくないが、三連休は久々だ。しかも、これといって急かされる予定 日があるわけでもない。 金わずかな罪悪感は、次第に快い解放感へと変わっていった。 ふうーっと息を吐いてべッドに崩れる。大きくひとっ深呼吸をすると、菊地はわずかに からだ 身体を丸めながら再びまぶたを閉じた。温もりに身体じゅうの力が抜けていく。 まぶ

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間とで、あたしが納得するとでも思ってるの ? 「仕方がないな」 止めようと声をかけたものの、視界の隅でマスターが視線を落とすのを見て、青木は顔 を曇らせた。 , 冫 彼よ岡野の病気のことを知っているのだろう。何度かこの状況と同じような 場面に出くわしてきたに違いない。 おそらく津川は、そのたびに事態を切り抜けてきたのかもしれないが、しかしどうやっ てーーーと思うと、青木は不安を感じずにはいられなかった。 きおくしよ、つがい 「彼には記憶障害がある。事故のせいで、物事を記憶しておくことが難しいんだ。 とてもね」 「な、何よそれ」 「彼と出会った頃と今とを比べてみるといい。君が彼についていろんなことを知っていく のに比べ、彼はどうだ ? 君のことや君との約束事を忘れることが多くなってきてはいな しカ ? ・ 女は答えなかった。思い当たることがあるらしい か ) しやく 青木には、女がその事実をどう鰍釈すればいいのかわからずにいる様子が、理解でき すみ

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134 「津川のモデルぶりはどうだい ? もらものかん 貰い物の缶コーヒーを手渡しながら、青木は岡野を応接セットのあるほうへと促した。 「ちゃんと役目は果たしてるのかな ? 「それはもう。創作意欲をかき立てられますよ」 「ほおー」 岡野がタブを押し開けたのを見て、自分もまた缶を口に運びながら、青木は感心したよ うに相づちを打った。 いったいどんな顔であの津川がモデルを務めてるのかと思うと、それ以上はあまり想像 したくはなかったが、 , 彼を通して岡野と話ができるのが青木には楽しかった。岡野の表情 「しかし彼は確か手術中じゃなかったかな ? まだ三、四十分はかかるだろう」 「みたいですね。受付で訊いたら、そう言われました」 「こんな所にいてもなんだ。医局で待たないか ? 「いいんですか ? 」 うなず 頷く青木に、岡野はばっと顔を赤らめると、ソフアから立ち上がった。

8. 黄金の日々月夜の珈琲館

なあ・ : 菊 : ・ 忘れたのか ? 乃 , の切、 いっか : ・私に振り向いて くれることたけを夢みてた 私はずっと : ・朝倉を愛してた おまえを見てきたんだぞ 4 ーす おまえが私を見なくても 私はおまえを諦めることなんて できなかった : いっしょ おまえとこうして一緒に なれるのに何年かかった と田っ ? ・

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199 あとがき こんにちは、紅です。 今回も私たちの本を手にとっていただき、ありがとうございました。 前回に引き続き、再び予告から遅れた発行になり、待っていてくださった皆さんには本 当に申し訳ありません。 なんとか前作から一年後にならずにすみましたが、それでも十か月という遅筆。 うれ 楽しんでいただけたら嬉しいのですが、いかがでしたか ? 今ひとつ、うまく消化できなかった感じもありますが、今回の話はいっか書きたいと ずっと思っていたものでした。 きっかけは、昔テレビで見たドキュメンタリーです。 外国の作品で、本書で菊地が話していたような内容に加え、たくさんの実例が紹介され ていたのですが、とりわけ印象に残ったのが記に関することだったのです。 きようみぶか 興味深いというより、最初に感じたのは、親近感でした。 自分にも、過去の一部分が白紙に戻ることがあったからです。 きようれつ かかわった人たちに言わせると、とても強烈な出来事のはずなのに、記憶の中から完 全に消失しているというか : : : 正確には脳のどこかには残っているのでしようが、まるで

10. 黄金の日々月夜の珈琲館

168 「気付かなかった : ・ つぶや 青木は視線を落とすと、小さく呟いた。 だが、思い起こしてみれば、何かが微妙におかしいような感じがしなかったわけでもな あれほど話をしておきながら、いっこうに岡野に名前を覚えてもらえなかったのもそう かあ だし、個展会場での女の子とのどこか噛み合わない会話もそうだ。不安そうな表情をする つな きおく ことが多かったのも、記憶の回路が繋がるまでに時間がかかったせいに違いない。 どれも深く突きつめようとしなかっただけで、日常と非日常、正常とそうでないことの となあ 境は薄皮一枚で隣り合っていたのだ。 しかし、いったいそんな状況で、日常生活はどうしているのだろうか ? とまど 青木は戸惑ったように津川を見た。 ししよう 「生活は : : : その、どうなってるんだ ? 支障も多いだろう」 きんせんめん 「金銭面ではまったく問題はない。幸いアメリカは訴訟の国だ。勝てば補償金も大きいか らな」 津川の話を、青木は複雑な思いで聞いた。